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「第69回:文化が持つ教育的な意味を知る」鵜野 祐介 先生(文学部)

インタビュー:学生ライブラリースタッフ 長谷川、福田、九鬼

2019.04.09

―先生の研究分野とその魅力・意義について教えてください。

研究分野は「教育人間学」です。「教育人間学」という言葉は、あまりなじみがないかもしれません。ぼく自身は「教育人間学」について皆さんに説明する時、教育というものを学校教育に限定せず、もう少し広く考えようとすることだと言っています。学校以外の場でも教育の営みは行われています。例えば、近代学校教育が始まる前、江戸時代やそれよりずっと前から行われていた、子守唄を歌ってあやしたり、子ども同士が一緒にわらべ歌を歌って遊んだりすること、それからお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんから昔話を聞くこと、さらには、なぞなぞやことわざといったものもありますが、それを聞いて今度は自分達が使うようになる、そういった伝承的な言語文化や遊びの文化が持つ教育的な意味を考えることが、ぼくがやってきた研究です。

今話したことは歴史的な話ですが、日本だけではなく世界中においても、そういう教育的な営みはあります。そしてそこには共通するところがありながらも、社会によって違うところもあるわけです。それを比較することで、カタカナで書く「ヒト」が漢字で書く「人」になるためにどんなことが行われてきたのか、また行われているのかを考えることが、ぼくの考えている「教育人間学」です。したがって、当たり前のことだから大したことがないと思ってきたこと、例えば、遊びや歌、物語などが実は深い教育的な意味を持っているという点に気付くことが魅力であり、「教育人間学」を研究する意義だと思っています。

―「ヒト」から「人」に、というのはどういうことですか。

カタカナの「ヒト」とは生物学的な意味での「ヒト」です。お母さんのお腹の中から出たばかりの「ヒト」。「ヒト」は能力がないので、何も自分一人ではできません。同じ霊長類のチンパンジーやゴリラは、生まれて直ぐに色々な能力を持っています。人間も生まれて直ぐに一人で生きるためには、お母さんのお腹の中に本当は2年ほどいなければならないそうです。ところが1年足らずで出てくるわけです。これを「生理的早産」と呼び、無能なまま生まれます。よって、残りの1年は周りの人に助けられて生きる術を学びます。赤ちゃんは1年間周りの人から愛されることによって、愛する能力も学びます。そうすることによって漢字で書く「人」、つまり人間になっていくのです。

―先生が研究されている「伝承文学」について教えてください。また、これは今後どのように語り継がれていくと思いますか。

「伝承文学」というのは古いものだから廃れてしまうだろう、滅びてしまうだろうという見方がしばしばされます。しかし、ゲームのRPGのキャラクターにはギリシャやケルト、日本をはじめとする世界中の伝説や神話のキャラクターが登場します。それだけではなく、キャラクターが持っている能力、超人的な力でバトルをします。それからギリシャ神話やケルトの神話と同じような物語のテーマや構造を持っています。愛や戦い、協力して何かを勝ち取るというようなテーマを、人々は何千年も持ち続けてきたわけです。メディアは演劇やテレビ、最近で言えばRPGなどと変わってきていますが、物語を愛する気持ちは変わらないと思います。これを「語り」といっていいのかどうかは分からないですが、伝承・継承されていくというのは間違いないです。但し、メディアはこれからも様々な形に変わっていくと思います。

―ちなみに「まんが日本昔ばなし」でナレーターをされていた市原悦子さんの昔話への影響力というのはどれほどのものでしょうか。

「まんが日本昔ばなし」というテレビアニメシリーズは、1975年から放映が始まりました。あの番組は何度も再放送され、DVDにもなって現代の子ども達も結構観ているようですね。ぼくが皆さんに是非観てほしいのは、「牛方と山姥」という話です。市原さんの山姥の声が怖いと評判でした。それまでこの番組で取り上げられた昔話は「めでたしめでたし」で終わっていたので、山姥によって牛が食べられ、牛方もあやうく食べられそうになる「牛方と山姥」の話は「子どもに悪影響を及ぼす」という批判の声もあったそうです。しかし、子ども達はこの話が大好きで、「また見せて、また見せて」と言ったのだそうです。ぼくも時々この話を幼稚園の子ども達に紙芝居で演じていますが、子ども達の喜び方は怖い話と楽しい話では全然違います。怖い話の時は子ども同士でぴたっとくっつきあって聞き、時には一緒に聞いている先生やお姉さんのひざの上に乗ります。次第に空気も張り詰めていきます。そして話が終わった後に「どうだった?」と聞くと、子ども達は「全然怖くなかった」と威張って言います。怖い話を最後まで聞き通せた達成感があるわけです。この快感は、語り手・聞き手の双方に通じるものだと思います。そして、こうした快感を得る大人たちや子どもたちが増えたのは、恐らく「まんが日本昔ばなし」で市原さんが演じた山姥の影響だと思います。

鵜野 祐介 先生(文学部)

―先生は学生時代、図書館をどのように利用されていましたか。

スコットランドのエディンバラ大学大学院に留学していた時のエピソードをお話したいと思います。文献資料を閲覧するために訪れたオックスフォード大学のボードリアンライブラリーには、厳重に図書を保管するため、荷物の持ち込みの制限が行われていました。そして、「これを守ります。これはしません」ということを誓う誓約書があり、声に出してライブラリアンの前で読み上げさせられました。英語バージョンだけではなく、日本語バージョンもあります。私が読み上げた日本語バージョンの中に「つばをつけてページをめくりません」などとあり、「へぇー」と思いました。もちろん「本に書き込みはしません」などもあります。その宣誓書を読まされたことは、ぼくにとってとても印象深いです。

それから、留学していた1990年代初め頃は「ワープロ」、ワードプロセッサーが使われていました。ワードプロセッサーとは、パソコンの中のワープロ機能しかないマシーンです。重かったのですが、日本から持っていきました。図書館の蔵書を書き写すには手書きかワープロを使うしか方法がありませんでした。しかし、ワープロも機種によって持込できるものとできないものがありました。持ち込みできないのは、キーを叩く時に出る音が大きい機種です。ライブラリアンが実際にぼくのワープロのキーを叩いて、「これはダメ」と言われたことが印象深いです。とてもショックでした。しかし、書き写すしか方法がありませんから、何時間もかけて書き写しました。全部書き写していたら、当然ながら時間が足りませんから、ここは大事だというところだけ書き写すわけです。そうすると忘れません。コピーができない時代の学生は、そのような勉強の仕方をしていました。

―学生時代に読んで印象に残っている本を教えて下さい。

教育人間学の研究をするきっかけとなったのは、蜂屋慶編著『教育と超越』(玉川大学出版部)です。この本で、教育というものは、従来考えられている学校教育の枠だけでは捉えられないということが述べられています。学校教育というのは読んだり書いたりすることなど日常生活を営む上で必要な技術を獲得させるものですが、それだけが教育なのかということです。

『教育と超越』の中で、「技術の世界」だけではカタカナで書く「ヒト」は漢字に書く「人間」にはなれない。漢字で書く「人間」になるためにはもう一つの世界を知る必要がある。それが「超越の世界」であると述べられています。「超越の世界」というのは目には見えないけれど、そこにあると感じられる大切なものです。それは優しさや愛というふうに呼べるものかもしれないし、あるいは信じるということなのかもしれません。「技術の世界」と「超越の世界」を、編者の蜂屋先生はそれぞれ「知の世界」と「信の世界」ともおっしゃいました。「超越の世界」や「信の世界」に、子どもの時に触れさせる必要がありますが、そのための手段の一つが遊びです。遊びを通じて、「超越の世界」に触れさせることができるということを詳しく書いてあるのが、この本に収められている藤本浩之輔先生の「遊びにおける超越」という論文です。藤本先生は私が大学時代からずっとお世話になった先生です。一緒に日本国内だけでなく中国の内モンゴルへも行き、「遊びの調査」と称して現地の人と遊ぶということをしました。このことがきっかけで、私は遊びが持つ教育的意味の研究を始めました。

―この他にもありますか?

もう一冊あげるとすれば、トルストイの『人はなんで生きるか』です。岩波文庫にも入っています。なぜ印象に残っているのかというと、卒論でトルストイの本を取り上げたからです。『人はなんで生きるか』というのは民話集で、トルストイがロシアの民話を基にして再話したものです。タイトルがすごいでしょう? 4回生の夏休みに、北海道旅行の途中、友達とドライブしていたら砂利道にハンドルを取られ、車が壁に激突してひっくりかえりました。シートベルトをしていたので運よく助かりましたが、隣に座っていた友達が怪我をして、車は廃車になり、もちろんその車には乗れなくなったので列車で帰りました。その列車の中で読んだのが、この本です。(ぼくはなぜ生きているのだろう)と思いました。この本には「人にはどれくらいの土地が必要か」という話もあります。この本がきっかけで卒論にトルストイを選びました。民話の持つ教育的な意味がテーマであり、思い出とともに印象に残っています。

―学生時代に読んで印象に残っている本を教えて下さい。

絵本作家で詩人の寮美千子さんが書いた『あふれでたのはやさしさだった 奈良少年刑務所 絵本と詩の教室』(西日本出版社)です。少年刑務所にいる受刑者達は、子どもの頃から虐待や貧困の中で育ち、人間らしい扱いをされていなかった実刑者が圧倒的に多いです。そのため、刑務所の担当者が寮さんに頼み、「社会性涵養プログラム」の授業を行いました。「社会性の涵養」とは、人と人が触れ合って愛すること、あるいは怒りや悲しみなど喜怒哀楽の感情をしっかり相手に届けることを指します。また相手の持っている感情をしっかりと受け止めることも大切です。そこが「社会性」といわれるものの始まりですが、彼らにはそれが出来ていません。そこで、自分の感情を受け止め、伝えることから始めようという取り組みで、寮さんは絵本や詩を用いて、2007年から10年間にわたってこの授業を続けてこられました。

最初の授業が非常に興味深いので紹介します。『狼の子が走ってきた』というアイヌ民族のうたを題材にした絵本を使って言葉遊びをします。狼のお父さんと子どもの会話で物語が進んでいくのですが、子ども役と父親役を受刑者に振り分け、一組になって演じさせます。先生手づくりのアイヌ民族のコスチュームを着せてあげると、どのような受刑者でもその役になりきったそうです。子どもの頃に愛された経験が少ない実刑者、殺人を犯してしまった実刑者も皆初めて子どもになった瞬間です。今まで20何年間の人生で初めて子どもになれたことが嬉しかったようです。父親役の実刑者は父親像がはっきりとしない中でも、それぞれの思い描く父親を熱演しました。これが第1回目の授業の場面です。また、実刑者が作った詩を収録した『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』(新潮文庫)も出版されているので、それも合わせて読んでいただきたいと思います。

―最後に学生へのメッセージをお願いします。

「求めよ、さらば与えられん」です。求めないと何も与えられないということです。私自身も「これはやりたいな」と思ったら扉をノックして自分から入っていきました。そうすると何か与えられるはずです。何もしないでいたら、しないままです。どっちにしても後悔は残ります。こっちの道を選ばず、あっちの道を選べばよかったということは常にあります。そういった時に何もしないで後悔するのではなくて、して後悔するべきです。しておけばよかったと後悔するのではなくて、して失敗したけど「まあ仕方がないな」と…。それで次に一歩ずつ進んでいけると思います。決してしないで後悔するということはやめてください。求めてください。そうすれば、与えられると思います。

今回の対談で紹介した本

『教育と超越』、蜂屋慶編、玉川大学出版部、1985年7月
『人はなんで生きるか』、トルストイ民話集 / [トルストイ著] ; 中村白葉訳 岩波文庫、1965年7月
『空が青いから白をえらんだのです : 奈良少年刑務所詩集』、寮美千子編、新潮文庫 2011年6月