石原悠子 × Christopher Johnson 教員対談

01 情報が飛び交う中で「なぜ?」
と問うことは、解決案の模索にとどまらず、
自分自身について思索することにつながる

グローバル教養学部(College of Global Liberal Arts, 略称GLA)のChristopher Johnson助教(倫理学、政治哲学、スポーツ哲学)と石原悠子助教(京都学派の哲学、現象学)に、哲学とGLAについて、そして、グローバル化が進行し、データ中心社会へとシフトする現代社会で生き残るために必要なスキルについて語ってもらった。

対談シーン

研究テーマ

Johnson

倫理学と政治哲学、その二分野の交わる部分が専門ですが、現在の研究では特に、その二分野とそれに関連する問題がスポーツ哲学の中でどのように生じるかという点に重点を置いています。最近のプロジェクトでは、スポーツにおける屈辱の問題を取り上げ、勝利を確実にした運動選手が、対戦相手に失礼な態度をとらずプレーし続けるにはどうすればよいのか、という問題に注目しました。別のプロジェクトでは、スポーツにおけるテクノロジーの役割に注目し、公平性への配慮を他の気遣いよりも常に優先すべきなのか、それとも実際にはスポーツにおいて、時には公平性をないがしろにしてもいいと考えるべきなのかについて研究しています。また、運動選手の認識的、倫理的責任や、スポーツにおいてありうる言論の自由の制限に対してそれが何を意味するのか、それらの問題も研究対象としています。スポーツはさまざまな哲学的問題を探求できる豊潤な土壌なのです。

石原

私は京都学派の哲学が現象学と交わるところに研究の重点を置いています。京都学派の哲学は20世紀初頭に西田幾多郎により始まり、現象学はほぼ同時期にドイツでエドムント・フッサールにより創設されました。西田とフッサールはどちらも、「意識に現れるがままの経験」に立ち戻ることを提唱しました。とはいえ、そのような経験はどのような性質のもので、それはどのようにして到達できるのか。ここに禅仏教の素養に基づく西田の見解の急進性を見ることができます。西田によれば、意識に現れるがままの経験というものは、主体(経験する者)もなく、客体(経験されるもの)もないような、主客の二元性に先立つものでした。西田はそれを「純粋経験」と呼びました。これは興味深い考えですが、西洋哲学の大半、そして経験というものに関する私たちの一般的な理解にも浸透している、きわめて強力な前提(主客二元論)を退けることを要求するものでもあります。現象学の研究者の中でそれを放棄しようとする人は少なく、私の課題はその人たちの見解に挑むことです。

Johnson

哲学研究者に共通する懸念として、吟味していない思い込みがいかに思考を形作り、しばしばものの見方を制限するか、ということがあります。学生たちは複数の伝統にまたがり思想と哲学を学ぶことにより、いかにものの見方が文化を反映し、その逆もしかりであるか、という理解を深化させることができます。哲学的なアプローチの本質は、常に「なぜ?」と問い続け、思い込みに異議を唱えることです。私の願いは、東洋と西洋の違いでさえ編み出されたものであるということに学生たちに気づいてほしいです。

石原

全く同感です。年をとるほど自分の思い込みを疑わなくなります。子どもの頃のように「なぜ?」と問い続け、ものごとを批判的に見ることが重要です。

対談シーン
対談シーン

GLAが独特な存在である理由

石原

グローバル社会の中のグローバル市民としての私たちの役目を探るには、まずバックボーンである私たち自身の文化を理解することが必要です。オーストラリア国立大学(ANU)アジア太平洋学部コーラル・ベル・スクールとのパートナーシップにより、GLAはそのような理解を助けるための拡大したカリキュラムを提供します。人間であることの意味に関する幅広い思索を奨励するリベラル・アーツ教育の提供に加え、とりわけアジア太平洋地域に関連する問題に特に重点を置いています。

Johnson

もうひとつ触れておきたいのは、教授陣の多様性と彼らの変化に富む国際的・異文化的経験です。この幅広い教授陣の経歴は、GLAが学生に豊かな教育環境を提供すること、そして、学生たちが教室での議論に持ち込む経験と関心の多様性によりそれが補完されることを意味します。GLAの学生は、日本とオーストラリアの両方で学ぶので、豊かな経験と有意義な触れ合いに恵まれますね。

対談シーン
対談シーン

現代社会で生き残るために学生に必要なスキル いかに批判的思考を使い、情報が溢れる現代社会に適応するか

石原

情報が溢れる現代社会に学生たちがどのように適応できるかという点では、確かに懸念があります。先ほど触れたように、「なぜ?」と問い続け、ものごとを批判的に見る能力を発達させることが重要です。

Johnson

批判的思考とは、膨大な情報がある中で、自分の考えをまとめ、雑音の中を切り抜けることが難しい、というときに使えるスキルで、重要なものとさほど重要でないものを認識しやすくなります。同時に、既存の思考法で自分を縛ることができなくなります。信用できる答えを見つけ、より良い決定を下すには、新しいアプローチを進んで受け入れる必要があるからです。

石原

同感です。関連性のある情報を見分けることはとても難しく、骨が折れるプロセスです。でも、それをやろうとして困惑するのは悪いことだとは思いません。それどころか、困惑しないとすれば、それは他の選択肢や可能性に注意を向け損なったということかもしれませんし、それによって思考が制限されているということもあります。長い目で見れば、混乱から新しい可能性が開かれることがあります。だから学生たちに混乱を大切にするよう勧めたいと考えています。同時に、すべての問いに答えが必要とは限らないのかもしれません。とは言え、どれがそうなのかを知るには、やはりある程度の批判的洞察が必要になりそうですね。

Johnson

それはおもしろいアイディアですね。私も学生たちに同じようなことを言っています。ある考えについて気持ちが定まらないということは、実は何らかの単一の答えに自信を持つよりも深い理解を示しているのかもしれません。単一の答えの方がシンプルですが、そちらの方が良い、あるいは本質を突いているとは限りません。この種の混乱について、理解できなかったととらえるのではなく、もっと建設的にとらえ、混乱を恐れないという態度をGLAの学生たちに習得してもらいたいと願っています。