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作家×教授×大学院生で話した
「ジェンダー」問題の背景にあるもの〈前編〉

取材時期:2021年

トークセッション

作家×教授×大学院生で話した<br>「ジェンダー」問題の背景にあるもの〈前編〉のサムネイル
  • 作家小野美由紀さん
  • 現代社会研究領域斎藤真緒教授
  • 院生大月隆生さん

作家の小野美由紀さんを招いて、SF作家×教授×大学院生の3人で、小野さんの著作『ピュア』を題材にジェンダーをテーマに話しました。それぞれの研究テーマや考察を交えながら、社会的課題として注目が集まるジェンダー問題の本質に迫っていきます。(2021年11月に開催したトークセッション〈トレイルラーニング〉vol.1の内容をまとめたものです)

小野

小説家の小野美由紀です。今回の話題の中心は、2年前に出した『ピュア』という短編集。表題作の『ピュア』は、「もしも、女性が妊娠後に男性を食べなきゃいけなくなったら?」という世界を描いています。今回はその作品に沿って「妊娠」「恋愛」「家族」「親子」などを、お二人と一緒に話していきたいと思います。

斎藤

立命館大学で、家族社会学を中心に教えている斎藤真緒です。こういうテーマを扱っているからか、学生さんたちから性に関する相談事を受ける機会が多くなりました。そこで「思春期保健相談士」の資格を取得し、学生さんたちのリアルな悩みに耳を傾けています。

思春期の悩みには、性だけではなく、家族に関する困りごとも多いです。家族は良いものとされていますが、家族ゆえ、近い関係だからこその難しさがありますよね。自分自身も家族の難しさにもがいているところがあるので、お互いにそこを共有して、深掘りしていきたいと思っています。

大月

立命館大学大学院の、社会学研究科2年生の大月隆生です。斎藤ゼミに所属していて、「異性間の性的同意」というテーマで研究をしています。

性的同意とは、言葉の通り「セックスする際の同意」のこと。現在、日本の刑法では「積極的に同意されたセックスだけを許されたセックスにしていこう」という流れがあるのですが、そもそも「同意がある状態」が社会的に共有されていないと感じています。そこで、「どういう仕組みで性的な同意が作られているのか」「同意があるというのはどういう状態なのか?」を研究しています。

共通テーマは「身体を境界にした、分かりあえなさ」?

大月

さっそく小野さんに聞きたいのですが、『ピュア』には、その他の収録作品も含めて、「身体を境界にした、分かりあえなさ」という共通テーマがある気がしました。小野さん自身も、身体が違うこと、経験が違うことで男性と分かり合えないと感じた瞬間はありますか?

小野

『ピュア』では、男女のコミュニケーションがまったく成立していないディストピアを描いています。女性は男性を食べないと妊娠できないという世界で、女性は清潔な衛星、男性は汚れた地球にそれぞれ住んでいる。それで女性は月に1度だけスペースシャトルのようなもので地球にやって来て、男性を捕食して性行為するという内容です。

大月さんの質問は、「『ピュア』の世界のように、現代日本の男女間に分断を感じるか」ということだと思うけど、それに関する答えは「イエス」。SNSなどでジェンダーに関する議論などを見ていても、「男女の意識にはかなり隔たりがあるなあ」と感じます。

実際、『ピュア』の世界は、今の日本とそこまで乖離していないと思うんですよね。『ピュア』は一見、女性にとってのユートピアのようですが、実際は国家から自己決定権を剥奪され、生殖行為を強要されている。日本でも、女性の性の在り方が国に管理されている、押しつけられていると感じる瞬間があって、それをメタファーにしたのが『ピュア』なんです。

大月

現実とそれほど離れていないというのは、読んでいてすごく分かりました。単なるディストピアじゃなくて、きちんと現実とリンクしている。そこが共感のポイントでした。

例えば、「女性がペニスを呑み込む」という言葉が出てきます。この「呑み込む」という表現は、2017年に強姦罪を再定義する際、審議会で議論された言葉でもあります。今まで、法律の場では「ペニスを挿入する」と言い方にしていたのですが、それでは男性が加害者側として固定されてしまう。そこを「ペニスを呑み込む」という言い方にすることで、男性も被害者として成立するのではないかというやりとりがあったんです。

小野

私、「女性は男性にペニスを挿入される存在」という性の価値観に疑問があるんですよ。以前、AVの撮影現場を見学したことがあるのですが、そのときの内容が「男性の性器に女性が一度も触れないまま射精させる」といったもので、AV女優の方が「男性が女性を食うっていうけど、実際は女性が男性を食ってるんだからね」と言ったんです。

それが私のなかでかなり衝撃的で、「社会的に固定された価値観ってもろいなぁ、変わっていくんだなぁ」って思いました。そういったこともあって、『ピュア』は自分のなかの逆襲みたいな意味で書いた部分もあります。

斎藤

私と大月さん、ほかのゼミ生達も含めて、事前に『ピュア』の感想会をしたんですよ。そのとき、『幻胎』で主人公のゼスが父を犯すシーンをどう捉えるかという話になって。実は私、あのシーンを読んだときにすごくザワザワしたんです。けれど、そのザワザワをどう捉えて良いのか分からなかった。

でも、今の話を聞いて「そういう読み方をするのか」と納得しました。私はずっと、「娘が父に管理されている」という読み方をしていました。娘が父を犯すのは、「認めてもらいたい」という気持ちの逆転で、一種の復讐のように捉えていた。でもあれは単なる復讐ではなく、女性が主体のセックスだったってことですよね。すごく納得です。

小野

古今東西、息子の父殺しの話はあれど、娘の父殺しの話ってあまりないなと思ったんです。でも私としては「娘が父を殺しても良い」とずっと思っていたので、それも含めて普遍性に対する逆襲性を描きたかったのが『幻胎』です。先生はどこにザワザワを感じたんですか?

斎藤

娘が父を犯す前に、「年頃の娘を持つ父親を集めて、娘の首から上を隠したヌードの写真を見せると全員残らず勃起したらしい」って会話する女の子達のシーンがありましたよね。ほかにも、父が自慰行為後に娘の名前を口にするようなシーンがあったり。これってすごく刺激的な問いかけだなと思いました。

社会学では、「親子だから性的対象にならない」という前提がまずあって、親子間のセックスは「あるべき親子像からの逸脱」として捉えられていますが、私はその認識に常々疑問を感じていた。『幻胎』を読んで、もっとさまざまな捉え方ができるんじゃないかと再認識しました。

名前を剥奪されて別の生き物に?

小野

自分が妊娠中で、これから親になるということもあって、斎藤先生の「親性」の研究にすごく興味があります。親の先輩として色々なお話を聞きたいなと思っています。

斎藤

私には2人の息子がいるのですが、実際に親になったことでまなざしが変わり、研究に関する考え方も大きく変わりました。小野さんも、妊娠を経験して考え方が変わったり、驚いたりすることがあったりしたんじゃないですか?

小野

日々驚きの連続です! 最初に衝撃だったのが、産婦人科で自分の名前が呼ばれなかったこと。私が通っている産婦人科では、妊婦さんを全員「ママ」と呼んでいて、何をするにも「ママ、○○してください」と言われるんです。

私は小野美由紀という名前でこれまで生きて、仕事をしてきたのに、いきなり名前を剥奪されて「ママ」という別の生き物にされてしまった。まるで『千と千尋の神隠し』の千尋ですよね(笑)。そんなこともあって、妊娠すると「ママ」という檻に強制的に閉じ込められて、親の自覚とか責任に絡め取られていくんだなって思うようになりました。

斎藤

大学院に進学したばかりの頃は、「自分の研究をスタイリッシュに説明しなきゃいけない」という強迫観念がありました。さまざまな理論を知っていて、かっこよく使いこなせてこそ大学院生だ! と(笑)。でも実際に自分が親になったとき、その理論がいかに空虚だったかを実感するようになり、そこから「身の丈にあった研究をしよう」という考え方に変わりました。リアリティがないと意味がないなって。

小野

ご自身の研究内容と、実際の体験に差異を感じられたってことですね。

息子の出産を経て研究への姿勢も変わった

斎藤

初めて出産した長男がダウン症だったんです。妊娠初期に超音波検査をしたときにダウン症かもしれないと分かって、お医者さんから「中絶可能な期間はあと2週間なので、出生前診断をしてください」と言われたんです。

当時、38歳の高齢出産で、さらに流産の経験者だったので、なにがなんでも子供を産もうと考えていました。それで、出生前診断はせずに妊娠を継続したのですが、妊婦時代はずっと心がざわついていました。私は今まで、授業を通して出生前診断やダウン症の子供が産まれる確率について教えてきたのに、それがいざ自分の身に降りかかると、頭が真っ白になってしまうんだなと思いました。

いざ蓋を開けてみると息子はやっぱりダウン症で、私、それが分かったときに泣いてしまったんです。自分のなかできれい事として教えていたことと、それを実際に受け止めることにかなりの乖離があった。そこで、リアリティを通した、身の丈にあった研究をしていこうという姿勢に変わったんです。

小野

私も出生前診断ではかなり悩みました。その頃、オリンピックの時期で、小山田圭吾さんの障害児に対する過去のいじめや、メンタリストDaiGoさんの「ホームレスはいらない」という発言が話題になっていて、世間から「優生思想」と大バッシングされていました。でもいざ自分が産む立場になると、一概に「優生思想は良くない」と言えないことに気づいて。

例えば、出生前診断で障害児だと分かった場合、私はそれを受け入れ、産み育てることができるのか。そもそも出生前診断自体が優生思想だという考え方もあるなかで、自分のために診断を受けたいと考えることは倫理的にどうなのか。今まで考えもしなかったような命のリアリティや、生きることのリアリティが一気に降りかかってきました。

斎藤

妊娠と出産を経験したことで、自分自身の優生思想が剥き出しになったな、と。当時を振り替えると、私を一番追い詰めていたのは「お母さんががんばらなきゃ」という、自分自身の気持ちだったように思うんです。あのとき誰かが「障害のある子は社会のみんなで育てるので、気負わなくても大丈夫」と言ってくれていたら、私はあんなに泣かなかったはず。親であること、母であることが自分の責任を倍増しにしていて、それが自分の息苦しさにつながっていたように思います。

小野

わかります。私も、社会から「子育ては親が頑張るもの」というイメージを押しつけられるのがすごく嫌だった。出生前診断で悩んだのも、障害児の母になることを恐れたんじゃなくて、社会から自分の親の愛が試されるのが怖かったから。「障害児が生まれても、お前の親の愛でなんとかしろ」と言われるような恐怖感がありました。だから、親の責任というものに葛藤を感じていました。

<後編>に続きます