挑戦者の物語 卒業生からのメッセージ YOU NEVER FAIL UNTIL YOU STOP TRYING.

  • 女流棋士

    香川 愛生さん

    2017年文学部卒業

    Message新入生の皆さんへ

     新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。
     新生活への期待の反面、コロナ禍などへの不安もあると思います。
     それでも、新しい物事へ挑戦するときは、より勇気の要る方を選択してみてください!
     学生時代に先輩棋士から頂いたアドバイスですが、今でも私の毎日を支えてくれています。
     皆さんにとって、自分らしく戦い切る大学生活になりますよう、心から応援しております。

    Interview

    積極果敢に挑み続ける

     「勝つことでしか自分を肯定できなかった」。
     15歳という若さで女流棋士になった香川愛生さん。その後、女流育成会(当時)を休会し、棋士の登竜門「新進棋士奨励会(以下、奨励会)」に入会※。1年半を過ごしたが、後にも先にもこれほど苦しいことはなかったと言い切るほど、孤独で壮絶な日々だったという。あまりの厳しさに負けず嫌いの香川さんの心も折れ、奨励会を退会。しばらく抜け殻のようになったというが、「棋士としての道は途絶えたが、女流棋士としてできることがあるはず」と再起を図る。拠点を関東から関西に移し、学生トップレベルの将棋研究会がある立命館大学へ進学した。
     将棋研究会のレベルの高さを目の当たりにし、圧倒されたと入会時のことを振り返る。最初は勝つことができず、プロとして情けないと自分を責めていたが、次第に「先輩たちと同じ景色が見たい。私は女流棋士としてタイトルを取りたい」と前向きな目標が持てるように。「それまでは“最善を尽くす”という意味を“100点を取り続けること”と解釈し、勝負師としてストイックに取り組んできました。しかし、勝ち負けにかかわらず、ありのままを受け入れてくれる将棋研究会で過ごすうちに、満点が取れない自分を受容し、“自分を超える”ということに軸足を置けるようになりました」。学業と両立しながら研鑽を積み、2013年に女流王将を獲得、2014年には連覇を果たすなど大きく花を咲かせた。
     20代後半を迎え、決意を新たにする。「20代前半は体験することを大切にしてきました。これからはその体験を糧に、想いを形にすることに力を注いでいきたい」。その1つとして、イベントの企画やプロデュースなどを通じて将棋の普及を目的とした会社を設立した。年齢や経験を重ねると知らず知らずのうちに守りに入り、攻めが弱くなるが、それは将棋盤の上でも同じだと香川さん。「『香車(きょうしゃ)』のように勢いを保ち、前進し続けるのが私らしさ。将棋も人生も攻めの姿勢を忘れず、生涯、『女流棋士 香川愛生』の務めを果たしたい」と目を輝かせた。
    ※将棋のプロは「棋士」と「女流棋士」で制度が異なる。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.277 JULY 2019掲載)

  • ミライロ 代表取締役社長

    垣内 俊哉さん

    2012年経営学部卒業

    Interview

    障害を価値に変えていこう

     「視線の高さは106センチ。この高さだからこそ、伝えられることがあります」。誰もが使いやすい製品や建物のデザイン、ユニバーサルデザインのコンサルティングを手がける垣内俊哉さんは力を込める。
     垣内さんは生まれつき「骨形成不全症」という骨が折れやすい難病を患う。これまでに受けた手術は20回以上。小学校5年生頃から車いすでの生活が多くなると、誰かの手を借りなければ生活できない後ろめたさから、次第に学校が遠のいた。どうしても歩きたくて、高校時代に休学して手術と長期のリハビリへ。しかし「歩くことは難しい」と医師から告げられ、夢は断たれた。「どうして自分だけ…」。病院の屋上から飛び降りようとしたが、自分の足で柵を越えることすらできずに泣き崩れた。
     歩けない自分に、どうすれば自信を持てるようになるだろう。猛勉強の末、車いすで通える立命館大学へ進学。一人暮らしをしながらホームページ制作会社で営業のアルバイトも経験した。この頃、大学で民野剛郎さん(現副社長)と出会い、2010年にミライロを起業。「大学は僕に人脈を広げ、背中を押してくれました」。企業理念はバリア(障害)をバリュー(価値)に変えること。ところが「1年目は辛かった。食べる物すらない日もありました」。飛び込み営業で「高齢化が進む今、バリアフリーで新たな市場が開拓できる」と説明し、バリアフリー改修を提案すると次第に取引先が増えるように。ミライロの社員も54人に増えた。
     起業して10年。「一番嬉しかったことは、民野(現副社長)の結婚ですね。社員や家族の幸せが、仕事の原動力なんです。一番身近な人を幸せにできなければ、社会を幸せにすることはできませんから」。2016年4月、障害者差別解消法が施行され、2021年には東京パラリンピックが開催される。この波に乗り、日本をユニバーサルデザイン先進国にしたい。その先には、環境が整備されず外にも出られない世界中の人たちが見えている。「いつか自分に子どもができたら、こう伝えたい。『車いすだから、できることもあるんだよ』って。子どもがそう思える社会をつくりたいのです」。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.265 JULY 2016より一部変更し、掲載)

  • 華道家元池坊 次期家元

    池坊 専好さん

    2012年文学研究科修了

    Message新入生の皆さんへ

     ご入学誠におめでとうございます。
     コロナ禍で厳しい状況下で、考えたり経験されたことは必ず未来に繋がる力となります。
     そこにあるのは、なぜ生きているのか、なぜ学ぶのか、どう生きるのかという人としての普遍的な問いです。学生生活で自分自身と向き合い、周りから多くの刺激を受け、大きく成長してくださるよう期待しています。

    Interview

    いけばなは自分との対話

     「野村萬斎さんが演じられた、『萬斎専好』がとても好きです。執行(しぎょう)でありながらも格式ばらず、花を生けることを純粋に楽しみ、また、花を介して人々と交流することを好む。私も萬斎専好のように、融通無碍でありたいと思います」。そう語るのは、華道家元池坊の次期家元である池坊専好さん。2017年6月公開の映画『花戦さ』は、室町時代後半に生きた花僧の池坊専好(初代)が京都の町衆の代表として、時の権力者である豊臣秀吉の乱心に刃ではなく、花をもって敵討ちをするというストーリーだ。
     映画では、僧侶たちが花を生けるシーンがある。花と向き合うことで心が落ち着き、心が整う。そして、表現したい姿に近づくための取捨選択をする。僧侶たちは自分の心を見つめ、感性を研ぎ澄ますためにもいけばなを嗜んだのだろう。
     いけばなの家に生まれ、その世界に身を置き続けている池坊さんにとっても、花を生けることは楽しいばかりではないという。「生ける花には心が映ります。常に怖さと緊張感があり、その都度、試されていると感じる。だからこそ、毎日生けていても惰性にはならない。花との出会いも一期一会です」。
     いけばなの歴史を客観的な目で見直したいと思い、2010年に立命館大学大学院の文学研究科に入学。修了した今でも、日々学ぶことが多いという。「一つ習得したからといっても通過点でしかないのが、本当の勉強。学びは、身の回りに起きるすべてのことから得ることができます。私は、年長の生徒さんから女性としての生き方を学び、一瞬一瞬を懸命に生きる花から今を精一杯生きることの大切さを学びました」。
     池坊が文献に記されてから555年目を迎えた2017年に公開される映画『花戦さ』には「あらゆる多様性を認めよう、一人ひとりのかけがえのない命を尊重しよう、という大切なメッセージが込められています。いろいろな壁がつくられようとしている時代だからこそ、専好(初代)の生き方や映画に流れているメッセージが多くの方々に届くことを願っています」
    (立命館大学校友会報 りつめい No.268 APRIL 2017より一部変更し、掲載)

  • 歌手

    倉木 麻衣さん

    2005年産業社会学部卒業

    Message新入生の皆さんへ

     新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!!
     立命館大学は、皆さんの"なりたい未来"を思い描いて、色んなことにチャレンジできる素晴らしい大学ですので、学びをフルに吸収され、仲間を大切にし、将来への希望にしてください。
     大変な状況の中ではありますが、一度きりしかない大学生活を是非、おもいっきり!充実した時間にしていただけますように。
     心より、応援しています!!

    Interview

    希望をつなぐ架け橋に

     第1回京都学生祭典で実行委員を務め、平安神宮でスペシャルライブをしたのは倉木麻衣さんが大学3回生のとき。「ライブに来てくれた立命館の友人が『本当に〈倉木麻衣〉だったんだね!』と言っていて(笑)。芸能人としてではなく、同じ学生として接してくれたことがとてもうれしかったです」と学生生活を振り返る。昨年開催された京都学生祭典に15年ぶりのスペシャルゲストとして再登場した倉木さんは、京都を題材にした『Time after time ~花舞う街で~』と『渡月橋 ~君 想ふ~』を披露し、グランドフィナーレを華やかに飾った。そのほかにも「京都 嵐山一日観光大使」「京都観光おもてなし大使」「きものの日PR大使」を務め、2017年は第2の故郷・京都と縁深い1年だった。
     17歳でデビューし、あっという間に日本のトップアーティスト入りを果たした。超多忙な毎日で、仕事と学業との両立にくじけそうになったこともあったが、同級生や周りのサポートと音楽の持つ力に助けられ、やり遂げることができたという。大学卒業論文のテーマは『ライブ空間の考察』。「観客はアーティストからの発信をどのように感じ、受け取るのか、また、観客との一体感はどのようにつくっていくのかなどを研究しました。当時はまだ、ライブの経験が少なかったのですが、自分なりに考察し、紐解いていきました」。この研究でライブをする意味を深く理解し、音楽活動の幅を広げることができた、と倉木さんは話す。
     2014年には単独ライブ300回を達成したが、今でも全神経を集中させてライブツアーに挑む。「最高のパフォーマンスをするために、気持ちから生活スタイルまで、私の全てをツアーに合わせます。だから、ツアーファイナルを迎えられたときの達成感は言葉では言い表せません」。その原動力は「ありがとう」という感謝の想い。「もうすぐデビュー20周年YEARに入ります。ここまで続けることができたのは『倉木麻衣』を応援し、支えてくださったみなさんのお陰です。その気持ちを伝えたくて、全力でライブに挑んでいます」。
     2018年3月には、中国最大のポップミュージックアワード「第25回 CHINESE TOP10 MUSIC AWARDS」に日本人アーティストとして初めて出演する。歌詞には、倉木さんの等身大の想いが溢れている。日本の歌姫は、国境を超えて、言葉を超えて「LOVE&PEACE」を発信し続けていく。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.272 APRIL 2018より一部変更し、掲載)

  • Whatever Inc. CEO

    富永 勇亮さん

    2002年産業社会学部卒業

    Message新入生の皆さんへ

     みなさんは何か部活やサークルに入りますか?
     大学生活で私の記憶に色濃く残っているのは、写真部の部室の暗室の匂いと現像タンクを振った時のカラカラした音です。
     大学時代に何をやりたいかは人それぞれに違うはず。何をやっても自由で、何もしないのも選択のひとつ。でも、20年経っても残っている記憶は宝のようなものです。みんなの記憶に何が残るか?素敵な4年間を過ごしてください。入学おめでとうございます。

    Interview

    「何でも作って、ルールは無用」の
    クリエイター共同体を率いる

     「Make whatever. Rules,whatever.―何でも作って、ルールは無用。これが僕たちの信条です」。クリエイティブスタジオWhateverについて、富永勇亮さんは社名に込められた想いをこう話してくれた。学生時代、西陣の町家を守るフィールドワークをきっかけに、自分の手を動かして何かを作り上げる面白さに目覚めた。そこで大学3回生で休学し、仲間とクリエイター集団DANP unionを設立。1年後に解散したが、このとき始めた「デジタルテクノロジーとアイデアとデザインを絡めたものづくり」は富永さんが現在まで一貫して続けている仕事だ。その翌年、兄とAID-DCCを設立。Googleなどもクライアントに持ち、ウェブサイトやミュージックビデオの制作などを14年にわたって手掛けた。
     「新しい働き方やこれまでにない組織をクリエイトしたい」という想いから2014年に独立し、dot by dotを設立。クリエイターに特化したシェアオフィスを東京・渋谷につくり、フリーランスのまま組織に所属できる「Co-creator制度」や「リモートワーク」を導入するなど、先駆的なアイデアを次々と形にした。「トップダウンで決められたことをこなすのは面白くない。個人が輝ける会社をつくりたいと、若いころからずっと思ってきたんです」と語る。
     4年後、もっと面白いことをするために世界に打って出たいと考え、スポーツブランドのNIKE、ミュージシャンのレディー・ガガらと共に仕事をし、グローバルに事業展開するクリエイティブエージェンシーPARTY New Yorkと合弁し、Whateverを設立した。デザイナー、プログラマーなどの正社員に加え、音楽家、建築家、振付師、投資家といった40名超のプロフェッショナルがゆるく集まる「ギルド型組織」で、東京、ニューヨーク、台北、ベルリンに支社をもつ。
     「未来のクライアントを育てる」という発想でスタートアップへの投資も行う。「これからの時代は自らビジネスをつくり出すことが重要です。Whateverを中心にさまざまな仕事が生まれて回っていくような、“クリエイティブコミューン”をつくりたい」と富永さん。その言葉の通り、総合映像プロダクションの東北新社との共同出資による新会社を設立し、東京・六本木に8階建てのコワーキングスペースをつくった。また、アメリカ企業のKudos、Conduitと共にミュージアムや公共空間のためのインタラクティブ体験を企画・開発するクリエイティブ・ユニットを結成。富永さんはこれからも「ものづくり」を切り口に新たな働き方、生き方を“ルール無用”で構想し続ける。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.281 JULY 2020掲載)

  • ヨーロッパ企画 俳優

    本多 力さん

    2002年産業社会学部卒業

    Message新入生の皆さんへ

     新入生のみなさんご入学おめでとうございます。大学生活には色んな出会いがあります。自分も大学生時代に出会った仲間と今も劇団をやっています。自分1人だったら役者という仕事を続けることはできなかったかもしれません。仲間に出会えて有難かったです。今思うとあんなに自由な4年間だったのだからもっと色んなことやれば良かったとも思うのですが、あとからそう思うくらいが丁度いいのかもしれません。思うように過ごしているときっといつの間にか大切な人や、大切な言葉や、大切な時間に出会えると思います。是非色んな出会いを楽しんでください!

    Interview

    舞台と人を愛する個性派俳優

     「舞台と客席が一体となって創り出す空気が好きなんです」。
     京都を拠点に活動し、いまや全国で人気を博す劇団・ヨーロッパ企画のメンバーとして活躍する本多力さん。子どもの頃、母親に連れられて小劇場に通ううち、演劇の虜(とりこ)になった。「すごく近い距離で、台詞の一言ひとこと、役者の表情や息遣いまで伝わるのが舞台の魅力。役者の熱演と観客の反応によって劇場に充満するパワーに惹かれました。演じる側になった今は、目の前のお客さんのダイレクトな反応を感じるのが楽しくて仕方ありません」。
     立命館中学・高校時代はサッカーに熱中したが、大学では演劇をしようと決めていた。立命館大学の自由な学風が、それを後押ししてくれたという。とはいえ「大学の友達の前で演技をするのはなんだか恥ずかしくて」と、他大学の演劇サークルに所属。部室が隣だった縁でヨーロッパ企画の舞台にも誘われるようになり、今日までほぼ全ての公演に出演している。
     2005年に映画化されたヨーロッパ企画の人気作『サマータイムマシン・ブルース』への出演を機に、テレビや映画にも活躍の場を広げた本多さん。ひと癖もふた癖もある難役をどこか憎めない人物にしてしまう。そんな人間味あふれる演技で、多くの作品に求められるようになった今だからこそ「作品はみんなで創るもの」という想いを強くしている。「共演者やスタッフと話をするうちに、台本を読んだ時には想像もしていなかった演技や展開が生まれることも。相手次第で変わるから演技への興味は尽きません」。
     しかし2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、事態は一変した。劇団の定期公演は中止。撮影中だったテレビドラマ『浦安鉄筋家族』も中断を余儀なくされた。6月末に撮影が再開された時、「人と顔を合わせて芝居ができる喜びを改めて実感しました」と笑う。YouTubeでヨーロッパ企画の舞台を生配信し、SNSを使った演劇に参加するなど、新しい試みにも挑戦するが、「やっぱり役者やお客さんと相対してお互いを感じながら創り上げる舞台を楽しみたいし、お客さんにも楽しんでほしい」と前を向く。柔和な笑顔の奥に情熱を秘めた本多さんを再び舞台で見られる日が待ち遠しい。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.283 JANUARY 2021掲載)

  • 株式会社アドレス 代表取締役社長

    佐別当 隆志さん

    2001年国際関係学部卒業

    Message新入生の皆さんへ

     新入生のみなさん、入学おめでとうございます。これから様々な可能性に胸躍らせているのではないでしょうか?僕自身、立命館大学に入学してから人生が大きく変わったと言っても過言ではありません。そして今も自分で起業して人生がさらに拓けています。コロナ禍で大変なこともある一方で、社会が大きく変化するタイミングでもあるので、ぜひこれからの可能性を抑え込むことなく、失敗を恐れずチャレンジしてみてください。

    Interview

    場所に縛られない
    ライフスタイルを提案する

     「『人生で一番幸せです』。お客さまの言葉に仕事の意味を確信しました」
     2018年に株式会社アドレスを設立し、月々定額料金で全国にある物件のどこにでも住むことができる全国住み放題サービスをスタートさせた佐別当隆志さん。都市にも地方にも住まいを持ち、一つの場所に縛られずに暮らす。佐別当さんが提案した「多拠点居住」という新しいライフスタイルは、密かに高まっていたニーズに火を点け、瞬く間に注目を集めるようになった。
     「多拠点で暮らすと、人生が何倍にも豊かになります」。佐別当さんは多拠点居住の魅力をそう語る。「自然を満喫し、都市ではできない趣味や生活を楽しんだり、その地域に住む人々と交流したり。地域の数だけ新しいコトや人との出会いがあります」
     国際支援など国際社会に貢献する仕事に憧れ、国際関係学部に進学した佐別当さん。大学2回生の時、海外セミナーでニュージーランドに行ったことで人生が変わった。「現地の大学の授業で、社会で働く女性に仕事について伺う機会がありました。その時、目標を持ってガソリンスタンドでいきいきと働く女性から投げかけられた『日本人は何のために働くのか』という問いに衝撃を受けました」と言う。自問し続けた末に導き出したのが、「社会にプラスの影響を与える仕事をしたい」という答え。それは、どんな時も前途を照らす人生の揺るぎない軸になった。
     アドレスを起業した理由も、全国に約800万軒あるといわれる空家の問題を知り、地方が直面する課題の解決に役立ちたいと考えたからだった。同社では、全国各地の空家や別荘を活用。不動産を単に貸すのではなく、各物件に「家守(やもり)」と呼ばれる管理者を置き、地域の人々との交流や地域活動への参加を積極的に橋渡しする。「当社の拠点『ADDress』の存在が地域の価値を高めることで、利用者にとどまらず地域に住む人々をも幸福にしたい」と想いを語る。
     新型コロナウイルスの感染拡大によって、人々の暮らしに対する意識は変わりつつある。「リモートワークなどの働き方が広がり、都心の暮らしに縛られず多拠点居住を楽しむ人はもっと増えていくのでは」と笑みを見せる佐別当さん。「『ADDress』をハブとして、新しい分散型の暮らし、分散型のコミュニティを創っていきたい」。その言葉が現実になる日はきっとそう遠くない。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.284 APRIL 2021掲載)

  • ミツフジ株式会社 代表取締役社長

    三寺 歩さん

    2001年経営学部卒業

    Message新入生の皆さんへ

     挑戦し変化し続ける立命館大学での日々は、まさにこれからの時代に必要な気づきを与えてくれるでしょう。真っすぐにいかないときもあるでしょう。挫折も苦労もあるでしょう。
     その一つ一つが後から良かったと思える日が必ず来ます。あらゆることを楽しむ姿勢を持ち、積極的に取り組み、新しい時代に生きる様々な経験をぜひ得てください。
     ようこそ立命館へ。笑顔で共に未来へ進みましょう。

    Interview

    挑戦こそ起死回生の原動力

     「立命館大学で得た最大の宝物は、変わり続けるスピリット」。
     独自技術で研究開発した電気を通す銀めっき繊維を編み込んだ「着られる」センシング装置(ウェアラブルデバイス)で、心拍などから得られる正確な生体データを取得し、そのデータを独自のアルゴリズムで解析・活用してさまざまなお客さまに提供することにより、社会課題の解決を目指すソリューションサービス「hamon®(ハモン)」。この革新的なビジネスで世界から注目を集めるミツフジ株式会社が、わずか数年前まで倒産の危機に瀕していたとは想像もできない。再生を実現したのが、三寺歩さんだ。「継ぐ気はまったくなかった」と言う三寺さんが突然家業の窮状を知らされたのは、6 年前のことだった。「会社の誰もが『この産業はダメだ』と諦めてしまっている。その状況を打開し、会社を、そして故郷・京都を元気にしたいと思いました」と実家に戻った理由を語る。
     チャレンジ精神あふれる三寺さんの生き方の原点は、立命館大学にある。「新入生オリエンテーションで『大学は社会に出る前に与えられたリスクを取れる場所。4 年間を使い切りなさい』という先生の言葉に衝撃を受けました。つまりリスクを恐れず徹底的に『挑戦しろ』と。それがすべての始まりでした」。その言葉通り、在学中は海外を回ったり、当時まだ珍しかったネット書店を起業したりと、多くのことに果敢に取り組んだ。卒業後は大手電機メーカー、IT 企業などでキャリアを重ねた。
     そんな三寺さんにとっても家業の再建は、人生を賭した最大の挑戦だった。「IoTを用いたウェアラブルデバイスは次の時代に『絶対に来る』」と確信し、思い切って事業を集中。見事再生を果たした。2019 年には新たに「医療用ウェアラブルセンサー」を発売。コロナ禍にいち早く抗菌防臭素材のマスクの提供を開始したことでも話題を呼んだ。「生体データを正確に取得する技術を中核に、社会課題を解決することが当社の役割。事業領域にはとらわれません」と三寺さん。福島県川俣町、そして立命館大学とも包括連携協定を結び、川俣町で地域活性化と新産業創造を目指す取り組みもスタートさせた。「変わり続けることが会社の存続につながる。そう信じて、新しいことに挑み続けていきます」と力強く語った。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.282 OCTOBER 2020掲載)

  • ロックバンド「くるり」

    岸田 繁さん、佐藤 征史さん

    1999年産業社会学部卒業(岸田さん)、1999年法学部卒業(佐藤さん)

    Interview

    まだ見ぬ音の世界へ

     「楽しかった~?」
     9月23日、「京都音楽博覧会 2017 in 梅小路公園」のエンディングに主宰のロックバンド「くるり」の岸田繁さんが11,000人の観客に問いかけた。
     「昔のテレビで観ていた音楽番組のように、すべて生演奏で届けたい」。
     京都音楽博覧会11年目の新たな試みとして、京都市立芸術大学卒のメンバーを中心に構成された“京都音博フィルハーモニー管弦楽団” の演奏と豪華アーティストの共演による「生歌謡ショー」が行われた。生音の芳醇さに酔いしれ、興奮さめやらぬ観客は、岸田さんの言葉に鳴り止まない賞賛の拍手で応えた。
     「繁くんが『わー!』って歌った瞬間に、それまでなかったエネルギーが音にこもった感覚があって。
    このまま続けていけるかも、って手応えを感じました」と、くるり誕生の瞬間を語る佐藤征史さん。岸田さんと佐藤さんの出会いは立命館高等学校時代。立命館大学に進学後、2人が所属した音楽サークル「ロックコミューン」で初期メンバーの森信行さんと出会い、1996年にくるりが結成された。メジャーデビューが決まったときは、部室がある学生会館の屋上で「やったー!」と3人で万歳をしたという在学中のデビューならではのエピソードがある。
     2016年、くるりは結成20周年を迎えた。振り返るとメンバーと音楽性が変遷した20年であったが、周年はこれまで走り続けてきた中での給水ポイントみたいなもの、と岸田さんは言う。「変わった部分も変わらない部分もあるけれど、常に自分たちがしたい音楽に挑戦してきました。壁を作らず、ノーガード戦法でこれからもトライし続けたいと思います」。
     「よく『音楽ジャンルを越えているね』と言われますが、影響を受けた音楽のジャンルやスタイルを拝借して、自分たちらしいものを作るのがくるりのスタイル。世の中には、まだまだ知らないことや音楽があって、それと出会った驚きや喜びをくるりの音で届けられたら」と佐藤さん。
     「決まり文句は好きではありませんが……。また来年、京都で会いましょう」。岸田さんの挨拶で、京都音楽博覧会は幕を閉じた。くるりくるりと軽やかに変化をしながら新しい音の世界へと誘ってくれるくるり。次は私たちにどんな景色を見せてくれるのだろう。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.271 JANUARY 2018掲載)

  • 新日本プロレス所属プロレスラー

    棚橋 弘至さん

    1999年法学部卒業

    Message新入生の皆さんへ

     新日本プロレス「100年に一人の逸材」、1999年法学部卒業の棚橋弘至です。新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。僕自身、大学での4年間は勉強、筋トレ、アルバイトなど、とても充実した時間を送ることができました。皆さんも、学生生活を全力で楽しんでください。きっと輝かしい未来が待っています。

    Interview

    有言実行の漢(おとこ)

     「ドラマか映画に出てみたいです。セリフありで」
     数年前、そう答えていた棚橋弘至さんは、その言葉通り2018年9月21日(金)から全国で公開される映画『パパはわるものチャンピオン』で主演を果たす。「その発言をすっかり忘れていましたが、言霊が宿って返ってきたんですね。やっぱり言わないといけないな」とにっこり。この作品は大人気絵本の実写版で、棚橋さんは悪役レスラーのゴキブリマスク・大村孝志役を演じる。
     演技の経験がほとんどない棚橋さんだったが、役作りは特に必要なかったという。「主人公の大村孝志は、元・エースのプロレスラー。けがなどで第一線から退いたこともあって、ヒール(悪役)に転向しました。本当は『ゴキブリマスク』としてではなく、『大村孝志』として勝ってチャンピオンになる姿を息子に見せたいと葛藤する姿が、トップに返り咲きたいと苦悶する今の自分とシンクロして。台本を読みながら『これ、俺じゃん!』って思いました(笑)」
     棚橋さんがプロレスラーを目指したのは、立命館大学に入学してすぐのこと。岐阜県出身の純粋無垢だった青年は「プロレス同好会に入ればプロレスラーになれる」という当時の同好会会長の言葉をうのみにした。新入生の自己紹介の場でも「プロレスラーになる」と宣言し、周囲はあっけに取られたという。しかし、公言した通り在学中の1998年、新日本プロレスのテストに合格。1999年の卒業と同時に入門、同年にデビューを果たし、同好会出身の初のプロレスラーとして活躍する。
     「新日本プロレスは自分が立て直す」。新日本プロレスが低迷していた時期に棚橋さんはそう言い続け、プロレスファンからのブーイングにも屈せず、エースとして奇跡のV字回復の立役者となった。「『棚橋はプロレス界を盛り上げてくれた』とみなさん言ってくれるのですが、すでに役目を終えたと思われている気がします……。僕はレスラーとして再びチャンピオンになり、もうひと花、ふた花咲かせますんで、みなさん期待してください!立命館大学校友会、愛してま~す!」
    (立命館大学校友会報 りつめい No.274 OCTOBER 2018掲載)

  • シンクロスイマー

    武田 美保さん

    1999年産業社会学部卒業

    Message新入生の皆さんへ

     新入生の皆さん、立命館大学ご入学おめでとうございます。
     この度のご入学を迎えられるまでの1年間は新型コロナの影響で様々なことが延期、中止を余儀なくされ、例えば打ち込んできたことや取り組んできたことの成果を出す機会が失われたり、それに伴って目標を見いだせなくなったり、それぞれの葛藤があったのではないかと思います。
     しかしそんな困難の中、皆さんは自分ができることを考え、行動に移し、新たな目標を見出して今日ここに至っておられる訳です。
    自ら切り開いていける強さを既に持ち合わせた皆さんが立命館大学で大いに学び、出会い、未来へ羽ばたいて行かれることを心より期待しています!

    Interview

    シンクロとともに

     アトランタ・シドニー・アテネの3つのオリンピックで、銀・銅合わせて5つのメダルを獲得したシンクロスイマーの武田美保さん。武田さんは2018年に国際水泳殿堂入りを果たした。日本シンクロナイズドスイミング(現・アーティスティックスイミング)界から3人目という快挙だ。「多くの方に支えられ、目標点まで邁進できた幸せな競技人生でした」と21年の選手生活を振り返る。
     武田さんが立命館大学に進学を決めた理由は2つある。実兄が中学から立命館に入学し親近感を持っていたことと、立命館大学に進学したシンクロの先輩から「競技と学業の両立のために親身になってくれる」と聞いたことからだ。この頃から在学中にオリンピックを目指す選手たちが入り始め、大学側も手探りのサポートだったが、試行錯誤を経て、今に続く文武両道を支援する受け入れ体制を確立していった。
     現在、小・中学生のシンクロの指導している武田さんは、世界で戦う選手には身体的要素に加え、‘心の才能’が必要だと話す。「師である井村雅代コーチも言っていますが、目標に向かって課題を解決する力や、信念や執念、これらは本人にしかつくれないもの。この才能は幼少期から関わる親や周りにいる大人によって育まれるものです」。かくいう武田さんも実母との関係が大きく影響したという。「母は言葉にできない気持ちも表情などから読み取り理解してくれる人で、幼い頃から私を支えてくれました。チーム内の人間関係に悩んだときには、『出るくいは打たれるけど、出切ってしまえば打たれることはない。だから突き抜けてしまいなさい!』とハッパを掛けてくれ、奮起したことを覚えています」。
     選手を育てるには、自分の経験や価値観を押し付けるだけではうまくいかないと武田さんは感じている。「それぞれの個性に合わせた指導法を模索している日々ですが、教え子たちには私が感じたように『シンクロに出合えてよかった』と思ってもらいたい。欲を言えば、その中から日本代表のユニホームを着て表彰台に立つ選手が育ってくれたらうれしく思います」。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.275 JANUARY 2019掲載)

  • ロボットクリエーター

    高橋 智隆さん

    1998年産業社会学部卒業

    Message新入生の皆さんへ

     新入生の皆さん、入学おめでとうございます。このように沢山の仲間がいることを心強く思い、一方でこの大勢の中の平凡な一人に埋もれてしまう危機感を持って下さい。昨今の混乱は、社会構造の再構築を引き起こしていますが、それは皆さんにとってのチャンスでもあります。この先の学生生活において主体的にチャレンジすることで、各々が個性的に成長されることを祈念しております。

    Interview

    美学と夢をロボットに詰め込んで

     雑誌付録の部品をドライバー1本で組み立てて作るロボット「週刊ロビ」。その手軽さと、なんともいえない愛らしい姿に、近未来の存在であったロボットを身近に感じた人も多いだろう。生みの親である高橋智隆さんは立命館大学の産業社会学部出身。趣味に明け暮れ楽しい学生時代を過ごすものの、就職活動での挫折を機に、幼い頃からの夢であったロボットづくりの道へ進むことを決意した。
     ロボットづくりのこだわりを伺うと、「まず何よりも自分の欲しいものをつくること」と即答。「自分の好奇心を満たしたいから力が発揮できるし、こだわれる」と力をこめる。ロボットブームの火付け役となった「ロビ」は、15万台、300億円を売り上げた。こんな高性能ロボットをユーザーが組み立てられるのかと心配になるが、「かなり思い切って機能を取捨選択しました。いかに削ぎ落としてシンプルにし、残った要素の完成度をどれだけ高められるか。複雑な構造にしていくと、結局“何でもできそうで何もできないロボット”になってしまう。簡単な組み立てと簡単な使い方で大きな感動を与えるように心掛けました」とのこと。それはまさに、高橋さんが尊敬するスティーブ・ ジョブズが開発したiPhoneと同じ発想だ。
     ロボットブーム以前の時代から現在に至るまで、ひたすら自分の道を突き進む高橋さん。「自分の欲しいものをつくるからには完璧にしたい。意地というか、美学ですね」。夢を実現させたその姿は、輝きに満ちている。
    2016年にシャープ株式会社との共同開発で発売された「ロボホン」にも高橋さんの美学が詰め込まれている。これまで手掛けた人間型のかわいらしさはそのままに、スマートフォンの機能を搭載した。「世界で最も優れたコミュニケーションロボットだと言い切れる。海外の大手IT大企業であろうが、これを超えるものは、向こう5年はつくれない」と語る。最高の自信作だからこそ、一人でも多くの人に届けたい。今の時代、普及することでコンテンツやソフトウェア、サービスなどが充実し、世の中を席巻する。逆にそうならなかった製品は消え去っていく。最終的な目標は、近い将来街ゆく一人ひとりがロボットを手にしている光景。夢の続きはこれからのようだ。
    (立命館大学校友会報 りつめい No.269 JULY 2017より一部変更し、掲載)