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テーマ2:人間と政治への関心の原点 ─ 丸山眞男にとっての映画

丸山幹治(中央)と幼少期の鐵雄(右)・眞男(左)、1923年、丸山彰氏提供

丸山が映画の虜となるきっかけを作ったのは、東京日日新聞記者の父・丸山幹治(1880~1955年)だった。四谷第一尋常小学校に通っていた1921~23年頃、幹治に連れられて浅草で観た尼港事件を伝えるニュース映画が、幼い丸山の心に強い印象を残した。また、映画ファンだった4歳年上の兄・丸山鐡雄(1910~88年。後にNHKのプロデューサーとなり、「のど自慢」など歌謡番組を手掛ける)の影響もあった。父や兄に感化を受けた小学生の頃の丸山は、四谷館などで「連続大活劇」やチャンバラ映画に夢中になり、東京府立第一中学校に上がると、芝園館や武蔵野館などに通い、欧米の芸術性の高い映画にも親しむようになった。戦前、中学生が映画館に出入りすることは芳しいこととされなかったが、「ちょっとばかり不良ぶる善良生」の丸山は、頻繁に午後の授業を抜け出し映画を観に行った。丸山は、成長と共に邦画・洋画を問わず様々なジャンルの映画に触れた。後年自身の映画体験を「映画が私の幼い魂のひだに分け入った多様さは、ほとんど自分でも意識化するのに困難を覚えるほどである」(「映画とわたくし」)と回想している。

東京帝国大学法学部在学時と思われる丸山、1936年頃か、丸山彰氏提供

丸山眞男が観た映画

『カリガリ博士』Das Cabinet des Dr. Caligari、ロベルト・ウィーネ監督、1920年(日本公開1921年)、ドイツ

映画『カリガリ博士』
(アイ・ヴィー・シー提供)
発売元:アイ・ヴィー・シー
価格¥1,800+税

本作は第一次世界大戦後のドイツで生まれた「表現主義」を代表する映画として知られており、傾いた建物や誇張された陰翳といった特徴をもつ美術セットによって不安や恐怖を視覚的に表現した点に特徴がある。物語は登場人物のひとりであるフランシス青年(フリードリッヒ・フェーエル)の回想として、ヴェルナー・クラウス演じる謎めいたカリガリ博士と、博士が操る夢遊病者チェザーレ(コンラート・ファイト)が引き起こす連続殺人事件の顛末が語られる。青年の回想は狂気におちいった博士が精神病院に収容されたところで終わるのだが、その直後に博士が現れ、上記の回想はすべて青年の妄想で、青年こそが精神病院の入院患者であることが明らかにされる。狂気と正気、患者と医師が入れ替わる衝撃的な展開と表現主義の美術セットは当時の日本にも大きな衝撃を与えた。

丸山はこの作品を1926年頃に新宿武蔵野館において徳川夢声(1894~1971年)の活弁で観ており、映画の内容とともに「『カリガリ博士』などは、夢声の説明と離れてはぼくのなかにないんだね」「表現派の手法もすごく新しかったけれど、夢声の説明がまたそれとピッタリ合って実際、斬新だった」(埴谷雄高との対談「文学と学問」)と夢声の活弁を高く評価している。

「ディートリツヒを語る」『四平会会誌』創刊号、1931年、丸山眞男文庫蔵

増田熊六肖像写真、加藤周一文庫蔵

『四平会会誌』は府立第一中学校1929年度の四年丙組同級生によって編まれた同人雑誌。創刊号の刊行は1931年9月と思われる。

丸山は、同誌に寄稿した「ディートリツヒを語る」という記事について、後に「私の評論(?)の処女作だった」(「映画とわたくし」)と回想している。

この文章で丸山は、ドイツ出身のハリウッド女優マレーネ・ディートリヒの魅力は、彼女を見出したジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の「意中を殆んど残すところなく読み取って、その意を驚く程、完全に彼女の動作にあらはした」ところにあるという。しかしこの指摘はディートリヒをスタンバーグの単なる「傀儡」に過ぎないと片づけてしまうことを意味しない。スタンバーグはディートリヒを起用することによって、はじめて自分の思い通りの表現が可能になる、ということでもあるというのだ。

丸山のこの「評論」はどことなくヘーゲル『精神現象学』のいわゆる「奴隷の弁証法」の議論を思い起こさせる、といったら穿ちすぎであろうか。ヘーゲルは、第一論文「近世儒教における徂徠学の特質並びにその国学との関連」をはじめとして、丸山の学問のなかで重要な位置を占めるのだが、当時17歳の丸山青年はすでにその著作に親しんでいたのだろうか。あるいはもともと近しい考え方を有していたのだろうか。

丸山眞男(筆名・まさを)「ディートリツヒを語る」(全集未収録)

ディートリツヒ信者曰く――ドイツの生んだ空前絶後の映画女優……パラマウントの弗箱……映画界に現れたる一大惑星……等々々――そのディートリツヒをば、貴様如き一介の書生如きが批評するとは奇怪僭越至極――

アンチ・ディートリツヒ論者曰く、ディートリツヒが如き俗的存在を今更新らしく語らうとは、貴様の物好きにも程がある。――

それ等の声が私の頭に浮んでくる一方、私のペンは、鏡に映じたディートリツヒの姿そのまゝを描き出したい衝動にかられてゐる。

マルレネディートリツヒと云へば今でこそ三才の童児……でもないが、苟も映画を語る者の口に、頻繁に上せられる名の一つだが、丁度去年の今頃はどうだったか、フアンを以て自ら任ずる人でも知らなかった者が多からう。

彼女の出現――之程スピーデイな者はない。現れたかと思ふと忽ちにして、完全に東都フアンの心を「把握」してしまった。全世界の新聞雑誌は、彼女に対する最大級の讃辞を惜まなかった。そして一般フアンからは盲目的と見えるまでの熱烈な支持を受けた。

何が彼女をさうさせたか。

彼女はベルリン子だった。即ちヨーロツパの女であった。決してアメリカの女でもアメリカ風の女でもなかった。從って彼女の美的表現は、所謂、聖林(ホリウッド)型とは全く異ってゐた。さうして、実に彼女の「型」こそ一般大衆の待望してゐた型に外ならなかった。実際これまで、フアンは聖林の女優が皆、あまりに共通せる分子を備えてゐる。――即ち一つの型が形成されてゐる事をもどかしく思って居た。そしてグレタガルボに漸くその不満の発散の道を見出してゐた。しかし、ガルボはあの通り巨弾を散発するに止まってゐる……正にかくの如き状勢にある時、スタンバークは独逸に於てゲオルグ・カイザーの『二本のラバツツ』に出演してゐる彼女に目を附けるの慧眼を持ったのであった。その頃スタンバークはウフア社のエミルニヤニングス最初のトーキー『ブルー、エンヂエル』に於ける、ヤニングスの相手役を血眼で探して居た。忽ち彼と彼女の間に契約が結ばれ、ロラの役を勤めたことは諸君の知って居る通り。

結果は勿論、彼の予想以上だった。そこで彼は彼女を聖林へ連れ来り、彼女を文字通りの主演としての映画を作らうとして試みたのが『モロツコ』である。そして日本に於てはこの映画の方がブルー、エンヂエルよりも相当早く上映されたが為に、日本の一般大衆は突如として、マルレネディートリツヒの全貌に接し得た。――この特種事情が日本に於けるディートリツヒの価値を絶対的たらしめたものと考へられるのである。

一方、又私は思ふ。ディートリツヒは或程度迄、スタンバークあって後の存在ではなからうかと、この意味からして、私は彼女が今までの所謂『名優』であるかを深く疑ふものである。

モロツコを見る時、間諜X27号を見る時、彼女の一つ一つの動作には、あまりにもまざまざとスタンバークその人の個性がにじみ出てゐるではないか。勿論、映画に於て、主演者自身の個性は、監督のそれによって幾分犯されゐないものはない。しかし、スタンバーク、ディートリヒのコンビネーションに於ては、その事実のあまりにも露骨な表現を私は感受する。

それは何を意味するか?

私をして云はしむれば、彼女自身のすべてを、スタンバークその人の心に投入れたのだ。彼女はスタンバークの意中を殆んど残すところなく読み取って、その意を驚く程、完全に彼女の動作にあらはしたのである。もし傀儡(かいらい)と云ふ字が、例へば文楽座の人形より間接的に、自意識的の意を含めて用ひられ得るなれば、彼女はスタンバークの傀儡と云って差支へない。

が一方、スタンバークから云へば如何、自分の気持を無気味な程に了解してくれる彼女――その彼女を用ひる事によって彼は勿論、自己の奥の手を最大限度に活用する事が出来る。即ち二人の間の関係は形はあくまで傀儡だが、実質は全く相対関係にあるのである。

故に、『たとへ個性に立脚した創作的表現は出来ずとも監督の意を百パーセントに自己の動作に表はし得るならば、それも又映画に於ける名優である』と云ふ事が言い得るとせば、ディートリツヒをば現代映画界に於ける一大明星たる故失はないであらうと思ふ。

――完――(一九三一、九、三〇)

(明らかな誤植は訂正し、旧字体は新字体に改めた)

丸山青年を魅了したマレーネ・ディートリヒ

丸山がファンだったドイツ出身のアメリカの映画女優、マレーネ・ディートリヒ(1904~92年)。映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに才能を見出され、1930年の『嘆きの天使』で主役の歌手ローラ・ローラを演じ注目を集めた。以後この作品で確立した、性的魅力で年上の男性を誘惑し破滅させるファム・ファタールの役柄を数多くの映画で演じ、退廃的で妖しげな美貌と脚線美で世界中の人々を魅了した。1939年にナチスを忌避し、アメリカに帰化。戦後も『情婦』(ビリー・ワイルダー監督、1957年)、『黒い罠』(オーソン・ウェルズ監督、1958年)などの傑作に出演した。丸山は他にも、ジャネット・ゲイナーや水戸光子、左幸子といった女優が好きだったと語っている。

「映画とわたくし」原稿(別稿・自作年表含む)、1979年、丸山眞男文庫蔵

『’60』10号(1979年)に掲載された、丸山の青春時代である1920年代から1940年代前半にかけての映画にまつわる思い出をまとめた随筆。その中で丸山が特に強い感銘を受けた映画として挙げているのが、東京帝国大学法学部助教授であった1941年に観た『スミス都へ行く』である。

新人議員スミスが、リンカーン記念堂を訪れ、その壁面に刻まれたデティスバーグ演説の一節“Government of the people, by the people,for the people shall not perish from the earth……”に深く感動する場面に、「人民の、人民による、人民のための政治は地上より消え去ることなかるべし」という日本語訳がスーパー・インポーズされた。その瞬間、「不覚にも私の目は涙にあふれた」という。「日本をふくむ枢軸ファシズムの世界的な高まりのなかで、「……地上より消え去ることなかるべし」というあのフレーズは、さながら満目荒涼とした原野をふきすさぶ嵐に揺らぎながら立っている一本の樹のように映った」ためである。『スミス都へ行く』を観たおよそ1週間後か10日後に真珠湾攻撃が起こり、この作品は丸山が太平洋戦争前に観た最後のアメリカ映画となった。