立命館大学図書館

  1. TOP>
  2. 図書館について>
  3. デジタル版展示『知識人の自己形成』>
  4. 第2部 尋常小学校時代

第2部 尋常小学校時代

丸山眞男と加藤周一が通った時代の学校制度は戦後に行われた学制改革前のもので、学制改革によって誕生し現在に至る学校制度(新制)と区別して旧制と呼ばれる。新制の小学校に相当する旧制の初等教育機関が尋常小学校で、それまでの小学校の後身として1886(明治19)年の小学校令で高等小学校とともに設置された。当初は4年制だったが、1907(明治40)年に義務教育期間が6年に延長されたことに合わせて6年制となった。6年制となった頃には就学率は100%に近づいていたが、中退者も多く、尋常小学校を卒業することが当たり前となったのは1930年代以降といわれる。

尋常小学校は男女別学ではなかったが、一学級を編成できる数の女児が在学している場合、3年次以降は学級が男女別とされた。

大正期以降になると中学校への進学熱が高まり、進学準備教育を重視する公立尋常小学校が各地に登場し、そのような学校に子弟を越境入学させることも行われるようになった。1919(大正8)年には、飛び級により尋常小学校を5年間で修了して中学校に進学することが認められた。

1941(昭和16)年の国民学校令で尋常小学校は国民学校初等科となったが、1947(昭和22)年の学校教育法施行を中心とする学制改革によって新制小学校に改組された。

第1章 震災の衝撃 ─ 尋常小学校時代の丸山眞男

(1)四谷第一尋常小学校

四谷第一尋常小学校
〈東京評論社編『四谷総案内』城西益進会、1915年〉

新聞記者である丸山幹治の子として生まれた丸山眞男は、父の仕事の都合で転居を繰り返し、小学生時代にも転校を経験している。最初に入学した精道尋常小学校時代について、丸山は多くを語っていない。1921(大正10)年に転校した四谷第一尋常小学校(東京府東京市四谷区伝馬町)では、兵庫県から来た丸山は「田舎っぺい」といじめられたという。四谷という地は山の手の一角でありながら鮫河橋のスラム街を抱え、小学校のクラスの少なくとも3分の1はスラムの子だった。母セイはスラムの子と遊ばないように言いつけたが、丸山兄弟はそれを守らなかったという。小学生時代、丸山はよく本を読み、また声がよく、学芸会では舞台にたって唱歌をうたった。1925(大正14)年からは中学校受験のために「日土講習会」に通うようになり、受験生としての生活がはじまった。セイはいわゆる「教育ママ」だったのである。これに対し、父は子どもの進路についてはリベラルで各自の希望を尊重したが、自分が学歴で苦労した経験から、「日本では学校を出ないとひどく損をするから、学校だけは出てくれ」と言っていた。また、自分と同じ新聞記者だけにはならないでほしいと願っていた。

(2)芸術・芸能への関心

丸山の小学生時代、映画はまだ「カツドウ」と呼ばれ、無声の映像に弁士がナレーションをつけるというものだった。1921(大正10)年に一家で四谷に移ると、丸山は近所にあった「四谷館」に通いつめる。当時、映画館は不良少年のたまり場であり、母は許可しなかったが兄に入れ知恵され、母が許しそうな「文部省推薦映画」を観に行く体で、二本立てのうち「推薦映画でない方の一本」を観に行った。「推薦映画」にも『オーバー・ゼ・ヒル』(H・ミラード監督)などの傑作はあったが、丸山の心を捉えたジャンルは連続大活劇だった。1925(大正14)年、小学6年生になると『荒木又右衛門』(池田富保監督)などのチャンバラ映画をさかんに観るようになった。のちに丸山は、日本のチャンバラ映画を高く評価している。

チャンバラ映画というとともすると芸術的には「低い」もののように見られるけれども、実はチャンバラ映画というジャンルは、日本独特というだけでなくて撮影技術の上で日本が世界に先がけ、世界に貢献した誇るべき分野なのである。

丸山眞男「映画とわたくし」
「映画とわたくし」草稿
〈丸山文庫資料番号375〉

丸山によれば、1920年代は映画のジャンルで「新しい表現形式ができ、それが登り坂になって、この新しい可能性をフルに試してみたいというわけで、世界的にいい人材が映画の世界に集った」。創造性に満ちていたこの時期の映画は、丸山の人格形成に大きな影響を与えたのである。

こうした映画鑑賞は母には内緒にしていたが、あるとき塾をサボって観に行こうとしたところを見つかり、母に泣かれてしまったという。さらに、兄と一緒に浅草に映画を観に行こうとしたのを母が見とがめ、両親が映画鑑賞をめぐって大喧嘩をはじめたこともあった。そのときも喧嘩のすきをついて浅草に出かけ、映画館を3軒はしごする始末であった。

このほか、父に連れられて四谷にあった「よし」という寄席によく通っていた。ここで父は芸を磨くことの難しさを教え、一芸を身につけるように諭したという。また、母の影響で詩歌に親しんだ。ときおり実作も行い、小学生雑誌に掲載されたこともあったという。

(3)読書

丸山は小学生時代から読書を趣味とし、「ホンタクサン」というあだ名をつけられるほどだった。『小学生全書』や『日本児童文庫』をはじめとして、兄の影響で『真田十勇士』『塙團右衛門』『霧隠才蔵』『猿飛佐助』『岩見重太郎』といった『立川文庫』を読みあさった。1960年の「私がいちばん感銘を受けた書物」というアンケートでは、小学校1年次に読んだ巌谷小波『こがね丸 三十年目書き直し』が挙げられている。丸山によれば、「ぼくの読んだほとんど最後の古典的なお伽話」だという。

巌谷小波『こがね丸 三十年目書き直し』

(4)社会的関心の芽生え

丸山が四谷第一尋常小学校に転校したのは、皇太子(のちの昭和天皇)の摂政就任、原敬の暗殺など歴史的事件が目まぐるしく起こったころであった。丸山自身も原暗殺事件の際、幹治が夜中に出社していったことを記憶している。

そのなかでも、のちの戦争に匹敵する強烈な体験となったのが1923(大正12)年の関東大震災である。地震による避難経験もさることながら、朝鮮人虐殺の風聞は丸山の耳にも届いていた。母セイは「長谷川(如是閑)さんでさえ朝鮮人のうわさを信じた」と語り、パニック下でのデマの浸透力を印象づけている。さらに震災直後に起きた甘粕事件で、大杉の幼い甥までも殺されたことにショックを受け、社会的関心を強く喚起された。また、同じ年に起きた虎ノ門事件については、死刑判決の際に犯人の難波大助が「共産党万歳」と叫んだことを聞かされるなど、ジャーナリストの父を通じて機密情報にもある程度触れていた。丸山は震災の経験を作文「大震災大火災」「大震火災中の美談」『恐るべき大震災大火災の思出』にまとめている。このうち「大震火災中の美談」は、東京市学務課主催の「震災記念作品会」に出展され、『震災記念文集 東京市立小学校児童』尋常4年の巻(培風館、1924年)に掲載された。丸山の文才をもっとも早く物語るものといえよう。

丸山眞男『恐るべき大震災大火災の思出』
〈丸山文庫資料番号341-5〉

(5)運動

丸山は早産だったために「体のあちこちにおかしな所」があり、その一つとして足が人並みはずれて遅かったことを挙げている。小学校の運動でリレーの時に「おまえは便所に入っていろ」といわれ、その間便所にいるという屈辱感を味わったという。

第2章 優等生 ─ 尋常小学校時代の加藤周一

(1)町の学校に入学

小学1年生の加藤周一、1926年

1926(大正15)年加藤は学齢を迎えた。加藤の従兄たちは、ある者は暁星小学校に行き、ある者は青山師範付属小学校に進んだ。女の子たちは雙葉や聖心に通った。しかし父信一は、町の普通の小学校に入り、町の子どもと交わることをよしとした。母織子もその考えに賛同した。

加藤が住まいした金王町は、渋谷町立渋谷小学校(現在は廃校)の学区に属した。本来ならば渋谷小学校に通うべき地域であったが、1925(大正14)年12月に新設された渋谷町立常磐松小学校(現在は渋谷区立常磐松小学校)に入学する。そのために南青山に住んだ辰野保(陸上競技選手、弁護士、政治家、フランス文学者辰野隆の実弟)の家に寄留している。父信一の患者だったがゆえのことだったろう。常磐松小学校の記録では入学時の加藤の住所は南青山となっている。町の学校に行かせることを主張した父信一が、通うべき学校に通わせず、寄留までして新設小学校に通わせようとしたのか、その理由は定かではない。

(2)3つの登校風景

加藤が通った登校路を1925年当時の地図と照合して、現在の道路で確認したくとも、区画整理が進んだらしく判然としない。しかし、『羊の歌』のなかで登校風景として、加藤は3つを描いている。ひとつは長井邸の金網、ひとつは金王八幡神社、そして桜横町である。

1925年頃の渋谷町の地図
鷲巣力『加藤周一はいかにして「加藤周一」となったか』岩波書店、2018、精興社提供

ひとつめは長井邸の金網である。長井邸とは近代薬学の祖といわれる長井長義の一万坪を超えたといわれる大邸宅である(現在長井ビルの建つあたりである)。敷地は金網で囲まれていた。その広大な敷地には、日本と外交関係を結んで間もないフィンランド公使館があり、そこには外交官とその家族が暮らしていた。その金網は高いものではなかったが、それを誰も乗り越えようとはしなかった。暗黙のうちに拒絶されていたのだった。「異国の子供たち」は「私たちを見たことがなかった。彼らにとって私たちは存在しなかった」。金網だけで隔てられたふたつの世界は、決して交わることがない、それぞれ別の世界だった。

しかし、この経験は長井邸の金網が初めてではなかった。祖父増田熊六の邸と熊六の家作の長屋とを隔てていた生籬と石垣にも似たような感覚を覚えた。

長屋の人々 ─ 戸口のまえで赤ん坊をあやしている婦人や、道で石けりをしている私たちと同じ年頃の子供たちは、私たちとは別の世界に住んでいて、目と鼻の先にいながら何らの交渉もなかったし、そもそも交渉の可能性の想像もできないような人々であった。(中略)深い関係があって、しかも全く関係のない人々の存在は、私の解釈することのできないものであり、総じて明るく澄んだ私の空にのこされた大きな暗点であったといえるだろう。祖父の家に行くたびに、長屋の人々をなるべく見ないようにする習性を、私はいつのまにか身につけていた。

『羊の歌』「祖父の家」

長井邸の金網と祖父熊六邸の生籬は、社会のありようというもの、その社会のなかで加藤が占めている位置を、加藤に教えた重要な契機であったに違いない。

ふたつ目は金王八幡神社である。神社の位置は当時も今も変わっていない。学校の行き帰りに八幡神社の境内を通り抜けた。そこでは子どもたちが、野球や相撲、メンコや独楽に興じていた。「教室では、国定読本を自由自在に読む子供が尊重されて、「メンコ」に習熟した子供は小さくなっていた。八幡宮の境内では、「メンコ」の上手な子供が周囲に号令して、国定読本を読む能力には一文の値打ちもなかった。私はどちらかを択ばなければならなかった」。加藤が択んだのは後者であり、そのことは、父信一の意思とは違って、町の子どもたちと交わることはほとんどできない、ということを意味した。

金王八幡の境内の桜風景

みっつ目は金王八幡神社から学校への道にあった桜並木(桜横町)である。桜横町がどこだったかは今日では確定できない。桜横町には、同じ学校に通う大柄で、華やかで、女王のように振舞う、美しい少女が住んでいた。加藤はこの「花の女王」に憧れた。この少女に会わないと「いくらかの失望」を感じざるを得なかった。加藤は長ずるに及んでも「花の女王」を忘れられず、桜横町を訪れている。『青春ノート』には「小学一年で恋を知った」と綴り、「さくら横ちよう」という詩を詠んだ。しかし、それが「初恋」だったとはいえないだろう。だが「その頃の私を、またおそらくその後の私の多くをさえも、よく説明している経験には違いなかった」と加藤は述べる。

桜横町は憧れの少女と結びついているだけではなかった。「メンコ」を択ばずに「国定読本」を採った加藤は、学校が行なう進学のための「補習授業」に出た。その帰り道、桜横町を通ると、夕食の支度の匂い、家々の窓に点しはじめた灯が映るさま、「葉の落ちた桜の枝が暮れ残る空に拡げる細かい網の目」の微妙な美しさを発見するのである。「桜横町の灯ともし頃を、かぎりなく愛する」のだった。その後加藤は、パリのヴァルミー河岸をはじめとして、あちこちで枯れ枝と夕暮れの空が織りなす美しさに感動し、それをしばしば文に綴っている。

(3)贔屓と裏切り

学校の授業に苦労することはなかった。学業成績証は残っていないが、図画や体育などの実技はいざ知らず、それ以外の教科では筆頭の成績だったろう。当然、先生からの覚えもめでたかった。加藤は「プロテジェprotégé」と書くが、周りの級友からすれば「贔屓」されていたのである。ことに4年生の理科の松本先生が担任のときには幸せだった。級友たちが休み時間に校庭に駆け出してゆく代わりに、実験教室に残って「蛙の心臓の脈拍を見つめ」、先生との理科談義を楽しんだ。ここでも町の子どもたちとは交われなかった。

そんなとき、小さな事件が起きた。児童に優しい先生につけこんだ、いわば集団校則破りで、小学生といえどもよく起きる些細な事件である。つけこまれた先生は怒り、全員への事情聴取が始まった。ところが加藤の番が廻ってくると、先生は加藤に「助け舟」を出した。加藤は一瞬迷った挙句に、その助け舟に乗った。

「おまえはよろしい、もう行ってもよい」という声を、そのとき私はほとんど聞いてはいなかった。解放されて歩み去るときに、私が背後に感じたのは、一列に並んだ同罪の生徒たちの視線だけであった。その見えない視線は、私の嘘を非難していたのではなく、裏切りを軽蔑していた。同時に、私は自分自身を軽蔑し、激しく自分自身を憎んでいた。

『羊の歌』「優等生」

そして、「その後、私は何度も、(中略)教師と馴れ合った私自身に対する憎悪を、想い出した」と書くように、このありふれた小さな事件に、加藤の心は大きく傷ついた。公的なことで「裏切りたくない」という気持ちは、加藤がもちつづけた想いである。こうして憲法第九条を護持するひとつの理由として「親友を裏切りたくない」ことを挙げるのである。

(4)ふたりの級友

このように、町の子どもたちと交われなかった加藤だが、記憶に残って加藤のその後に影響を与えた子がいないわけではなかった。

ひとりは大工の息子だった。その子は教室では加藤と同等の学力をもっていたが、家に帰れば子守をはじめ家事の手伝いをしなければならなかった。加藤は好きなだけの時間を勉強に費やすことができた。「教室での彼との競争が、まったく条件のちがう競争であったということを理解し」自分の置かれた社会的位置について「ほとんど後ろめたさ」を感じた。そしてこの大工の子が、家庭の経済状況によって中学進学をあきらめざるを得なかったことに強い驚きを感じ、疑問を抱いた。中学に進学できないのは、その子の責任でもなく、その親の責任でもない。教育の不平等は、個人の責任ではなく、社会の責任であるという考え方をもったのである。

昭和初期の道玄坂界隈

もうひとりの男の子がいる。この子は「教室のなかではいつも出来がわるく、教師から怒鳴られてばかりいた」。ところがこの子が、家業の手伝いで、道玄坂の夜店で見せた振る舞いに加藤は圧倒される。「父が氷の代を払い、その子がうけとる」。父信一とその子のあいだに対等な取引があるにかかわらず、「私は単にそれを見ているにすぎない」。加藤は級友を「再発見」し、自分を「再発見」する。ここでも加藤は「社会」を知るのである。

大工の子と夜店を手伝う子の存在は、長井邸の金網や熊六邸の生籬と同じように、社会というものを教えたに違いない。加藤が信奉した平等主義、社会的弱者への共感は、こういう経験にも根差しているに違いない。もし加藤が町の小学校に通わなかったら、平等主義や社会的弱者への共感は、もつことがなかったか、あるいはもつことがかなり遅れただろう。

(5)『子供の科学』と『小学生全集』

加藤の読書生活は幼児期の病床に始まる、母織子が語り聞かせをしたことは前章に触れた。またたくまに字を覚え、みずから読むようになった。何を読んだかについて詳しくは分からない。小学生のときに読んだ雑誌や書籍として『子供の科学』と『小学生全集』を挙げている。

『子供の科学』は、科学評論家原田三夫(1890―1977)が編集に関わった雑誌で、1924(大正13)年に創刊され今日も刊行され続けている。この雑誌を加藤は定期購読した。この雑誌によって「自然科学を学んだのではなく、世界を解釈することのよろこびを知ったのである」「世界が解釈することのできるものだということ、世界の構造には秩序があるということ」を学んだと加藤はいう。これもまた加藤が長いあいだ基本とした世界に対する態度である。

『子供の科学』を編集した原田三夫(左)
小学生全集第67巻『音楽の話と唱歌集』表紙と大扉(兼常清佐著)

一方、全88巻の『小学生全集』は、菊池寛が編集し、芥川龍之介が協力した読み物百科事典風全集であった。この全集を全巻買って読んだという。なかでも加藤は音楽学者である兼常清佐に興味を抱いた。兼常は「ピアニスト無用論」など挑発的言辞を弄したことで知られる。しかし、小学生に対して、ベートーヴェンのピアノ曲を語り、シューベルトの歌曲を勧めるのである。小学生でシューベルトの歌曲の真価を理解できる人は、いたとしてもごく稀だったろう。加藤は兼常について「彼がなにをいっているのかほとんど全くわからなかったが、(中略)彼がみずから感動し、みずから考え、諧謔を弄し、皮肉を放ち、攻撃し、防衛し、要するにその本のなかで生きているのだ」と知ったのである。のちに加藤は、兼常の文章は文学であると位置づけるのであった。

(6)補習授業と飛び級試験

常磐松小学校では、有名中学へ卒業生を送りこむための学習体制を採っていた。そのために4学年の末に、児童を中学校進学組と、進学しない組とに分けて、進学組には受験のための補習授業を授けた。

第5学年になると、教師たちは中学校の等級づけを行なった。「七年制高等学校の中学部〔青山師範や武蔵など ─ 引用者註〕と、東京府立第一中学校は、第一級であり、陸軍幼年学校その他は第二級であり、第三級以下は話にもならない」。

学校の授ける補習授業は、今日の小学生が通う受験塾のようなものである。塾に通う児童たちには、お互いの競争意識と連帯意識とを合わせ持っている。しかし、多くの子供たちはそういう教育を受けることに対する疑問はもっていないだろう。ひたすら「調教師」が描く計画に従って、日々を過ごしてゆく。

小学生の加藤もまた受験勉強に努力を傾けることに対する疑問はなかった。「中学校の入学試験は私の本業」であると心得、「本業に精を出し」そういう「自分自身に満足し」ていた。そうなれば祭りの賑わいにも、神社の境内の子どもたちの遊びにも、心惹かれることはなくなる。かくして受験勉強はほとんど運動競技の練習のようなものになり、練習がそれなりの効果をあげれば、達成感という御褒美を得ることができるのである。

親の勧めに従って、東京府立第一中学校の「飛び級試験」を受け、首尾よく合格した。多数の級友たちが小学6年生になるとき、加藤は学校を離れ、桜横町や松本先生と、後ろ髪を引かれる思いで別れなければならなかった。加藤自身は「満足を感じなかったわけではないが、その満足には実質的な内容もなかった」と述懐するのだった。