冷戦時代が終わりを告げようとする1988年、国際関係学部は誕生しました。
世界がグローバル化へと進む中、立命館大学も大きく変わろうとしていました。
そんな時代の節目に立ち会った先生方による国際関係学部開設秘話をお届けします。

語り手:井上純一先生、及川正博先生、中野雅博先生
聞き手:君島東彦学部長、河村律子副学部長
2016年10月14日(金)

立命館大学変革の転機となった国際関係学部の創設

君島 1980年代は立命館大学が大きな変革を遂げた時期です。数々の変化をもたらした転機の一つが、1988年の国際関係学部の創設でした。大学にとっては1965年に産業社会学部を創設して以来、約20年ぶりの新学部の開設でもありました。国際関係学部は、どのような理念で作られたのか。当時のカリキュラムや教育はどのようなものだったのか。まず井上純一先生に創設までの経緯を語っていただきたいと思います。

井上 純一
井上 純一 在任期間:1988年4月1日-2007年3月31日
設置準備の当初から創設準備に携わり、趣旨・構想やカリキュラム作成の責任を担い、創設後は大学院設置に取り組む。
学部長(1996年度、1997年度)、学生部長、常務理事を務めた。
専門は、社会学、反ユダヤ主義研究、現代思想など

井上 国際関係学部設立の具体的な計画は、1980年代初めの第3次長期計画で始まりましたが、発端はその少し前、1979年の全学協議会でした。1981年度末に広小路キャンパスから衣笠キャンパスに全学部を移転する衣笠一拠点事業が完成するわけですが、キャンパスの移転完成にあたって、これから大学をどのように発展させていくかが大きな議論となりました。社会的なニーズも考えながら学部学生数削減と学園規模をどの程度にするか、また規模と合わせて長期的で安定的な財政をどのように確保していくかなどといった課題が挙げられ、それらが第3次長期計画を策定する際の議題になりました。
第3次長期計画で考えられたのは、大学の将来を見すえた創造的な改革として、「情報化」「国際化」「開放化」を進めようということでした。「情報化」としては理工学部に情報系学科を創設することが決まり、次に「国際化」を進めるために新しくどのような学部を作るかが話し合われました。国際関係学部か人間科学部のどちらを作るかで議論が交わされましたが、最終的には当時の天野和夫総長のリーダーシップで、国際関係学部を作ることが決定しました。1984年のことです。その後、1985年2月に国際関係学部設置準備委員会ができ、私もメンバーに加わりました。1986年5月に新学部設置を文部省(当時)に申請。2年にわたって法人審査と教員審査を受け、認可されました。

「平和と民主主義」の理念に沿い、これまでにない教学を作る

君島 どのような学部を構想したのですか。

井上 社会的な要請にも応えて学生数など立命館大学の規模に関わる問題を解消するとともに、既存の学部にはない新しい教学を作り上げる、さらには立命館学園の社会的評価を高めるようなアピール力も必要だと話し合いました。そうして議論を重ねた結果、政治・法、経済・経営、文化・社会の3つのコース制とし、学際的で総合的な学部とすることが決まりました。また京都に位置する大学として、京都を基点とした地域研究を推進することや実践的語学を教学に取り入れることなどを構想しました。
カリキュラムを編成するにあたっては、「平和と民主主義」という教学理念に沿い、またそれまでの平和研究の成果も活かし、差別や偏見を解消する教育を実践すること、さらに経済・経営系では途上国の経済課題等も教学の柱に置くことも決まりました。また理論的・原理的な科目も学んでほしいと考え、そうした科目を揃えました。語学に関しては、英語を重視しながらも、他の外国語の習得も求めました。こうしたカリキュラムを通じて、総合商社や国際的な機関、あるいは外交官などに挑戦するような学生を育成しようというのが私たちの狙いでした。

君島 学園規模の課題を解決することを考えたとのことですが、学生定員は何人を想定したのですか。

井上 学生定員は160名。また教員審査時に申請した教員数は42名でした。

君島 学生160名に対して教員が42名とは非常に多い。それほど手厚い教育体制にするとは画期的ですね。

井上 当時、国際関係学部の設置に際しての教員数は、教養学部基準が適用されることになっており、社系学部よりもはるかに多くの教員が必要でした。しかし 設置基準よりプラス2名して申請しました。

君島 国際関係学部が開設した後、1995年にびわこ・くさつキャンパスができたのと同じ時期に、西園寺記念館も建設されました。国際関係学部のキャンパスとして西園寺記念館が使われた経緯はどのようなものだったのでしょうか。

井上 国際関係学部を創設するにあたっては、一般からの寄付にも助けていただきました。「立命館創始120年・学園創立90周年事業」の一つとして国際関係学部は位置づけられました。「西園寺記念館」という名称は、西園寺公望が「国際主義」を謳い、日本の国際化を担ったことから、大学創立の源であり、大学全体の精神を表すものとしてつけられ、国際関係学部の教学の主旨から西園寺記念館を国際関係学部が使うことになりました。

河村 それまでは西園寺家と立命館大学の結びつきは表に出していませんでした。立命館学園と「西園寺」との関わりを表明したのはその時が初めてでしたね。

実践的な英語を使える人材を育てたい

君島 次に及川正博先生から、語学教育や異文化コミュニケーション教育など国際関係学部の草創期の教育についてお話しいただきたいと思います。

及川 国際関係学部は、「立命館を国際的に」という時代の要請の中で生まれました。当時は社会でも「国際化」や「国際人」などという言葉が盛んに飛び交い、語学に関しても、「言葉を実践的に使える人間を育てる」という社会的要請が次第に大きくなってきた時期でした。国関における英語教育の独自性と学部生をできるだけ多く海外留学させるという課題が、我々に課せられていたと思います。そこで「英語を使ってコミュニケーションが取れる」ことを目標に「使える英語」の教育について議論しました。受験英語の弊害があり、新入生に「聴く」、「話す」といった実践的な英語力を身につける教育にどのように移行させるかが大きな課題でした。そこで導入したのが、ネイティブ教員による、英語を「話す」「聴く」「書く」教育です。日本人の英語教員もできるだけ多くの視聴覚教材を使って、生の英語を聴かせるように努力しました。ネイティブスピーカーを常勤の教員に招いたのは、立命館大学でも初めての試みでした。

及川 正博
及川 正博 在任期間:1988年4月1日~2009年3月31日
本学部生の英語力向上のために新しい授業プログラムの開発などに寄与。
また大学院教育においても、海外留学の拡大など国際化に尽力。
専門は、アメリカ文学、現代アメリカ演劇の研究など

実際の英語のカリキュラム作りでは、まず1回生で短期集中的に語学を教え込もうと考え、「英語Ⅰ」から「英語Ⅲ」まで設定しました。具体的には「英語Ⅰ」と「英語Ⅲ」を日本人教員が担当し、英語の論理構造を中心に英語の読み方を教えます。授業では、環境問題や異文化コミュニケーションなどいわゆるグローバルイシューを扱った多様な文献を徹底的に読ませる「多読」を心がけました。他方「英語Ⅱ」は外国人教員が受け持ち、「スピーキング」を中心に教えました。授業中はすべて英語ですから、学生は英語で考える力が鍛えられたと思います。より長い文章のライティングを中心とする「英語Ⅳ」は、2回生に設定。ここでは「環境問題」や「開発問題」などについて英語でエッセイを書き、ネイティブ教員が添削。よくできたエッセイを精選し、エッセイ集も作っていました。こうしたこれまでにない取り組みは他学部にも波及。政策科学部や経済学部でも、英語でのエッセイ作文集が出されました。さらにスピーチコンテストを開催したり、全学部を対象としたディベート大会の口火を切ったのも、国際関係学部でした。

豊富な語学の授業、少人数制、画期的な挑戦が成功した

中野 基礎的な英語に続いて編成したのが、「専門英語」の授業です。国際関係学部で学ぶうちに学生は、地球全体の問題や異文化理解・異文化コミュニケーションについてなどさまざまなことに問題意識を持つようになります。そうしたグローバルイシューに関する資料を読み、プレゼンテーションやディスカッションを行う授業を展開しました。さらに4、5年後にはTOEFLを導入。当時は帰国生と学生のリスニングレベルに差があったことから、クラスを分けて教えていました。

及川 帰国生徒の入学が増え、リスニングを始め英語の理解力に差が出たのが、クラス別編成の導入でした。

井上 語学の授業数を圧倒的に多くする他、少人数制、短期集中講義といった画期的な取り組みに挑戦し、効果を上げましたね。

及川 短期集中ということですが、後に2回生配当の「英語Ⅳ」を1回生にもってきて、さらなる集中方式とし、2回生以上に「専門英語」を設定し、第二外国語の授業も同じ方式が採用されましたよね。

中野 雅博
中野 雅博 在任期間:1988年4月1日-2010年3月31日
APU副学長を2005年~2008年務める。
国際関係学部のインターンシップ支援、APUの発展にも寄与。
専門は、主にアメリカ研究、人文地理学など

君島 現在は交換留学制度も充実しています。始めたのはいつ頃でしょうか。

及川 1992年頃、国際センターの設立と足並みを揃えてアメリカの大学と協定を結んだのが始まりです。国際センターの先生方が中心となってカナダのブリティッシュ・コロンビア大学(UBC:The University of British Columbia)と交渉し、その後アメリカのアメリカン大学との関係も具体化していきました。DUDPを作ったのは1992年。

君島 それが今では100を超える大学と協定を結んでいるのですから、すばらしい進歩ですね。

河村 今では第二外国語に関しても、全学でフランス語や中国語、スペイン語も教員を置いていますね。国際関係学部で初修で履修できるのは、中国語、朝鮮語、スペイン語、ドイツ語、フランス語の5つ。専任の教員はいませんが、ロシア語やアラビア語は2回生後期から履修できるようにしています。

及川 折々で新しい国際プログラムも作っていきました。言語習得センターで留学に必要な「TOEFL講座」も開設。私も夏休みや冬休みに教えました。国関でディスカッションやディベートを通じて、英語で授業を進めるのは、教員にとってもとてもやりがいのあるチャレンジでした。国際関係学部の教員だからこそ経験できたと思っています。

「国際関係学」と「地域研究」ディシプリンの両輪を立ち上げた

君島 続いて中野雅博先生、国際関係学部の地域研究・教育についてお聞かせください。

中野 私が立命館大学に赴任したのは、1981年のことです。専門だった文学部地理専攻ではなく、新しくできる国際関係学部の創設に携わると聞いた時は驚きました。国際関係学部はディシプリンがあいまいなところがあり、当初は学生にも戸惑いがありました。「国際関係学部で何を勉強したのか」と尋ねられても答えられず、自分の専門性に自信の持てない学生も少なくありませんでした。また本学部をよく知らない人から英語教育だけが存在理由のように誤解されることも懸念していました。そこで国際関係学部のディシプリンの二本柱として、「国際関係学」ともう一つ「地域研究」を設定しました。とはいえ、「地域研究」を冠するには、世界の幅広い地域を網羅する必要があり、数多くの専門家を必要とします。最初は「私立大学の一学部では難しいだろう」との見方が大半でしたが、少しずつでも理想に近づけていこうと考えていました。
さまざまな地域研究科目の中でも私の専門であるアメリカ研究は人気で、多くの学生が受講していました。特徴的だったのは、受講生の実に7、8割がアメリカや韓国、東南アジアなどへ留学・旅行するなど積極的に海外に出て行ったこと。今では海外へ行く学生が驚くほど減っていますが、20歳前後の若い時期に言葉の通じない外国で異文化に触れる経験は、必ず成長につながると思うので、ぜひ今の学生にも海外に行ってほしいですね。留学を経験すると、学生は自分の意見をはっきり言えるようになります。学部のゼミや大学院の授業でも、留学経験のある学生が混じると、活発なディスカッションになりますよ。

君島 さらに中野先生は、立命館アジア太平洋大学(APU)に勤務した経験もあります。APUと立命館大学とを比べて思うところはありますか。

中野 2000年に開学して間もないAPUに4年間赴任したことで、私自身の視点もずいぶん変わりました。ちょうど日本の教育システムがパラダイムシフトを迎えていた時期。1990年代までは学生に「教える」「理解させる」教育が主流でしたが、アメリカの教育を取り入れたAPUでは、最初から学生自ら問題を発見し、政策を提言したり、ディスカッションやプレゼンテーションを行うなど、いわゆるアクティブラーニングを展開していました。
こうした教育法に加えて、もう一つAPUで教わったのは、「ネイティブイングリッシュにこだわる必要はない」ということです。当時の日本の英語教育では、アメリカ英語やキングス・イングリッシュを身につけることが良しとされていましたが、APUでは全く違いました。アジアから来た学生が話すのは、なまりの強いローカル英語。それでも皆イギリスやアメリカの文献をしっかり読み込み、活発に議論していました。その姿を見て以来、立命館大学国際関係学部の学生にも「ジャパニーズイングリッシュでもいいから、ためらわずに自分の英語で意見を言いなさい」と指導しています。こうしたAPUのいいところを国際関係学部の教育にももっと取り入れられたらと思いますね。

君島 APUへの交換留学制度もあります。そうした制度を活用してAPUと国際関係学部の学生がもっと活発に交流し、互いのいいところを学び合ってほしいですね。国際関係学部創設から草創期、さらに今日の課題にまで話が及び、貴重な経験談を聞かせていただきました。本日はありがとうございました。