「Rs be ambitious!」
北村春江氏(1952年 法学部卒業) 弁護士、元芦屋市長
自ら道を切り拓く~女性の社会進出のパイオニア、北村春江氏~
立命館大学を卒業し、各界で活躍するOB・OGの社長や若手社会人が
在学生の皆さんにエールを送る「Rs be ambitious!」。
今回お話を伺うのは1956年に立命館大学OGとして初めて司法試験に合格、その後弁護士となり、日本初の女性市長を
経験されるなど、いわば女性の社会進出の開拓者として、今も尚活躍し続ける北村春江氏(1952年法学部卒業)。
女性が仕事を持つ事への理解がない時代、どのような決意で弁護士という道を選び、
市長となり、現在まで歩まれてきたのかインタビューしました。
(2008年10月27日掲載)
 
 

私は1928年に京都市で生まれ、大阪で育ちました。私の若い頃は、戦争が段々と激しくなり、落ち着いて勉強できるような時代ではありませんでした。1941年に女学校に入学しましたが、学徒動員もあったので、学校での授業は少なく、女学生とは言うものの基礎的な土台を学ぶことが本当にできなかったんです。終戦の年に女学校を卒業して、立命館専門学校に入学。その後、立命館大学の法学部に編入しました。当時は女子学生が全学で10名程度しかいなかったんですよ。それでとても目だっていたので、沢山の学生さんから声をかけられましたよ(笑)。勉強だけでなく、映画を見に行ったり、京都を散策したりと大学時代の楽しい思い出は本当にたくさんありますね。

 

立命館大学を卒業して、いざ社会に出てみると、女性に対する社会の風あたりの冷たさを実感しました。働きたいと思っても、お茶汲みなどしかできない。本当に女性が男性と同等に仕事を持つ事が許されてはいなかった時代だったんです。この社会の現状を目の当たりにし、女性でも社会に認められながら働ける仕事を持たなければと思い、司法試験の勉強をし始めました。昼間は勤務をして、夜は図書館で勉強という毎日を過ごし、4年目にして司法試験に合格することができました。

 

弁護士となった後も女性ということで多くの壁にぶつかりました。当時、女性弁護士なんて本当に数が少なかったですしね。働く事務所に関しても、雇ってくれるところがなかなか見つからず、やっと事務所が見つかっても、依頼人の方に「女なんかに仕事を任せられない」という顔をされたことが多々ありましたよ。辛かったですね。その後2年間同じ事務所で働いていた今の夫と出会い、結婚をして、夫の事務所で働きながら二児の子どもにも恵まれました。そして、弁護士の仕事を中心に、大阪家庭裁判所調停委員・芦屋市教育委員などの仕事も並行してやっておりました。女性ということで、前例が無い場合が多く、手探りで前に進むことも多かったですね。でも、それを楽しみながらやっていました。

 

 

 

 

京都生まれの私がなぜ芦屋市長にと驚かれるでしょう。それは芦屋に住み、弁護士として働きながら、芦屋市教育委員の仕事をしていたことが関係しています。当時の芦屋市は学校現場が荒れ、問題を抱えており、学力も年々下がっているという深刻な状況でした。私はこの問題に教育委員として日々取り組んでいました。そんな中、これら教育の問題を深刻に捉えたお母さんたちからの強い要望で、芦屋市長への立候補のお話が来たのです。市長を変えなければ、芦屋の教育は良くならないと、お母さんたちが、立ち上がられたのです。お母様方には選挙活動などもお世話になり、大変支えて頂きました。女性として社会の風あたりは厳しかったのですが、同じ女性に支えられているということが、かなりの励みになりましたね。

 

そして、1991年に芦屋市長に当選。それから12年間という長い歳月を、女性市長として芦屋の市政に携わってまいりました。この任期の間、様々な経験をしましたが、初めてのことが多くとまどうことも沢山ありました。中でも忘れてはならないのが、市長1期目の終わりに起きた阪神淡路大震災です。芦屋は特に小さな市の割に被害が大きく、阪神間で被災率が高かった地域です。最近では、岩手・宮城内陸地震や中越沖地震など地震災害が度々おこっていますが、当時は前例がなく、すべてが初めての経験ばかりでした。地震直後、私はすぐに市役所へと向かいました。向かう道中、崩れた家の下敷きになった家族を呼ぶ人、怪我をして道に立ちすくむ人などを見て、状況の悲惨さを改めて知りました。そして、ようやく市役所に着いた時には、市役所内に避難者の方が溢れていました。それからは避難所の確保など、その対応や復旧に追われる毎日で、約1ヶ月は家に帰らず市役所に泊り込みました。水・電気などは約1ヶ月普及せず、自衛隊にお世話になったり、少し離れた市に避難所を確保してもらったりといろいろな方に助けて頂きました。あの時は、すべてのことにおいて自らが判断し、決断していかないといけないことばかりで、本当にめまぐるしい日々でした。この地震から、各市町村の防災計画は、職員が揃っており、周辺地域が余り被害のない状況が揃った時にしか通用しないということにも気づかされ、これからの災害対策への取り組みを変える必要性を痛感させられました。更に「ボランティア元年」といわれる言葉ができたように、全国からの支援や多くの「ボランティア」の方々に御支援をいただきました。

 

2期目の選挙でのこと、震災対応に追われる中での市長選挙では「この大災害の後の立て直しは女性では無理だ」との声も耳にしました。しかし、市民は女性だという目線ではなく、私個人を見てくれていたんですね。震災直後の2期目の選挙でも市長に選んでいただけました。女性であるからと辛い思いもしてきましたが、市民の支援にどんなに勇気づけられたか。長年、市長として市政に努め、ある程度復興できた2003年の任期満了で退任を表明し、市長を辞めました。震災前は、財政的に潤っていた芦屋ですが、この地震の対応などで借金がかさみ、今ではかなりの財政難に陥っているのが現実です。現役時代は、地震のこともそうですが、市民の声を反映させるために努力する日々を過ごし、あっと言う間の月日でした。大震災を市長という立場から経験したことにより、震災には常に個人レベルから備える必要があることや、市民一人一人の防災への意識が大切であることを、防災対策の先駆けとしてお伝えできることは、この経験があってのことです。今では芦屋の復興も進み、区画整備などで町はとても綺麗になっています。これからの芦屋の変化がとても楽しみです。

 
 
 

今では、大学へ向かうバスは女子学生も多く、キャンパスも女子学生で賑わっていて、私の頃とは本当に時代が変わったんだなと感じています。女性が社会に受け入れられ、男性と同じ扱いを受け始めたのはここ10年ぐらいの話ではないでしょうか。私の若い時代では叶わなかったことが、現在では何の不思議もなく実現しているということに嬉しさを感じます。現在では普通のことでも、それが普通では無かった時代もあったのです。現在のように、女性が活躍できる時代の先駆けとなった多くの女性がいることも、事実として認識して頂けたら嬉しいですね。

 

今の時代では男女関係なく、社会に出ると多くの壁にあたるでしょう。そこで、前例がない、できないと思ってしまわず、自ら道を切り開いてほしい。私達が切り拓いていったようにみなさんにも切り拓く力はあるはずです。

 

私の大学時代は「勉強、勉強」というよりも、その時にしか出来なかったことを満喫しました。「若いからこそできたこと、若いからこそできること」があると思います。そのことを忘れずに学生時代を、十分に謳歌してください。皆様のご活躍を、心からお祈りしています。

[学生広報スタッフ取材後記]
今回は、私が住んでいる芦屋を12年間支えられた前市長とお話ができ、本当に光栄でした。震災後に、市役所まで歩いて通われていた市長の姿を見ていたので、当時の想いなどが胸をよぎり、思い出話に花が咲くなど、素敵な一時を過ごさせて頂きました。本当に温かく大きな方で、とても安心感を与えてくださるお人柄が、芦屋市民の支持を得たのだということを実感することができました。
市長として実現させた政策の中には、私が何も思わずに当然と思っていた環境が、実はかなりの努力の上で成り立っているものもあるということに驚きました。改めて、すごい方だということを認識すると同時に、大学のOGとして今も尚活躍される北村氏に良い刺激を頂きました。
 
取材・文/植田絵里奈(文学部4回生)
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