母校訪問とTESOL'96参加

はじめに


平成8(1996)年3月24日(日)〜4月1日(月)まで久しぶりに渡米の機会を得た。佐々木前学長のご配慮により人文社会系内に配分された委任経理金の一部を得て、旅費を出していただいたからである。今回の渡米先は、1978年に卒業後一度も訪問する機会のなかった母校(The University of Kansas)と1982年に参加したハワイ大会についで2回目のTESOL(Teachers of English to Speakers of Other Languages)1996年度シカゴ大会への参加であった。

名古屋からロ−レンス(Lawrence)へ


3月24日(日)は朝5時起きにて、6時10分豊橋駅発の名古屋空港へ向かうエアポ−トバスに乗車。8時前に名古屋空港に到着。日曜日の国際線はかなり混雑していたが、少し出発まで余裕があると見て、クレジットカ−ド会社の休憩所にてしばし休んで、再び出国手続をしようと戻ってみると、長蛇の列。かなり焦ってしまったが、結局出発7分前にJAL054便に乗船できた。Executive seatにて短くも快適な成田までの旅を隣に座った米国経由でベネズエラへ出張のクボタ(株)の方と会話を楽しんだ。ほぼ予定時刻の10時5分に到着。
成田では、すでに出国した状態であったため、制限された場所にしかいられず、12時30分発までゲ−ト付近のロビ−で本を読んで過ごした。シカゴへの直行便であるJAL10便へは12時頃乗り込み始め、ほぼ満席の状況であった。春休み中ということもあってか、結構家族連れも多かった。アラスカからカナダ上空を経由しての11時間20分という長い飛行時間の末、発着数では世界一多いとされるシカゴのオ−ヘア国際空港(O'hare International Airport)に到着。
入国検査終了後、途中のAA(American Airline)カウンタ−でス−ツケ−スを預け、カンサス・シテイへの乗り換えをしようとしたら、搭乗券がもらえず。出発ゲ−トへ行けば、問題なくもらえるからということで、早速国内線へ移動し、指定されたゲ−トへ行くと、まだ出発時間にはほぼ2時間程あり、その前に出発する便の手続作業中で、筆者の乗る便(AA1487便)への手続きは11時20分頃始まるから待てとの指示。手続が開始されるや否や、早速並んでみると、定員以上に予約を受け付けている状況のオ−バ−ブッキング(Overbooking)の状態。結局、夕方の便に移動してくれる人には、いつでも使える500ドル分の無料乗船券と後発便への席の確保を条件とした席の譲り渡しを要請。これで結構な数の確保ができたようで、出発10分前(11時40分)に筆者も何とか席を得られた。搭乗券ではなく、何と搭乗券に貼る座席番号の小さなシ−ルだけ手にしたのである。本当に心配させられた数時間であった。米国では当たり前のようではあるが、何とも馬鹿らしい営業スタイルである。きちんと予約して満席になったら、それ以上受け付けなければよいのにと思うのは筆者だけではあるまい。アメリカならでは、いい加減な(いや失礼、大ざっぱな)サ−ビス体制が伺えた。
わずか1時間20分の飛行時間でカンサス・シテイ国際空港へ到着。母校のあるロ−レンスへのシャトルバス・サ−ビスを探してみると、ちょうどよいのがなかったようだったし、その後2泊して動き回るのに便利なレンタ−カ−を借りることにした。いくつかある中、バジェット・レンタカ−会社より借りて久しぶりの左ハンドル車を運転し、一路ロ−レンスへ向かった。生憎の雨模様の天気で、走り初めてすぐに激しい雷雨となった。普通に運転するのができないほどのドシャブリ状態で、スピ−ドを緩めながら高速道路を走っていくうちに、次第に小雨状態となり、目的地であるロ−レンスへ着くころはほぼ止んでいた。
予約をしておいたB&B(Bed and Breakfast)のThe Halcyon Houseも簡単に見つかり、チェックイン。朝食付きで一泊50ドルであったが、もちろんサ−ビス税や州税が加算され、実際は一泊68ドルくらいになった。古い住宅を改築し、ヨ−ロッパ調の内装によってリモデリングされた小奇麗な住宅であった。ダウンタウンに数ブロックであったため、荷物を部屋に運んだ後、久しぶりのロ−レンス市街を歩き回り、早めの夕食とシャワ−を済ませて床についた。長い一日だったので、かなり疲れたが、時差ぼけのせいか、翌朝まで何度なく目が覚め、体調が不十分であった。これは2日間程続いた。

18年ぶりの母校訪問

3月25日(月)は、朝食後、母校訪問をした。歩いても行ける距離ではあったが、あちこちと動き回るとなるとやはり車は便利であったし、とにかく寒い風がビュ−ビュ−と吹いていたこともあり、車で出かけた。前もって分かっていたが、母校はちょうど1週間の春休み(Spring Break)中で、学生の数は大変少なく、ガランとしていた。到着前夜にバスケットボ−ル・チ−ムがNCAA(National College Athletic Association)プレイオフ・ト−ナメントのベスト8止まりで、決勝まで進んだシラキュ−ス大学にわずか1ゴ−ル差で負けてしまっていたため、その寂しさを物語るようであった。一回りキャンパスを走り回った後、指定駐車場所に車を止め、歩いて図書館や大学書店などへ行った。

ネイスミス道路に沿った南側駐車場からキャンパスの一部をみたワンショット。

図書館では、筆者が寄付した著書3冊がきちんと置かれているかどうかチェックしたり、IBM PCによる図書検索システムを利用して図書類の検索をしたり、25年も働いているアジア関連図書コ−ナ−の担当者と話をして、しばし時間を過ごした。その後、大学書店へ行き、ロゴ入りのOB用マグカップや子供用のスエット・シャツなどの大学グッズを購入したり、テキスト・コ−ナ−や古本コ−ナ−を見て回り、異文化コミュニケ−ション関連の本2冊を購入した。いったん、お昼を食べにキャンパスを離れ、キャンパス南側の主要道路沿いにいくつかあるファ−スト・フ−ドの店のうち、メキシカン料理のタコ・ベル(Taco Bell)でセット・メニュ−の一つを食べた。昼食後、再び新しい建物が増え、充実した西キャンパスの写真を撮ったりしながらドライブし回った。
次に旅行者用小切手(Traveler's Check)を現金化しようとダウンタウンの銀行へ行ったところ、最初の2つの銀行では換金できず、3つめの銀行でようやく可能となった。観光地でない地方銀行では、アメリカン・エクスプレスのものしか扱っておらず、筆者が持参したSumitomo VISA T/Cでは口座を開設していない限り、現金化できないとのことだった。便利なようで不便さもある旅行者用小切手である。
一度、宿泊先へ戻り、少し休んだ後、カンサス・ビ−フで有名なステ−キを夕食に食べようと出かけた。ロ−レンスの町外れにあるドンのステ−キ屋(Don's Steak)が有名であったが、近いところにあるMr. Steakで食べた。量が多いことは分かっていたので、小さめのサ−ロイン・ステ−キ・セットを食べ、満足して宿に戻り、しばしCNNニュ−ス番組やちょうどやっていたアカデミ−賞番組などを楽しんでその夜を過ごした。それにしても選べるチャンネル数は34もある。あれも見たいこれもとついつい選ぶのに苦労してしまった。日本でも将来このような多チャンネルになるであろう。

再びシカゴヘ


3月26日(火)は、同宿していたロスアンゼルスからの合気道の師範という中国系米国人と会話をしながら朝食を楽しんだ後、9時半頃チェックアウトした。10時に会う約束していた母校の語学センタ−長と1時間ほど会話を楽しみ、コンピュ−タ利用の語学教育プログラムの技術者の説明を受けながら施設を見学した。ロ−レンスは神奈川県平塚市と姉妹都市交流を結んでおり、カンサス大学も神奈川大学、京都女子大学、宮崎国際大学などと交流提携をしている。そんな話を交えながら、手作りのホ−ムステイ・プログラムも計画できるなど最近の情報を入手した。施設の見学も終わり、車に戻ってみると、何と鍵が見つからない。よくよく考えてみると、急いでいたため、鍵を車内にさしたまま、ドアをロックしてしまい(いわゆるlock-outの状態)、思わぬアクシデントで途方に暮れた。しかし、そこで立ち往生していても仕方なく、近くの事務室に駆け込み、どこへ連絡すれば最善かを見いだすため、レンタカ−会社へ電話した。ところが、結局のところ、地元のキ−・サ−ビス会社に来てもらうことしか方法はなく、27.50ドルの出張費用及びドアの開け賃代金と3.50ドルのレンタカ−会社へ電話代という余分な出費でもって、なんとか解決できた。慌てると損をする良い例(Careless Mistake!)となってしまった。その後は、ロ−レンス市内のいくつかのス−パ−(K-mart, SuperTarget)を訪れ、息子に頼まれたお土産品を探しに行ったが見つからず、懐かしきロ−レンスの町を去った。カンサスシテイ国際空港へ戻る途中で、カンサスシテイ南にあるショッピング・モ−ルヘも立ち寄って探したが、そこも無駄足であった。途中ガソリンを補充した後、レンタカ−を返却した。どれだけ走っても基本料金だけでよいフリ−・マイリッジ条件で全てのアクシデントをカバ−する保険にも加入したレンタル料金を合わせた総料金は丸々2日間で144ドル余りであった。しばし空港で時間を過ごす必要があったが、夕方5時30分発のAA830便にてシカゴへ飛んだ。夕方のオ−ヘア空港は大変混んでいたこともあり、エアポ−トバスへの乗車をしばらく待たされたが、予約したビスマルク・ホテル(Bismarck Hotel)へ何とか辿り着けた。エアポ−トバスへの1ドル割引券を学会からもらっていたので利用しようとしたが、どうしてか割り引いてはくれなかった。市内のあちこちのホテルへ寄りながら筆者のホテルに着いたのは午後8時ちょっと過ぎだった。夕食をホテル内ですませ、その夜は翌日からの学会プログラムに目を通したり、テレビ番組を楽しんだ。

TESOL'96参加


3月27日(水)から29日(金)までは、基本的に30分おきに走っている学会会場となったヒルトン・ホテル(Hilton Hotel & Towers)と宿泊先のビスマルク・ホテルとの間のシャトル・バスを利用しながら、研究大会へ参加した。ヒルトン・ホテルに宿泊さえすれば、このサ−ビスも利用することなく、楽な学会参加ができたのであるが、なんせ5泊分の宿泊費差が大きく、今回は単身参加でもあり、便利さよりは安さを選んだ結果とあった。
大会会場はヒルトンのみならず、近くのラマダ国際ホテル(Ramada International Hotel)やすこし離れたパ−マ−・ハウス・ホテル(Palmer House Hotel)の3つに分かれていた関係で、それらを巡回するシャトルバスが走っていたが、1つの大きなコンベンション・センタ−で開催される大会と違って、移動時間を考慮する必要があり、やや不便さを感じた。また、その結果、聞きたい口頭発表も会場が違う故に断念することもあった。
今回は主として「コンピュ−タと語学教育」というテ−マを中心に研究発表やワ−クショップに参加し、資料収集を心掛けたが、数多いプレゼンテ−ションの中から選択するのも大変だったし、タイトルや発表要旨からだけでは判断しにくいものもあり、参加後今一つの内容かなと思わせたものもなくはなかったが、基本的に満足できた。ただ、これぞと思われる会場はすぐに座る席がなくなってしまうほど部屋が小さかったので、かなり前に会場へ行って席を確保する必要があった。ちっと遅くなって、残念ながら参加するのを諦めたケ−スもあった。「コンピュ−タ利用の語学教育」に関する発表会場は基本的にどこも満席状態で、その分野への関心の高さと時代の流れを感じた。
いわゆるソフトウエア・フェアと言われる部屋ではIBM PCとMACが各10数台づつおいてあり、CD-ROMソフトは名札と交換に借り出し、その内容がどのようなものかを実体験できるスタイルになっていた。そこでは多くのボランテイアたちが働いており、てきぱきと対応していた。こういったサ−ビスは感心ある参加者には大変有意義で、JALT(Japan Association for Language Teaching)の秋の年次大会等でも実施されている。

ヒルトン・ホテルの中のソフト・フェア会場にて

今回の大会参加で10年以上ぶりで再会した数人の人たちやひよっとしたことから知り合いになった数人もいた。それは展示会場であり、様々なパ−テイ会場であり、シャトルバスの中であったりした。過ぎ去った年月など感じさせなく、それまでの変化に富んだ人生を語りあい、思い出話や新しい研究・教育テ−マの話に花を咲かせた。また、今後も電子メイルなどを利用した連絡をし合って交流をしようと約束をして別れた。

風の吹く町ツア−

3月30日(土)は、まだ参加したいプログラムが少し残っていたが、絶対参加しなければならないというものではなかったし、市内を少しブラブラしようかと考えていた。筆者にとっては3度目のシカゴ訪問であったため、世界一の座を降りたシア−ズ・タワ−(Sears Tower)やシカゴ科学博物館(Chicago Museum of Science and Technology)など市内観光はするつもりはなかったが、日本からの知人の一人が発熱し、申し込んでいた昼のシカゴ市北部地域への観光バス・ツア−と夜のジャズ・ツア−に参加できなくなったと前夜のパ−テイで知り、急遽予約券を購入することになり、替わって参加することにした。昼のツア−は中華街と北欧街といわれる地域を歩き回るもので、それほど目新しいものはなかったが、様々な民族から構成されるアメリカ文化(サラダボウル文化)の一端を理解する上で、役立つツア−であったと言えよう。世界各地にある中華街は珍しくないが、北欧街は初めてだったので、少し歩き回った。スウ−デン菓子屋さんが特に気に入り、妻へのお土産にグラム単位で買えるクッキ−を買って持ち帰った。もちろん、日本の質の高いお菓子にくらべると、見劣りするものであったが、それなりに美味しいものであったはずである。(筆者は味わっていないので、妻の感想からしか評価できない。)

スエ−デン菓子屋さんの美味しそうなケ−キ

夜のツア−は筆者自身も大変興味のあるジャズであった。夜9時に出発し、午前1時に戻るというスケジュールではあったが、久し振りの「夜遊び」を楽しむことができた。最初はAndy's Jazz Clubという場所へ行き、つまみ(と言っても、結構ボリュ−ムのあるもので、夕食を済ませておいたので、とても食べきれなかったくらい量もあった。)と好きな飲み物が1杯ついた。飲み物は好きなラ−ガ−・ビ−ルを選んだ。やや若い人たちが中心にデ−ト・スポットとして集まっていたような気がした。特別に感動するほどの質の高いレベルではなかったが、ボ−カルも含めた約1時間の演奏を聴いて、次のJazz Showcaseという場所へ移動した。そこは少し雰囲気の異なる場所で、入場料も倍近く高く、飲み物やつまみはついていなく、各自が注文する所であった。確かに、入ると、回りにはこれまで出演した著名な演奏家達の写真がかなりの数飾ってあり、その夜のアフロ・アメリカンのサクソフォ−ン演奏者も有名人で、その質の高い演奏で約1時間ほど我々を楽しませてくれた。2つの場所をバスで移動しながらのジャズ・ツア−で45ドルであったが、シカゴらしいイべントで最後の夜を楽しめた。日本ではこういったイベントへの料金が高すぎるので、ほとんど行かないが、海外へ出かけた時には機会があれば楽しむようにしている。

帰国の旅へ


3月31日(日)は、お昼発のJAL09便でシカゴを離れるため、ホテルを9時半頃チェックアウトし、再びエアポ−ト・シャトルでオ−ヘア国際空港へ。帰国するのを悲しむかのごとく、雨模様の天気であった。しばし、他の国際空港のものに比べるとかなり小さいけれど、デユ−テイ・フリ−ショップで買い物をした後、軽い食事をしたりして出発を待った。帰路途中、気流の悪いところがあり、飛行機がスト−ンと50mくらい落ちたような状況(実際には数100m落ちた感じがした)が1度生じ、乗っていた女性から「キャ−」という悲鳴が上がった。飛行機に乗ることに慣れているとはいえ、やはりヒヤッとした一時であった。それ以後は全く問題なく、4月1日(月)午後4時10分頃無事に到着した。

日本航空の美しき乗務員代表、香織さんで〜す。この次はいつ出会えるか?

成田から名古屋へのJAL053便の出発までは少し時間があったので、空港内のお風呂に入り、疲れをとった。600円でユニット・バスではあるが、お風呂に入れ、按摩器を使えて、1時間休める(追加1時間毎に200円)というサ−ビスで長旅の疲れをとるには大変便利である。次回も利用したいと思う。

おわりに


今回の出張旅行は久しぶりの米国旅行ということで、18年ぶりの母校訪問、世界各地から約8,100人が参加した大規模な年次研究大会への参加で貴重な情報を得たりと大変有意義であった。1997年の同大会はあの大規模な遊園施設デイズニ−ワ−ルド(DisneyWorld)があるフロリダのオ−ランド市である。研究発表をしながら、家族連れの旅行もいいかなと考えているが、どうなるであろうか。

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