立命館大学図書館

   
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「第17回:偉大な作品、ずっと付き合える本」北野 圭介 先生(映像学部)

インタビュー:学生ライブラリースタッフ 橋本、江藤、廣瀬

北野 圭介 先生

北野 圭介 先生の研究概要

―― 学生時代に影響を受けた本、例えば現在の研究職に就くきっかけになった本はありますか。

直接きっかけになった本はないと思いますね。奇をてらった話をすると、本なんて無くていいんですよ。
本を読むことが必ずしも知の鍛錬の王道ではないという感性が日本においておおよそ1983年にはじまったといえるのではないかと傍若無人に発言しておきましょう。1983年というのは、任天堂のファミコンが出た年であり、東京ディズニーランドができた年であり、分かりやすくいうと、大衆消費社会に入った年です。少しばかり古臭くなった言葉を用いて、「ポストモダン」時代に入った時期といっておいてもいいでしょう。さらに言葉を継ぎ足すと、大衆消費社会の中で何が消費されるかというのは、広い意味での映像、イメージです。テレビの時代となったし、当時の日本の状況でいえば、ハイエリートの世界でさえ、映画が話題の中心となりました。文化の中心としての本というものが、文化のチャンネルのなかのたったひとつのものにしかならなくなったということです。いわば、本にとって厳しい時代が始まったのが、80年代だと思うんですね。
そうしたなかで、80年代に若者だったわれわれとしては、ものすごく重要だったのは、おそらくは映画だった。心理学やら社会学といった昨今隆盛を極めている分野はもとより、哲・史・文といった人文学、政治・経済といった社会科学の覇権をもった分野よりも、映画をちゃんと観ていて映画についてちゃんと話すことができるということが知性の要だったところがあります。だから、いかなる分野で成功しようとも、いかに偉そうなことをのたまう人物であろうとも、政治家であろうと官僚であろうと、映画についてまともに語れないままのインテリなんて二流だとわれわれの世代はいまだに心の底から思っていますよ(笑)。バブル時代の反省を自虐的に込めていえば、ですがね。穿った言い方をすると、映画のせいで大学の教員になってしまったという風なことはいえます。ですので、どの本が研究職に就くきっかけとなった本かといわれるとちょっと難しい(笑)。
もう少し付け足しておくと、1950年代とか60年代の大きな文化って確実に小説です。あるいは評論、批評です。たぶん60年代終わりくらいはもう漫画になりはじめますが(よど号ハイジャック事件において「われわれは『あしたのジョー』である」といった趣旨の言葉が発されたのは有名です)。そして、80年代は映画だった。そういった、本というものが後退していくような、時代精神を担う表現媒体の変遷のなかで若い頃の精神形成が行われたので、とりあえずそれを最初に断っておきたいと思います。
にもかかわらず、です。世の中には「偉大な作品」というものが存在している、それもストレートに信じています。大学生という時期に偉大な作品に出会わないという不幸を己に自堕落に許してしまうというのは、あまりに「もったいない」ものですよと京都弁でいっておかねばならぬということも、これもまた間違いない。

―― 学生にお薦めの本があれば教えてください。

繰り返しますが、僕としては「偉大な作品」というものが世の中に存在すると全力でもって主張しておきたい。それは映画のなかや美術作品にもあるように、哲学、文学、史学、政治経済学にもあるわけです。偉大なものに出会うというのは、僕は人生の宝だと思っています。むろん、本なんて読まなくても、本質的に生きていくことができる。検索ソフトやらPDFやらドキュワークスを使っていくことはできるわけです。それを承知でいいます、「偉大な作品」に出会うことは、かけがえのない経験であると。では、「偉大な作品」とはいったい何なのか。端的にいうと、十年あるいは二十年のあいだ自分の心に残り続けることができる、あるいは、何度読み返しても何度見直しても読み返すたびに見返すたびに、さらに新しい発見があったり新たな知見を教えてもらったりすることができるものだとひとまずは言っておくことができると思います。さきほど述べたバブル期の消費文化に抗うことができるのは、短期的消費に留まらない、だけれども、この「私」の欲望をかくも掻き立ててやまないもの、ということにさしあたりなるのではないでしょうか。そんな偉大な作品に出会うことによって、少なくとも僕はかけがえのない豊かさを身につけることができたということはいえます。
急いで付け加えておくと、この年齢になって思うのは、「古典」というのは、伊達に古典と呼ばれていないということです。やはり世に言う「古典」というのは長く付き合えるものなのですよ。歴史とか時間の審判をうけてきたということが、「古典」のひとつの定義ですけど、それは結構信頼に足るものなのかなあと。それでいえば、文庫本はすごいと思います。あの価格であの密度がある、千円以内で下手をすると一生の伴侶に出会うことができるわけです。なんというお得感でしょうか(笑)。
処世術のレヴェルの本について一言いっておきましょう。「偉大な作品」とまでいかなくても、立派な本に出会うということは、すぐれて実用的なものでもある。どういった本が頼りになるのか、どういった出版社が頼りになるのか、どういった肩書きの人間が頼りになるのか、どういった文章の書き方をする人間が頼りになるのかということが、よい読書をすることで分かってきます。情報社会になれば情報社会になるほど、情報を整理して、意味のある情報とは何であるのかということを解説してくれる、コメンテーター的な役割の人間が必要になるのは当然のことでしょう。実際グーグルなりの検索機能がかくも衆目を集めるのは、情報のガイドを誰かにおこなってほしいという都合のいい欲望の反映にほかならない。でも、重要なのは、そうしたアーキテクチャの水準での情報検索機能はすでにいつも、すべての人に共有されているということです。卓越性を少しでも求めるのであれば、自分にとってはこの分野だったらこの人が頼りになるという回路をある程度発見しておくことが不可避ではないでしょうか。これほどの情報社会の中で、誰の言葉が信頼に足るのかという羅針盤を自らに備えるようにすることが、僕は大学の4年間でなすべきことのひとつかなと思っています。生きていくための読書というか、生きていくための案内人みたいなレヴェルでの何かを自分なりに探り当てるということです。日本では今こいつらがキーパンソかなっていう人間を50人くらいは知っているという感触のないままの学生が大学を卒業していってしまうような場面に出くわすと、ホラー映画を観たときのような震えを覚えたりするかもしれません(笑)。この分野であればこの人という人を100人、200人は知っているとなるのが望ましいのはいうまでもありません。
さらにいえば、個人的な美的、倫理的判断でいえば、「快楽のために読む」という身振りも大切なものだと思っています。僕にとって、己に一番重要なものは何かというと、本を読んだり絵をみたり映画を観たり出来る生活があれば、それだけでそのほかのことがとんでもなく辛いものであったとして、人生がものすごく充実したものになるだろうという形而上的信念があります。だから、いかなるジャンルものかに関わりなく、僕は文字の連なりを読んでいるだけで結構幸せを感じることができるのです。ひどい疲れで身を横たえようとも、美しい文章の字面を目で追うだけで、心持ちが穏やかになります。少し具体的なレヴェルで言うと、近代日本の翻訳文化って「ヤバイ」でしょう。日本語なるもの自体の誘惑もあるのですが、戦前から戦後しばらくのあいだのフランス文学やらドイツ哲学、とりわけフランスの文学の翻訳の日本語の美しさっていうのは、ただごとではない。読んでいるだけで「ああ気持ちいい」というみだらな感情さえ禁じえない。20世紀フランスの文藝史を踏まえれば、ジュイッサンスと言葉を想起してさえいい「快楽」ですね。そういう美しい日本語、世界のありとあらゆる事象を心地よい誘惑の言葉といわれるような言葉で表現し得た日本語の伝統にふれるっていうのは、なんとよろこばしいことか。
最後に、もうひとつだけいっておきましょう。同時代状況をおさえないと自分の位置が把握できないっていう意味合いでの読書というものもあります。同時代状況をおさえるという意味では、20代30代でデキル人の本がバンバン出てきていて、そういった本も読んだほうがいいのではないかと思います。仮にも立命館大学生なのであれば、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を読んでいないのは「大丈夫ですか?」みたいな(笑)。「世界カメラ」の存在を知っていないに等しい、「残念」な姿勢であるといっておきたい。一番できる若手評論家といわれているわけで、広い意味での政治経済から(経営学に関わる堀江貴文との対談が某誌に掲載されてもいましたね)、サブカルの人でもあり宮崎駿のアニメを語らせようがインターネットカルチャーを語らせようがまあピカイチなわけです。ちょっと、読んどきましょうよ。そして、読んでない教員を見つけ、胸を張って笑い飛ばしてしてやりましょう。

―― 学生時代の図書館の利用頻度・利用方法を教えてください。

利用頻度といわれると「ずっと」ですね。大学院のときは寝ているときと食べているとき以外はずっと図書館にいました。
僕はアメリカの大都会のど真ん中にある大学院に在籍していましたけど、アメリカの多くの図書館は、夜中の12時、あるいは午前1時まで開いています。試験前は3時までとかね。オールナイトのところさえあると聞いています。だから、大学院生のときは、お昼の12時から閉館時間まで図書館にいました。だいたい12時間から15時間くらいは図書館にいて、そのころ本を読みまくりましたね。

―― 現在の図書館の利用頻度を教えてください。

自戒を込めていうと、限りなくゼロに近い(ただ、それには副学部長なる役職に就いていて大学業務に忙しすぎるという言い訳がましい弁明あります。結果、研究者としての勉学上の実践責任がありますので、家計的無謀を覚悟で、アマゾンなどの宅配を用い、毎年数百万円の水準での書籍購入で手当てするという悲惨な状況に陥っていますが)。ともあれ、現代は、大衆消費社会に加えてデジタル技術の時代に入ってしまったから、文字情報も本の形態に限られなくなってきていると思いますし、映像をはじめとする視聴覚情報の価値も、もはや無視できません。広い意味でのアーカイブとしての図書館がこれからどういうふうに制度設計し直していくのかというのは考えるべき点であると思います。僕は良くも悪くも自身の精神形成が20世紀ですので、紙の本に対するロマンティックな偏愛というのはいまだいささかこびりついておりますけれども、デジタル技術の中で整理されてきて様々な情報のアーカイブというのがめざましく発展してきた時代の中で受けた恩恵も大きいというのもまた認めざるをえませんし、そうした方向での展開が知の活動において加速度的に進展していくこともまた不可避だと思います。昨年出版された、蓮實重彦の『随想』という僕の畏怖する評論家が書いた本がありますが、そこに、「文字・活字推進機構」というのはまったくもってアテにはしていませんといった意味合いの文章が出てきますが、ぜひ読んでいただきたい。むろん、誰もが知っているように、活字っていうのは活版印刷機械を前提としたものであり、だとすると、この僕の研究室にある「本」のほとんど、まあ街の本屋さんの書棚に並んでいる「本」のほとんど、大学や公共の図書館の多くの「本」は、写植印刷でつくられたものです。もっといえば、昨今ではデジタルパブリッシングのものも多い。本イコール活字などという自堕落な等式を、いかほどの反省もなく用いている知識人や研究者、大学教員がいれば、思う存分軽蔑してやればいいではないですか。活字というものに、奇矯なフェティッシュを感じているばかりではいけないし、そんな輩は年齢を問わず、単に見下してやればいいのです。いっしょくたに、「活字」という名称に対するぼんやりとした無責任な態度でしか接しえない知性に何の未来があるでしょう。若者の活字離れが大変だとかと、勘違いも甚だしい暴言を喚き散らしている連中は泰然と構えて無視してしまえばよろしい。

―― 現在どのような資料を利用しますか。

現代文化を研究対象として扱っていますが、一応研究者であると胸を張りたいので、一次資料が一番重要だと思っています。批評とか評論とかに片足を突っ込んでいる僕が言うのも何ですが、批評ほどアテにならないものはありません。統計でさえ二次資料といっていいようなものです。そうではなくて、扱ってるものについて直接当事者が書いたものを読むべきであると考えています。そのような意味でいうと、署名の記載された個別具体的な言説こそが、一次資料です。畢竟、「活字」で書かれているもの、自筆で書かれている原稿や日記にも目を通す必要さえ出てくるかもしれません。さらにいえば、教養が一応ある研究者というふうに社会的に想定されているのが「知性の府」に務める大学教員であるという認識もあるので、当然のことながら、日本語と英語だけで仕事ができるわけがないとも思ってもいます。いくつかの諸外国語の文献くらい渉猟しないと世間様に申し訳ないでしょう。ですので、フランス語・ドイツ語で書かれた、映像あるいは映画関係の一次資料で言説というのを積極的に、今年は読んでいきたいなと妄想しております。

―― 他大学・外国と比較して立命館大学の図書館をどう思われますか。

概していえば、他大学に比べて立命館大学は、学生のみなさんが非常に熱心であり、学生生活を頑張っていると思います。が、それでも海外に比べると、文字情報に触れている機会が圧倒的に少ないのでないかという不安が少しあります。そこそこの外国の大学生はまあ月20冊ペースで読んでいるわけで、そうしたグローバルな競争環境でいえば、という点で不安はありますね。勉強しなければならないのなら勉強しなければならないわけで、設備がどうだとか環境がどうだとかといって勉強がはかどらないとか平気の平左で口にしてしまうのは、僕には日本特有の発想にさえ聞こえる。
衣笠図書館は、割といいとは思っていますが、あえて言うならば、開館時間は外国と比べてもう少し長くしたほうがありがたいという希望はあります。映像学部の教員としては映像資料をもっともっと増やしてもらいたいというのがありますね。

―― 図書館への意見・要望をお願いします。

少しばかりの贅沢をいえば、図書館は、心地よい喫茶店かなんかの雰囲気で、といえば言い過ぎかもしれませんが、英国でいう「コージー」な空気のなかで、本を味わうことのできる空間であればうれしいなとは思っています。本というのは、情報ツールでもあるけど、それだけではなく、先ほども申し上げたように、快楽の対象であったり、情報収集のためのコメンタリー術の確保のツールであったりもします。奥深い意味での「味わう」ということが極めて重要だと思っています。本を「味わう」ためには、殺風景なところではねえ(笑)。少しくらいは、誘惑のエロスが漂う場でなければ。古い木の机があって、照明があって・・・。僕の、保守的、アナログ的性癖が出てしまっていますが。そういう意味で無責任にいえば、衣笠図書館はちょっぴり無機質すぎるかなとも感じます。
また、制度的な面では、延滞している人には罰金を課してもいんじゃないでしょうか。一日5円とかでもいいんですよ、図書館の本は公共財というか、「みんな」の本なので、あれやこれやの特定の読まなければならない必要性がある学生の学習権利の保証のためにも、そのような制度があって良いのではないかなというようなこともふと頭をよぎったりします。

今回の対談で紹介した本

ゼロ年代の想像力/宇野常寛/早川書房/2008