水にまつわるエトセトラ
−レーザー分子分光学からの知見−

基礎工学研究科 物質創生専攻
助教授 長澤 裕

1.はじめに

人間にとってもっとも身近な液体は「水」である。地球表面の3分の2程度を覆い、その中で生命は誕生し、それなしに生命は生きられない。さらに、水は他の液体と比べて特異な性質を持っている。水分子は水素原子2つと酸素原子1つからなる単純な3原子分子であり、しかも水素は原子番号1のもっとも単純な元素だ。それなのに、水の沸点と融点は常圧でそれぞれ100℃と0℃という他の単純な分子と比べて高い値を示す。また、温度を下げて結晶化して氷になると密度が減り、体積が増えるという珍しい性質も持っている。そのため、氷は水に浮く。これらの特異な性質は、水分子同士に特有な「水素結合」という弱い化学結合に起因するが、水の物性のすべての謎が科学によって解明されているわけではない。水はその特異性ゆえ、必要以上にその神秘性が強調されることがある。たとえば、浄水器などの販売の際に「クラスターの小さい水はおいしい・身体にいい」といった宣伝が行われていたりする。水のクラスターとはなんだろう?同じような話はアルコール水溶液にもあり、「アルコールクラスターの小さい酒はうまい・悪酔いしない」などといった話を聞いたことはないだろうか。これらの主張はどこまで科学的に正しいのだろう?さらに怪しい話もある。たとえば、「水は以前そこに溶けていた物質の性質を記憶しており、溶質分子が1つも残っていないほど希釈した薬の水溶液にも薬効がある」などという民間療法がヨーロッパには実在する。今年の春に開催された日本物理学会年次大会では「ニセ科学とどう向き合っていくか?」というタイトルのシンポジウムが開かれた。ここでは『「ありがとう」という文字を見せた水からはきれいな氷の結晶が生じ、「ばかやろう」という文字を見せた場合は汚い結晶ができる』と主張する本が取り上げられた。こういった疑似科学やニセ科学に対して、科学はどのようなことが言えるのだろうか。どこまでが科学的に検証されたことで、どこからが非科学なのであろうか。
 私の専門は、特殊な光であるレーザー光を利用して液体やガラス(アモルファス)中の分子の動きを追跡する分光学である。こういった分光学の立場から、水についてはどのようなことが言えるのであろうか?水の中にクラスターは存在するのだろうか?水に情報を記録することはできるのか?この講演では、我々の研究室の最新の研究結果を交えて水の物性について広く議論していきたいと思っている。

2.液体中にクラスターは存在するか?

「クラスターの小さい水はおいしい・身体にいい」という主張がある。「磁場や特殊なフィルターを通すと、水のクラスターが小さくなる」といった宣伝もなされていたりする。これらの主張の正否を議論するにはまず「液体の中のクラスターとは何か?」という問題を考えなくてはならない。clusterという言葉を辞書で調べると「房(ふさ)、かたまり、群れ、一団」といった意味が出てくる。つまり液体中で分子同士がくっつきあい小さな集団を形成しているというのである。カタカナで「クラスター」と書くとなんとなくカッコイイが、日本語だと「水の中に水分子のかたまりがある」という当たり前のことになり、なんのことだかよくわからない。ある特定の水分子の集団を周りの水分子と区別することができるのだろうか?「クラスターの化学」梶本興亜編(培風館)という本を見ると、液体中のクラスターの定義として次のようなものが提案されている。「均一な分子の“海”の中にそれとは性質を異にする分子集団が有限の時間存在すると認識される時、この集団をクラスターと呼ぶのが自由度の大きい定義と思われる。」水中にこのような水分子の集団が存在するのであろうか?この可能性はかなり低い。水分子は極めて小さいので、人間の常識を越えるような時間領域で乱雑に動き回っている。水分子同士の水素結合も非常に短いタイムスケールで生成消滅を繰り返している。こういった分子の動きを観測するには超短パルスレーザーという特殊なレーザーを使う。その実験の結果、少数の水分子の集団が同じ形にとどまる平均時間は数ピコ秒(10-12秒)程度であろうということがわかっている。たとえクラスターが存在したとしても、それは人間の感覚で認識できるほど長い時間存在するとは考えられないのである。


図1.エタノール水溶液の粘度のエタノールモル分率依存性。モル分率0.2程度のところで粘度が最大になることがわかる。(長藤・中川らの測定)

 それでは、水にアルコールを加えた場合、アルコール分子がクラスターを形成する可能性はないのだろうか?実を言うとアルコールクラスターの存在を示唆する学術論文は多数存在する。その根拠の1つはアルコール濃度に対する水溶液の粘度の特異な依存性である。図1にエタノール水溶液の例を示すが、エタノールのモル分率が0.2程度の時に粘度が最大となり、純エタノールや純水の2倍にもなる。(これは、焼酎やウイスキーの舌触りが水よりも粘っこく感じられる原因の1つであろう。)このような粘度の異常な濃度依存性を説明するのにクラスターの形成が持ち出される。つまり、エタノール分子は疎水性相互作用などにより水中でクラスターを形成し、そのクラスターの周りで水分子は水素結合ネットワークによる籠状構造を形成する。こういった液体構造がもっとも顕著なのが、エタノールモル分率が0.2程度のところだという説明である。これ以上アルコール濃度が高くなると、クラスター同士が会合してしまうため、このような液体構造は壊れて粘度は再び低下する。


図2.エタノール水溶液中のクレジルバイオレット分子の回転緩和時間(τ)と粘度(η)のエタノールモル分率依存性。(長藤・石橋らの測定)

 アルコールクラスターを直接観測するのは難しいが、パルスレーザーを用いると水溶液中の分子の回転運動を観測することができ、間接的にクラスターの存在を確認することが出来る。クレジルバイオレットと呼ばれる色素分子のエタノール水溶液中における回転緩和時間のモル分率依存性を図2に示す。エタノールモル分率が増加すると回転時間も長くなっていくが、0.2以上になると、ほぼ一定の値(〜250ピコ秒)になることがわかる。これはモル分率が0.2以上になると、クレジルバイオレット分子はほぼ完全にエタノール分子に囲まれており(エタノールクラスターに取り込まれた)、水分子の影響をほとんど受けていないと解釈できる。(クレジルバイオレットはエタノールよりはるかに大きな分子であるが、250ピコ秒という非常に短い時間で回転運動していることに注意)

3.液体は情報を記憶することができるか

ここまでの話をまとめると、純水中ではクラスターの存在は難しいがアルコール水溶液中なら在り得るということだ。それでは、なんらかの外力を加えることにより、これらのクラスターを小さく分解することができるだろうか?通常よりもクラスターの小さい液体が存在するということは、過去にクラスターを小さくするような作用を受けたという事態をその液体が記憶しているということになる。しかし、液体分子は熱揺らぎによって常に乱雑に動き回っており(ブラウン運動)、液体中に特殊な構造を作り出したとしても、この運動によってすぐにかき消されてしまう。たとえば、強力なパルスレーザーを用いることにより、レーザーの偏光方向に水分子を配向させ、液体に複屈折性を持たすことができる。これを光Kerr効果と呼ぶが、このような過渡的複屈折性は液体のブラウン運動により、これも数ピコ秒という超短時間でかき消されてしまうのである。科学では液体中の分子には「熱平衡」というものが成立していると考える。熱平衡状態では分子は一番安定な状態にいる傾向がある。何らかの作用により液体中に通常とは異なる状態を作っても、その状態が普通よりも不安定な状態(非平衡状態)であれば、時間とともに一番安定な状態(熱平衡状態)にもどってしまうのだ。水溶液中でアルコール分子がクラスターを形成しているとすると、その平均的な大きさや形はその時の温度と圧力で規定されてしまう。なんらかの外力を加えてそのクラスターを細かく分解しても、その外力を取り除いた後は、時間とともにもとの大きさにもどってしまうはずである。どの程度の時間でもとにもどるのかというと色々議論があるが、数十ピコ秒よりはるかに長いということはないであろう。水溶液中のアルコールクラスターの大きさを変える一番いい方法は温度や圧力を変えることだ。しかし、常温常圧にもどせば、すぐもとの状態にもどってしまう。
 液体が記録媒体には適していないということは、人間が今までに発明してきた記憶媒体は固体(たとえば、ハードディスク、DVD、CD、本、石板…)であるという事実からも明白だ。何らかの情報を水に記録する場合、個々の水分子に何かを記録することはできない。なぜなら、同じ状態にある水分子同士は量子力学的要請により全く同じ性質を持ち、区別がつかないからだ。何かを記録させるとしたら、集団としての水分子が持つ不均一性を利用するしかない。たとえば、クラスターの大小を利用する。しかし、肝心のクラスターが存在しないのでは話にならない。また、仮に何らかの方法で水に情報を書き込んだとしても、ブラウン運動のせいですぐに消えてしまう。消えないようにするにはブラウン運動を抑制するしかない。液体を冷却していくと、ブラウン運動が抑制されて粘度が上昇していく。ある種の液体は凝固点より温度を下げても、結晶化せず非常にドロドロした過冷却液体になる。さらに温度を下げると流動性をほとんど失い、ガラスやアモルファス等と呼ばれる固体になる。ガラスやアモルファスは結晶のような分子の規則的配列は持たず、液体のように乱雑なままの固体である。こうなるとどうにか記憶素子として利用できるようになる。低温のガラス中の色素の不均一スペクトルを応用してホログラフィックメモリーを開発しようという研究がある。これらの手法はホールバーニングやフォトンエコーと呼ばれるが、常温で液体の水のOH伸縮振動の赤外吸収スペクトルにホログラムを書き込むという研究が最近発表された。その結果は、せっかく書き込んだホログラムはたった50フェムト秒程度で消えてしまうということであった。(1フェムト秒=10-15秒)
 以上述べてきたように液体の水は記録媒体には全く適していない。ましてや水が人間の意識や言葉を理解することはない。もし水が人間の言葉を理解するというのであれば、科学者はもうとっくの昔にそのことに気付いていただろう。工業的に応用だってされているかもしれない。人間の好奇心は極めて貪欲なのである。「科学にはわからないこともある」というのは事実だが、だからといってデタラメを言っていいわけではない。19世紀の終わりごろ、古典力学では説明できない新しい現象が観測された。この場合も科学者は「対応原理」という方法で、それまでに構築された法則や理論をもとに、それを発展させて量子力学を編み出した。今までに積み上げられてきた科学知識にまったく相反するものは、ただのニセ科学だと考えていい。

4.水がなくても生存する生物はいるか

最後に水がなくても生存する生物はいるか?という話題を取り上げたい。結論から言うと、身体が完全に干からびても、再び水をかけると蘇生する生物は実在する。これはまるでミイラが生き返るような話であり、これもまた超常現象かニセ科学のようだが事実である。水生生物と違い、陸生生物は照り付ける太陽による乾燥の危険に常にさらされている。我々のような高等生物は体表面からの水の蒸発を調整するような皮膚を持っている。立派な足が生えているので水を求めて移動することもできる。知能が高ければ水道管のような水の輸送手段も製作できる。しかし、小さな水溜りに住む微生物にとって、その水溜りが干上がることは生死にかかわる重大な環境問題だ。彼らは水溜りが干上がると死滅してしまう運命にあるのだろうか?乾燥による死という問題は海から陸へ最初に上陸した生物も直面したことだろう。その頃からだいぶ時間が経ち、生物もかなり進化した。土壌微生物の多くは水が不足し身体が干からびると、まるで死んだように完全に新陳代謝を止め、再び水が戻るまでじっと我慢するという耐乾燥性の能力を身につけた。生命のこういう能力のことを「クリプトビオシス」と呼ぶ。このような生物で一番有名なのは、「何をしても死なない虫」として知られるクマムシであろう。


図3.大阪大学構内の竹薮から採取したクマムシの一種。乾燥した竹の落ち葉を水に浸し、沈殿物の中に見つけたもの。つまり、落ち葉についていた時は乾燥状態にあった。(剣持による撮影)

 図3に阪大構内で採取したクマムシの顕微鏡写真を示す。竹やぶで拾ってきた落ち葉を水の入ったビーカーに漬け、しばらくした後にビーカーの底に沈殿したゴミの中から見つけたものである。つまり、落ち葉に付いていた時は乾燥状態にあり、水に漬けることにより生き返ったのである。クマムシは体内の水分のほとんどを失ってもクリプトビオシス状態で生存可能であり、乾燥状態では超低温(0.008ケルビン)、真空(10-6mmHg)、高圧(6000気圧)、放射能(57万レントゲン)に対しても耐性を示すことが知られている。これが「何をしても死なない虫」と呼ばれる所以である。
 クマムシの驚異的な耐乾燥性は何に起因するのか?生物が水なしに生きられない理由の1つは多くの生体分子(蛋白質など)の高次構造や機能はそれに水素結合した水分子(結合水)なしでは保たれないからである。水分が蒸発し身体が乾燥する際、クマムシは体内にトレハロースと呼ばれる2糖類を蓄積する。このトレハロースが水の代替物質として生体物質の構造を保持しているのではないかと考えられている。糖水溶液は濃度が高くなると粘度が高くなり、最終的にはガラス転移してアモルファス状態になる。このアモルファス状態は一般に飴とかキャンディとして知られる。トレハロースも乾燥した際にアモルファス状態になり、生体分子の運動を分子レベルで抑制すると考えられる。そのため、長期間の乾燥状態でも生体分子は壊れることなく保存される。さらに、生体物質を外界から遮断することにより、真空や低温、高圧にさられても生存が可能になるのであろう。我々の研究室では、レーザー分光学により、トレハロースの濃度上昇とガラス転移にともない、分子運動がどの程度抑制されるのかを研究している。
 クマムシの驚異的な生命力を見ると、「クマムシは隕石に乗って宇宙から来たのではないか?」みたいなことを言い出す人が必ずいる。しかし、そうではないことはわかっている。クマムシの種類はほぼ地球上のどこでも(陸の上でも海の中でも)見つけることが出来るといわれているが、耐乾燥性を示すのは陸生のクマムシだけである。つまり、進化の過程で海から陸に上がる際、クマムシはその驚異的な耐乾燥能力を身につけたのである。なお、クマムシは体長が500ミクロン程度で飼育も困難なので、その研究はあまり進んでいない。アフリカに生息するネムリユスリカの幼虫(体長数ミリ程度)もクリプトビオシスを示し、耐乾燥性を持つ生物としては最大のものであろう。最近、日本の科学者がアフリカより採取してきたものを研究しているので、そのメカニズムはいつの日か解明されるであろう。(ちなみにユスリカとは血を吸わない蚊である)

参考になるインターネット上のサイト

1)水クラスターについての議論は以下のページを参照してください。
 「水のクラスター ―伝播する誤解―
 「水商売ウォッチング
2)第61回日本物理学会年次大会のシンポジウム「ニセ科学とどう向き合っていくか?
3)大阪大学サイバーメディアセンターの菊地誠教授の「ニセ科学関連文書」
4)水の結晶化(雪の結晶)についてはカリフォルニア工科大学のKenneth G. Libbrecht教授の「SnowCrystals.com」が参考になります。(英語だけどきれいな写真がいっぱい)
5)宮坂研究室のサイトで、乾燥から復活するクマムシの動画をダウンロードできます。
 「クマムシの対乾燥性
 「クマムシって不思議!!