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「第55回:大学は創造的な場」根津 朝彦 先生(産業社会学部)

インタビュー:学生ライブラリースタッフ 陶、福岡

2017.01.27

根津 朝彦 先生

根津 朝彦 先生の研究概要

―先生の研究分野について教えてください。

ジャーナリズムの歴史で、特に戦後の日本、1945年から1970年代ぐらいまでです。

主に論壇、知識人の世界の研究をしていて、戦後日本の論壇に決定的な影響を与えた「風流夢譚」事件を研究してきました。「風流夢譚」事件とは『中央公論』という雑誌の1960年12月号に、作家の深沢七郎によって書かれた小説がもとで起きた言論テロ事件です。小説では、主人公の夢の中で革命が起きて、天皇や皇族の首が切られてその首が転がるシーンがあります。このシーンには1958年に今の天皇と皇后の婚約が発表されて生じたミッチー・ブームや、戦後最大級の社会運動である1960年の安保闘争といった時代背景が映し出されています。その内容に右翼が怒って騒ぎになり、翌1961年に中央公論社の社長宅に17歳の右翼少年が押し入る事件が起きました。社長は不在だったのですが、中にいたお手伝いさんが社長の妻をかばおうとして刺されて死亡し、妻も重傷を負いました。この事件はもちろん一面トップ記事になりました。言論の自由を守れという声も高まったんだけども、結果としてマスメディアにおける天皇制批判のタブーに強い影響を与えた事件でした。

―その分野に興味を持ったきっかけは何ですか。

知識人と戦争責任に興味を持っていたことがきっかけです。

安保闘争の頃は、戦後日本の知識人が一番活躍していた時代です。『中央公論』や『世界』や『文藝春秋』を、多くの学生が読んでいたんです。加藤周一も有名な知識人の一人で、この頃活躍していました。私が大学生だったのは1990年代後半なんですけど、なぜ知識人がかつてのように存在感がないのかと、素朴に思っていました。

次に戦争責任についてです。私が大学生のときは、日本の戦争責任がもう一度問われた時代でした。なぜかというと、日本軍「慰安婦」の人が名乗り出て、それに対する反発が強くなったからです。日本政府も、日本軍「慰安婦」や戦争責任を認めるようになったんですが、その反動で、そういうものは自虐史観であると「新しい歴史教科書をつくる会」のグループらが強く言い始めました。でも、私は日本がなぜ戦争責任や加害責任を認めないのか不思議で仕方がなかったんです。なぜそれをすることが自虐なのか。私自身はアジアの人達に対して謝罪することは、信頼を得るためにポジティブな行為だと思っているんです。私たちの先祖がやってきたことを冷静に事実として学べばいいと思っていました。

話を戻しますが、安保闘争の直後に「風流夢譚」事件が起きて、その後知識人の発言や影響力が弱くなっていて、言論界が保守化していきました。この作品の内容は、日本の戦争責任を天皇と国民がお互いに黙って見過ごしてきたという歴史があるということを示しているんです。戦争責任と知識人を考える上で「風流夢譚」事件が重要だと思い、私は大学院の修士論文と博士論文のテーマにしました。

ちなみに、学部時代は桑原武夫を研究していて、これも「風流夢譚」事件を研究する一つのきっかけになりました。桑原武夫は京都大学の研究者、フランス文学者で、戦後日本の人文学で初めて学際的な共同研究を引っ張ったリーダーです。敗戦後から1960年代の、知識人が一番発言力を持っていた時代にジャーナリズムで活躍していた人でした。私は法政大学に通っていたんですが、恩師に影響を受けて、桑原武夫に出会いました。桑原はすごく面白い人だなと思い、岩波書店から出ている『桑原武夫集』を全て読んで、彼に関する卒業論文を書きました。そして法政大学卒業後は、京都大学の教育学部に編入学しました。

そもそも私は創造的な場に興味がありました。大学では映画サークルに入っていたんですが、高校までは私学でみんな同じような人、同じような家庭環境だったのに、大学の映画サークルには個性的な人、行動的な人など色んな人がいて、本当に面白い場所だなと思いました。個性的な人たちが集まると、おのずと創造的な場ができてくる。東京で育った私は、画一化を強める都市の風景にも違和感をもっていました。京都は歴史的な街並みがまだ残っていて、ユニークな学者、桑原武夫みたいな人たちがいたということが面白かったのです。

―学生時代に影響を受けた本を教えてください。

先ほど挙げた『桑原武夫集』と、現・法政大学総長である田中優子先生の『愛の巡礼記』です。田中先生は法政大学時代の恩師であり江戸文学の研究者で、私が決定的に影響を受けた方です。文学に影響を受けたというよりも、人間に向き合う文学者としての2人にすごく影響を受けました。

田中先生の話の中に、江戸時代の創造的な人間関係を表した「連」という言葉があります。連句を5・7・5・7・7とつないでいくときに、田中先生は「つかず離れず」とおっしゃっていました。これはどういうことかというと、逆の言葉で考えると分かるけど、言った言葉につきすぎると同じ世界になってしまって、句が面白くなくなる。離れすぎると切断されちゃって全然関係がなくなって、連句にならないということです。「連」は創造的なネットワークという意味です。創造的な人間関係に興味があった私は、そこで江戸時代の方面に進まず、ほぼ同時代の京都の創造的な人文系の研究者の人間関係に関心がいきました。

大学卒業後、1年間勉強して京都大学に編入学する前に田中先生から、「あなたがやりたいことをやった人が一人だけいる」と、伊藤整の『日本文壇史』を薦められました。森鴎外、泉鏡花や夏目漱石といった日本近代の文学者とか哲学者の人間関係を描いた話で、全18巻(瀬沼茂樹が書いた6巻を加えると全24巻)です。文壇史というのがポイントなのですが、これにはなぜその人が作家になったのか、どういう人との出会いがあって、文学者としてデビューするのかとか、その裏にはどのような人間関係があるのかなどが書かれていて、大変面白いと思いました。私は、人と人とがどのように関わっていくのか、それによってどのような歴史が築かれていくのか、というような人間関係史がやりたかったんです。そういうところで田中先生には影響を受けました。

本多勝一『中国の旅』も挙げておきます。彼は『朝日新聞』の著名な記者で、南京大虐殺を日本の人たちに紙面で広く知らしめた人でもあります。日本の侵略や加害責任の話に踏み込んでいて、目を見開かされました。同じく影響を受けた江口圭一『二つの大戦』の後書きにあったんですが、日本人は、広島、長崎の原爆や、大阪空襲、東京大空襲、沖縄戦など、やられたことに関しては平和学習をしっかりやります。しかし、やったことに対しては水に流しがちです。靖国神社をどう思うか、第二次世界大戦をどう思うとか聞かれても、日本の学生はあまり答えられないのではないでしょうか。日中戦争からアジア太平洋戦争で亡くなった日本の人は、軍人、民間人も含めて政府発表で約310万人だといわれています。一方、日本が侵略してアジアで亡くなった人は、2000万人にのぼるともいわれています。これに関して江口は、日本人の23分の3は、亡くなった人に思いをはせることも許されるにしても、日本の人たちは23分の20ぐらいの認識で侵略したことにどれだけ向き合っているんだろうか、もちろん数は象徴的なものですが、そういうことを提起する後書きでした。

その他にも、森嶋通夫『学歴・学校・人生』などにも影響を受けました。

―研究分野以外でお薦めの本を教えてください。

まず、小田実の『何でも見てやろう』。海外の一人旅の書のはしりのような本です。彼は奨学金を得てアメリカに留学した後、世界一周を計画しますが、1日1ドルで過ごそうという目標を立てて、スラム街にも行くし、エリートの人たちとも付き合っていきます。彼はなんでも大阪弁のような精神で向き合っていく頼もしい人で、シャイな日本人と全くスケールが違っていて、面白かったです。私の学部生時代である1990年代後半は、海外に一人旅というのは結構ブームだった時期でもあり、私も10代の頃に一人旅に行ってみたいなと思っていたんです。別にイギリス、アメリカに行く人たちがわるいわけじゃないけど、インドも含めて、そのようなメジャーなところだけは学生時代に行くまいと思っていたんです。やっぱり映画が好きだったので、イランに行きたいと思っていて、2年生になる前の直前の春休みにこの本を持ってイランに行きました。

次にアランの『幸福論』。これは桑原武夫によって知りました。幸福論の類を読んで幸福になるような例は少ないはずですが、アランの幸福論には幸福になるヒントがたくさん散りばめられているんです。特に「人は他者のためにも幸福であらねばならない義務がある」という言葉には影響を受けました。社会運動とか、社会貢献している人は精神的余裕がある、まず自分が幸せ、充実を感じているから、他者に行くことができるんです。これはすごく本質的なことだと思うので、そういう意味でお薦めです。

水木しげるの『ねぼけ人生』もお薦めです。水木しげるの漫画では、「フハッ」って言葉をよく主人公が言うんです。これは驚きや人生の嘆息のような何ともいえない感情があわさっていて、彼ののんびり生きたいという願望もどこかに込められていると思うんです。水木しげるは戦争で南方に行って地獄を見てきたけど、南方でののんびりした生活にも憧れていました。戦争が終わってからも仕事で死ぬほど忙しかったけれど、睡眠が凄く好きでのんびり生きることを理想にしていて。彼のその心のあり方、ユーモラスな感じが好きです。

根津 朝彦 先生

―学生時代は図書館をどのように利用されていましたか?

あまり本は読まず、映画を観によく図書館へ行っていました。しかし本への関心はあったので、興味のあるキーワードをOPACで検索しては本を見ていました。

―図書館への意見や要望を教えてください。

きれいな図書館になって席も増え、学部生にとって快適に勉強できる環境があるのはいいと思います。しかし、厳しい言葉で表現すると、自動書庫は研究図書館と相容れにくい方向性であると考えます。自動書庫に入れないので、本棚に行って隣にこんな本があるという、本との出会いが断ち切られてしまうからです。様々な本との偶然性を介する出会いによって意味の連関が生じる。その知を生み出す機能が著しく弱まってしまうのです。雑誌研究もしづらくなりますね。また、旧図書館と比べて1階のコピー機の台数が減り、1階の入り口に検索機がないのも不便です。

当然ぴあらの重要性は理解できますし、ぴあらのスペースとは別の話ですが、図書館で最も利便性のいい1階のスペースの多くを手放してしまったところも問題です。地下1階の新着雑誌とバックナンバーを別々に設置したところも、使い勝手よりもデザイン性を重視したものと私は感じます。

新図書館がオープンして前述の状況に驚いてしまい、図書館長、総長、副総長にメールをし、後日お三方に少し会話を交わせる機会があった際に直接リクエストもお伝えしました。事情は十分理解してくれ、1階のコピー機を1台増設してくれましたが、自動書庫の問題は改善が難しい点です。

旧図書館を知らない学生は上記の視点には気づきにくいでしょうし、大半は満足して使っていることと思います。しかし学問の自由をつかさどる大学の研究機能の主翼を担う大学図書館は、このような意見にも真摯に耳を傾けてもらいたいと考えています。

誤解のないように言い添えておきますが、私は、基礎演習、プロジェクトスタディ、専門演習と少人数のクラスでは必ず図書館を自ら案内し、基礎演習と専門演習ではデータベース講習の機会も設けます。図書館で新聞を読む大切さを含めて、大勢の学生に図書館の使い方や重要性を人一倍伝えている自負があります。それだけに図書館に期待する思いが強いのです。

またこれは長期的な要望ですが、図書館に24時間滞在できるようにしてほしいです。京都大学に在学時、図書館は夜の9時で閉館だったんですが、それはあんまりだと思って私は署名を集めました。一週間で学生と教員の550人ぐらいの署名を集めて図書館の館長に提出をして、開館時間が一時間延びたんです。今も京都大学の図書館は夜の10時まで開いています。京都大学ではその後動きがあって、一部のスペースで24時間利用できる自習室が作られました。

―最後に、学生へのメッセージをお願いします。

できるだけ本を買ってほしいですね。それに絡めて、学生によく言っているのですが、京都では古本祭が年に3回行われているので、4年間の学生生活の中でぜひ一度は行ってもらえれば幸いです。

今回の対談で紹介した本

『桑原武夫集』、 桑原武夫、岩波書店 、1980-1988
『日本文壇史 1 』、伊藤整、 講談社、1969
『二つの大戦』、 江口圭一、小学館、1989
『学校・学歴・人生:私の教育提言』、 森嶋通夫、岩波書店、1985
『何でも見てやろう』、小田実著、講談社 、1979
『幸福論』、アラン(神谷幹夫訳)、岩波書店、1998
『ねぼけ人生』、 水木しげる、筑摩書房、1999