京都生まれの私がなぜ芦屋市長にと驚かれるでしょう。それは芦屋に住み、弁護士として働きながら、芦屋市教育委員の仕事をしていたことが関係しています。当時の芦屋市は学校現場が荒れ、問題を抱えており、学力も年々下がっているという深刻な状況でした。私はこの問題に教育委員として日々取り組んでいました。そんな中、これら教育の問題を深刻に捉えたお母さんたちからの強い要望で、芦屋市長への立候補のお話が来たのです。市長を変えなければ、芦屋の教育は良くならないと、お母さんたちが、立ち上がられたのです。お母様方には選挙活動などもお世話になり、大変支えて頂きました。女性として社会の風あたりは厳しかったのですが、同じ女性に支えられているということが、かなりの励みになりましたね。
そして、1991年に芦屋市長に当選。それから12年間という長い歳月を、女性市長として芦屋の市政に携わってまいりました。この任期の間、様々な経験をしましたが、初めてのことが多くとまどうことも沢山ありました。中でも忘れてはならないのが、市長1期目の終わりに起きた阪神淡路大震災です。芦屋は特に小さな市の割に被害が大きく、阪神間で被災率が高かった地域です。最近では、岩手・宮城内陸地震や中越沖地震など地震災害が度々おこっていますが、当時は前例がなく、すべてが初めての経験ばかりでした。地震直後、私はすぐに市役所へと向かいました。向かう道中、崩れた家の下敷きになった家族を呼ぶ人、怪我をして道に立ちすくむ人などを見て、状況の悲惨さを改めて知りました。そして、ようやく市役所に着いた時には、市役所内に避難者の方が溢れていました。それからは避難所の確保など、その対応や復旧に追われる毎日で、約1ヶ月は家に帰らず市役所に泊り込みました。水・電気などは約1ヶ月普及せず、自衛隊にお世話になったり、少し離れた市に避難所を確保してもらったりといろいろな方に助けて頂きました。あの時は、すべてのことにおいて自らが判断し、決断していかないといけないことばかりで、本当にめまぐるしい日々でした。この地震から、各市町村の防災計画は、職員が揃っており、周辺地域が余り被害のない状況が揃った時にしか通用しないということにも気づかされ、これからの災害対策への取り組みを変える必要性を痛感させられました。更に「ボランティア元年」といわれる言葉ができたように、全国からの支援や多くの「ボランティア」の方々に御支援をいただきました。
2期目の選挙でのこと、震災対応に追われる中での市長選挙では「この大災害の後の立て直しは女性では無理だ」との声も耳にしました。しかし、市民は女性だという目線ではなく、私個人を見てくれていたんですね。震災直後の2期目の選挙でも市長に選んでいただけました。女性であるからと辛い思いもしてきましたが、市民の支援にどんなに勇気づけられたか。長年、市長として市政に努め、ある程度復興できた2003年の任期満了で退任を表明し、市長を辞めました。震災前は、財政的に潤っていた芦屋ですが、この地震の対応などで借金がかさみ、今ではかなりの財政難に陥っているのが現実です。現役時代は、地震のこともそうですが、市民の声を反映させるために努力する日々を過ごし、あっと言う間の月日でした。大震災を市長という立場から経験したことにより、震災には常に個人レベルから備える必要があることや、市民一人一人の防災への意識が大切であることを、防災対策の先駆けとしてお伝えできることは、この経験があってのことです。今では芦屋の復興も進み、区画整備などで町はとても綺麗になっています。これからの芦屋の変化がとても楽しみです。 |