初代館長・加藤周一さんが亡くなりました

立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長 安斎育郎

 加藤周一さんが、2008年12月5日、89歳で亡くなられた。

齢を重ねてこの人の年齢に達したら、努力しだいでこの人のようになれるだろうか? そう自問して、直ちに“Impossible!”(あり得ない!)と結論せざるを得ないような人─私にとって加藤さんはそんな人だった。平和学の泰斗ヨハン・ガルトゥングや哲学者の鶴見俊輔さんと話していても、そんな感情を抱くことがある。

加藤さんの博覧強記ぶりはつとに有名だが、何事につけ世紀をこえ国境をこえて自在に展開される比較文明論は、まさに「加藤周一的世界」というほかはなく、いつも感嘆させられた。

 加藤さんは、立命館大学国際関係学部客員教授を12年間務めたが、1992年5月~1995年3月の間は、国際平和ミュージアムの初代館長を務めた。その時私は館長代理だった。

 加藤さんは、先頃亡くなられた客員教授の筑紫哲也さんも引用されたように、「日本人を日本人たらしめているものとは、『日本語』と『京都』である」というほど、京都を愛していた。私たちは、加藤さんが東京から京都に出講される度に、かもがわ出版の湯浅俊彦さんの世話で「加藤周一を囲む会」を催し、蘊蓄を味わい、対話を楽しんだ。加藤さんも楽しんでいるように見えた。それらはやがて『居酒屋の加藤周一』『居酒屋の加藤周一2』(かもがわ出版)という2冊の本となり、多くの人々に愛読された。その中には、非合理主義批判に関する私の講演とそれに続く加藤さんとの対談も収められているが、加藤さんは常々私がオカルト・超能力・占い・予言・心霊現象といった現代非合理主義の諸相を時に実演を交えながら批評している活動に関心を寄せ、「僕は安斎さんのファンだから」と励ましてくれていた。

 そんな加藤さんからは、複雑な物事を捌くときに有効な概念や論理について、折にふれて示唆的な話を伺った。ある日の「囲む会」で、「『正しさ』とは何か」が問題になった時、加藤さんは「『正しさ』には3つの類型がある」と述べた。例えば、①2+3=5、②きょう京都は晴れている、③アメリカがイラクを攻撃したことは正しい、という3つの命題の真偽を考える場合、①はペアノの公理系と自然数の定義を前提とすれば客観的に証明できる「絶対的な正しさ」、②は京都が晴れていれば「正しい」が、雨なら「正しくない」から、「事実依存型の正しさ」、③は一つの価値観の表明に過ぎないので、「価値観依存型の正しさ」という訳だ。①と②は事実や論理との整合性の問題だが、③は価値の選択の問題だ。われわれが平和博物館で展示するものは、②の範疇の問題が多い。

1995年、加藤さんと私は長崎原爆資料館の総合監修作業を引き受けた。もともと長崎市は「加藤周一監修」を望んでいたが、加藤さんが「安斎さんが一緒なら」という意向だったため、共同監修になった。長崎市側からは、「原爆投下後に何が起こったかだけではなく、なぜ長崎に原爆が投下されたのか、世界史の中での長崎原爆を描いてもらいたい」という要請もあり、ささやかながら「原爆投下前史」を描くコーナーを設え、南京虐殺事件も含めて十五年戦争の概要を年表と写真で展示した。すると、「日の丸会」という市民団体から「南京事件に関する写真の信憑性に疑いがある」などの抗議があり、加藤さんと私に支払われる謝金の返還をめぐる住民監査請求や、長崎地方裁判所への提訴という事態に発展した。第1審では私が法廷で証言し、裁判は長崎市側が全面勝訴して決着を見たが、歴史的事実を展示する博物館には常にこの種の問題がつきまとう。その場合、平和博物館が展示するものはすべて事実でなければならないが、どの事実を展示し、どの事実を展示しないかという選択の中に、博物館としての価値判断が反映される。とくに、自治体立の平和博物館の場合、多様な歴史観・価値観の住民がいる中で、特定の歴史観・価値観に依拠して展示すれば常に批判が加えられ易い。では、何を基準に展示の適否を決めればいいのか?

こうした場合、政府公認の歴史教科書(「教科書にもこう書いてある」)や政府見解(「政府もこう言っている」)が「正しさ」の基準として使われがちだが、それらにもしばしば偏りがあり得る。透徹した合理主義者であった加藤さんは、「正しさ」を整理しただけでなく、自ら教科書裁判に関わることなどを通じて、「正しさ」の基準とされがちな教科書検定のあり方にも異を唱えていた。権力に阿るなどということは加藤さんには無縁だったが、そうありたいものだと私も心している。

学徒出陣から50年目の1993年、加藤さんは国際平和ミュージアム館長として記念講演を行なった。講演内容は、立命館大学の歴史や、折から開かれたアジア太平洋学長フォーラムの記録とともに『わだつみ不戦の誓い』(岩波ブックレット)に収録・出版され、立命館では全教職員・学生・院生に配布された。講演の中で加藤さんは、太平洋戦争の日本と世界の時代状況を的確に描出し、「過去に現代を見、現代に過去を見る」視点の大切さをアピールした。あの時代、日本国民は雪崩を打ったように戦争へ戦争へと引きずられていったのだが、加藤さんは「まるで“佐渡へ佐渡へと草木はなびく”という浪曲の文句さながらに」と表現し、それを“Sadoistick Conformism”(サドイスティック・コンフォーミズム)という、なかなか気の利いたアドリブ新造語で揶揄した。「佐渡へ佐渡へ式大勢順応主義」とでも言おうか。この部分は『わだつみ不戦の誓い』からは削除されたのだが、言い得て妙である。加藤さんは「自由を奪うこと」の危険性を繰り返し喚起し、「自由を抑圧するもの」を徹底的に拒否する心を確固として持ち続けていた。そうありたいものだと、この点でも私は心している。

加藤さんは、また、相手が名のある政治家であれ、権威ある学者であれ、初対面の高校生であれ、平等に相対した。阿ることも、蔑むこともなかった。「平等」は、「自由」と並んで、加藤周一的価値体系のもう一つの構成要素だったのだろう。戦争はその大敵であるし、平和はそのための必須の条件でもある。

加藤さんは、日本語・英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語の5ヶ国語で大学の講義ができた稀有の研究者・教育者でもあった。とてもそんなことは真似できないにしても、この「知の巨人」とせっかくの知己を得た「自称弟子」としては、不肖は不肖なりに、加藤さんの思想と実践を反芻しながら誠実に生きていきたいと心引き締めている。

2008年12月7日