立命館大学図書館

  1. TOP>
  2. 図書館について>
  3. ヴァーチャル展示『我を人と成せし者は映画』>
  4. 丸山眞男・加藤周一 映画年表

丸山眞男・加藤周一 映画年表

  • 随筆、座談、回想、日記などから、丸山眞男と加藤周一が確実に観たと思われる映画を記載しています。
  • 映画は、基本的に丸山眞男と加藤周一が観た年に記載し、それが不明なものは日本公開年に記載しています。
  • 丸山眞男、加藤周一がともに鑑賞した映画作品のタイトルは、赤字で示しています。

※下記の年表は上下左右にスクロールできます。

※下記の年表は上下にスクロールできます。

丸山眞男(1914~96年) 加藤周一(1919~2008年)
1914年
(大正3年)
3月22日、大阪府東成郡天王寺村において、丸山幹治・セイの次男として生まれる。
1919年
(大正8年)
9月19日、東京府東京市本郷区本富士町一番地において、加藤信一・織子の長男として生まれる。
1920年
(大正9年)
4月、兵庫県武庫郡精道村立精道尋常小学校に入学。
1921年
(大正10年)
春、東京市四谷区立四谷第一尋常小学校に転校。
この頃、父に連れられて、初めて映画(活動写真)を浅草で観る。
1923年
(大正12年)
小学校時代に、四谷館などで『オーバー・ゼ・ヒル』(H・ミラード監督)や連続大活劇ものなどを観て映画ファンとなる。
関東大震災に遭い、長谷川如是閑宅で一時避難生活を送る。
1925年
(大正14年)
この頃、『荒木又右衛門』(池田富保監督)などチャンバラ映画を盛んに観る。
1926年
(昭和元年)
3月、東京府立第一中学校入学試験に合格。合格祝いに新宿武蔵野館で『ボー・ジェスト』(H・ブレノン監督、弁士徳川夢声)を観る。
4月、東京府立第一中学校に入学。この頃、新宿武蔵野館で『カリガリ博士』(R・ヴィーネ監督)を観る。小学校時代に続いて映画に熱中し、女優ジャネット・ゲイナーのファンになる。午後の授業をエスケープして芝園館などに行く。
4月、東京府豊多摩郡渋谷町立常磐松尋常小学校に入学。
1927年
(昭和2年)
『ビッグ・パレード』(K・ヴィダー監督)、『第七天国』(F・ボーゼージ監督)。
1928年
(昭和3年)
『新版大岡政談』(伊藤大輔監督)、『つばさ』(W・A・ウェルマン監督)
1929年
(昭和4年)
この頃、母方の祖父・増田熊六に連れられて、従兄弟たちとよく映画を観に行く。熊六はとりわけ「西洋もの」を好んだ。
1930年
(昭和5年)
『西部戦線異状なし』(L・マイルストン監督)など外国トーキー映画や傾向映画『何が彼女をそうさせたか』(鈴木重吉監督) 、『アジアの嵐』(V・プドフキン監督)、『アスファルト』(J・マイ監督、弁士徳川夢声)などを観る。
1931年
(昭和6年)
4月、第一高等学校文科乙類に入学。
中学時代のクラス同人雑誌『四平会会誌』に「ディートリツヒを語る」を発表。
『モロッコ』(J・V・スタンバーグ監督)、『地獄の天使』(H・ヒューズ監督)、『大地』(A・ドヴジェンコ監督)、『西部戦線一九一八年』(G・W・パプスト監督)、『三文オペラ』(G・W・パプスト監督)、『仇討選手』(内田吐夢監督)。
4月、東京府立第一中学校に入学。
『三文オペラ』(G・W・バプスト監督)。
1932年
(昭和7年)
『自由を我等に』(R・クレール監督)、『人生案内』(N・エック監督)。
1933年
(昭和8年)
4月、唯物論研究会の講演会に参加し、本富士署に検挙・拘留される。
11月、ナチスの宣伝映画『ヒットラー青年』(H・シュタインホフ監督)を観る。
『巴里祭』(R・クレール監督)、『制服の処女』(L・ザーガン監督)、『夢みる唇』(P・ツィンナー監督) 、『雨』(L・マイルストン監督)。
『巴里祭』(R・クレール監督)。
1934年
(昭和9年)
4月、東京帝国大学法学部政治学科に入学。
『会議は踊る』(E・シャレル監督)。
『会議は踊る』(E・シャレル監督)、『商船テナシチー』(J・デュヴィヴィエ監督)、『隣の八重ちゃん』(島津保次郎監督)。
1935年
(昭和10年)
『外人部隊』(J・フェデー監督)。 『未完成交響楽』(W・フォルスト監督)、『モンパルナスの夜』(J・デュヴィヴィエ監督)、『外人部隊』(J・フェデー監督)。
1936年
(昭和11年)
4月、第一高等学校理科乙類に入学。庭球部と映画演劇研究会に所属。当時公開された映画のほとんどを妹の本村久子氏と連れ立って観に行っていた。特にJ・デュヴィヴィエをはじめとする東和商事輸入のヨーロッパ映画を熱心に観ていた。『ゴルゴダの丘』(J・デュヴィヴィエ監督)、『地の果てを行く』(J・デュヴィヴィエ監督)、『我等の仲間』(J・デュヴィヴィエ監督)、『オペラハット』(F・キャプラ監督)、『ミモザ館』(J・フェデー監督)。
12月、第一高等学校『向陵時報』に「映画評「ゴルゴダの丘」」を藤澤正という筆名で発表。
1937年
(昭和12年)
4月、東京帝国大学法学部助手となり、南原繁の指導を受ける。 『新しき土』(A・ファンク、伊丹万作監督)、『どん底』(J・ルノワール監督)。
この頃から、ノート(「青春ノート」)をとりはじめる(~42年)。
1938年
(昭和13年)
『五人の斥候兵』(田坂具隆監督)、『路傍の石』(田坂具隆監督)。 『鎧なき騎士』(J・フェデー監督)、『冬の宿』(豊田四郎監督)、『泣虫小僧』(豊田四郎監督)、『にんじん』(J デ ヴィヴィエ監督) 『舞踏会の手帖』(J デ ヴィヴィエ監督) 『綴方教室』(山本嘉次郎監督) 『牧場物語』(木村荘十二監督)、『路傍の石』(田坂具隆監督)。
1939年
(昭和14年)
『暖流』(吉村公三郎監督)。 『望郷』(J・デュヴィヴィエ監督)、『素晴しき休日』(J・キューカー監督)、『ブルグ劇場』(W・フォルスト監督)、『土と兵隊』(田坂具隆監督)。
1940年
(昭和15年)
6月、東京帝国大学法学部助教授となる。
『民族の祭典』(L・リーフェンシュタール監督)、『美の祭典』(L・リーフェンシュタール監督)。
4月、東京帝国大学医学部に入学。
『家庭教師』(大庭秀雄監督)。
1941年
(昭和16年)
11月、『スミス都へ行く』(F・キャプラ監督)を観る(戦時中に見た最後のアメリカ映画)。 12月、『舞踏会の手帖』(J・デュヴィヴィエ監督)をもう一度観る。
1942年
(昭和17年)
10月、講義(東洋政治思想史)を開始する。
『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎監督)。
秋、中村眞一郎、福永武彦、窪田啓作らと文学集団「マチネ・ポエティク」を結成。
1943年
(昭和18年)
『世界に告ぐ』(H・シュタインホフ監督)。 9月、繰り上げ卒業により、東京帝国大学附属医院医局(佐々内科)の副手となる。
1944年
(昭和19年)
7月、応召し平壌に向かうが、10月に病気のため招集解除。
1945年
(昭和20年)
3月、臨時召集により広島市宇品の陸軍船舶司令部に応召。
『姿三四郎』(黒澤明監督)、『宮本武蔵』(溝口健二監督)。
8月、宇品で被爆し敗戦を迎える。復員して青年文化会議、庶民大学三島教室に参加。
春、東京帝国大学医学部佐々内科教室と共に信州上田の結核療養所に疎開。
8月、上田で敗戦を迎える。
10月、「原子爆弾影響日米合同調査団」の一員として約2か月間広島に滞在し、調査に従事。
1946年
(昭和21年)
2月、思想の科学研究会、二〇世紀研究所に参加。5月、「超国家主義の論理と心理」を発表。 「天皇制を論ず」、「天皇制について」、「新しき星菫派に就いて」を発表。
1948年
(昭和23年)
『悲恋』(J・ドラノワ監督)、『女』(木下惠介監督)、『面影』(五所平之助監督)、『美女と野獣』(J・コクトー監督)、『海の牙』(R・クレマン監督)。
1949年
(昭和24年)
『大いなる幻影』(J・ルノワール監督)。
1950年
(昭和25年)
6月、東京大学法学部教授となる。平和問題談話会が全面講和・非武装中立・東西両陣営の平和共存を主張する際に中心的な役割を果たす。 『賭はなされた』(J・ドラノワ監督)、『無防備都市』(R・ロッセリーニ監督)、『自転車泥棒』(V・デ・シーカ監督)、『羅生門』(黒澤明監督)。
1951年
(昭和26年)
11月、医学研究のため、フランス政府半給費留学生として渡仏。
『四重奏』(R・スマート監督)、『オルフェ』(J・コクトー監督)。
1952年
(昭和27年)
『サンセット大通り』(B・ワイルダー監督)、『ファウスト(悪魔編)』(C・ガローネ監督)、『天井桟敷の人々』(M・カルネ監督)、『ヨーロッパの何処かで』(G・V・ラドヴァ二監督)、『欲望という名の電車』(E・カザン監督)。 『禁じられた遊び』(R・クレマン監督)、『ライムライト』(C・チャップリン監督)、『Avec André Gid』(M・アレグレ監督)。
1953年
(昭和28年)
『ボルジア家の毒薬』(C=ジャック監督)、『情炎の女サロメ』(W・ディターレ監督)。
1954年
(昭和29年)
『洪水の前』(A・カイヤット監督)、『恐怖の報酬』(H=G・クルーゾー監督)。
1955年
(昭和30年)
『鉄路の闘い』(R・クレマン監督)、『裏窓』(A・ヒッチコック監督)、『アウシュウィツの女囚』(W・ヤクボフスカ監督)、『ドン・カミロ頑張る』(J・デュヴィヴィエ監督)、『パンと恋と夢』(L・コメンチーニ監督)、『もず』(J・ファーラー監督)、『フレンチ・カンカン』(J・ルノワール監督)、『大いなる希望』(D・コレッティ監督)、『スタア誕生』(G・キューカー監督)、『生きものの記録』(黒澤明監督)。 3月、フランスより帰国し、東京大学医学部附属病院に復帰。
6月、「日本文化の雑種性」を発表。
『ファンタジア』(B・シャープスティーン監督)。
1956年
(昭和31年)
『夏の嵐』(L・ヴィスコンティ監督)、『われら巴里ッ子』(M・カルネ監督)、『愛情は深い海のごとく』(A・リトヴァク監督)、『ロメオとジュリエット物語』(L・アルンシュタム監督)、『マーティ』(D・マン監督)、『旅情』(D・リーン監督)、『河の女』(M・ソルダーティ監督)、『スミス都へ行く』(F・キャプラ監督)、『現金に手を出すな』(J・ベッケル監督)、『空中ぶらんこ』(C・リード監督)、『居酒屋』(R・クレマン監督)、『天井桟敷の人々』(M・カルネ監督)。 『赤い風船』(A・モラリス監督)。
1957年
(昭和32年)
『過去をもつ愛情』(H・ヴェルヌイユ監督)。 『抵抗(レジスタンス)―死刑囚の手記より―』(R・ブレッソン監督)、『宿命』(J・ダッシン監督)、『マダムと泥棒』(A・マッケンドリック監督)、『戦場にかける橋』(D・リーン監督)、『王子と踊子』(L・オリヴィエ監督)。
1958年
(昭和33年)
『眼には眼を』(A カイヤット監督)、『情婦マノン』(H=G クル ゾ 監督)、『楢山節考』(木下恵介監督)、『鶴は翔んでゆく』(M・カラトーゾフ監督)、『静かなるドン(黎明編・憂愁編)』(S・ゲラーシモフ監督)、『モダン・タイムス』(C・チャップリン監督)。
3月、加藤周一との対談「『眼には眼を』に見るアラブ対西欧」を『映画評論』に発表。
『眼には眼を』(A・カイヤット監督)、『法隆寺』(羽仁進監督)。
3月、丸山眞男との対談「『眼には眼を』に見るアラブ対西欧」を『映画評論』に発表。
1960年
(昭和35年)
日米安保条約改定反対運動に参加。『ニュールンベルグの戦犯 13階段への道』(F・V・ポドマニツキー監督)、『チャップリンの独裁者』(C・チャップリン監督)。 10月、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に准教授として赴任。日本文化史を講じる(~69年)。
1961年
(昭和36年)
10月、米国で在外研究(~62年)。『夜と霧』(A・レネ監督)。
1963年
(昭和38年)
『Les Abysses(深淵)』(N・パパタキス監督)、『Mourir à Madrid(マドリッドに死す)』(F・ロシフ監督)、『Joli Mai(美しき五月)』(C・マルケル監督)。
1967年
(昭和42年)
『中国女』(J=L・ゴダール監督)。
1968年
(昭和43年)
8月に『羊の歌』、9月に『続羊の歌』を刊行。11月、「言葉と戦車」を発表。
『ワン・プラス・ワン』(J=L・ゴダール監督)。
1969年
(昭和44年)
東大紛争の影響で講義を中止。 『ブリティッシュ・サウンズ』(J=L・ゴダール監督)。
1971年
(昭和46年)
3月、東京大学法学部教授を停年を待たずに辞職する。
『おかしな夫婦』(A・ヒラー監督)、『罪と罰』(L・クリジャーノフ監督)。
『ありふれたファシズム 野獣たちのバラード』(M・ロンム監督)、『紅色娘子軍』、『日本侠客伝 刃(ドス)』(小沢茂弘監督)。
1972年
(昭和47年)
『帰郷』(A・アロフ他監督)、『ラムの大通り』(R・アンリコ監督)。 『関東緋桜一家』(マキノ雅弘監督)。
1973年
(昭和48年)
この頃、女性史研究家、映画研究家の矢島翠と結婚。
1975年
(昭和50年)
英国・米国で在外研究(~76年)。 2月、『日本文学史序説 上』を刊行。
1976年
(昭和51年)
『愛のコリーダ』(大島渚監督)。
1977年
(昭和52年)
『密告の砦』(M・ヤンチョー監督)、『欲望のあいまいな対象』(L・ブニュエル監督)。
1978年
(昭和53年)
『遠い雷鳴』(S・レイ監督)、TV映画『ホロコースト 戦争と家族』(M.J. チョムスキー監督)。
1979年
(昭和54年)
『旅芸人の記録』(T・アンゲロプロス監督)。
1980年
(昭和55年)
4月、『日本文学史序説 下』を刊行。
『影武者』(黒澤明監督)、『大理石の男』(A・ワイダ監督)。
1981年
(昭和56年)
『オブローモフの生涯より』(N・ミハルコフ監督)
1983年
(昭和58年)
『サン★ロレンツォの夜』(P・タヴィアーニ監督)、『ことの次第』(W・ヴェンダース監督)、『Le Jopon Insolite (おどろくべき日本)』(F・ライヒェンバッハ監督)、『そして船は行く』(F・フェリーニ監督)、『遠い一本の道』(左幸子監督)。
1984年
(昭和59年)
7月、「夕陽妄語」の連載を『朝日新聞』で始める(~2008年)。
1985年
(昭和60年)
『SHOAH ショア』(C・ランズマン監督)。
1986年
(昭和61年)
『シテール島への船出』(T・アンゲロプロス監督)、『パパは、出張中!』(E・クストリッツァ監督)。
1987年
(昭和62年)
『ローザ・ルクセンブルク』(M・V・トロッタ監督)。 『ローザ・ルクセンブルク』(M・V・トロッタ監督)。
1988年
(昭和63年)
4月、立命館大学国際関係学部客員教授に就任(~2000年)。
『火垂るの墓』(高畑勲監督)。
1989年
(平成元年)
『利休』(勅使河原宏監督)、『千利休 本覺坊遺文』(熊井啓監督)。
1990年
(平成2年)
『悲情城市』(侯孝賢監督)。
1991年
(平成3年)
『安重根と伊藤博文』(オム・キルソン監督)。
1992年
(平成4年)
4月、立命館大学国際平和ミュージアム館長に就任(~95年)。
1993年
(平成5年)
『Pétain(ペタン)』(J・マルブフ監督)。
1994年
(平成6年)
『さらば、わが愛 覇王別姫』(陳凱歌監督)、 『戯夢人生』(侯孝賢監督)、『青い凧』(田壮壮監督)、『鷲の指輪』(A・ワイダ監督)。
1995年
(平成7年)
『SHOAH ショア』(C・ランズマン監督)、『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』(堀川弘通監督)。
1996年
(平成8年)
8月15日、進行性肝臓癌のため82歳で死去。 『ビフォア・ザ・レイン』 (M・マンチェフスキー監督)、『ユリシーズの瞳』(T・アンゲロプロス監督)、『アンダーグラウンド』(E・クストリッツア監督)。
1998年
(平成10年)
『パーフェクトサークル』(A・ケノヴィッチ監督)、『南京1937』(呉子牛監督)、『永遠と一日』(T・アンゲロプロス監督)。
1999年
(平成11年)
『笑う男』(P・レ二監督)。
2001年
(平成13年)
『ウンベルト・D』(V・デ・シーカ監督)。
2003年
(平成15年)
『オランダの光』(P=R・d・クローン監督)。
2004年
(平成16年)
6月、「九条の会」の呼びかけ人に加わる。
『10ミニッツ・オールダー』(B・ベルトリッチ他監督)。
2005年
(平成17年)
『エレ二の旅』(T・アンゲロプロス監督)。
2008年
(平成20年)
12月5日、多臓器不全のため89歳で死去。