恥ずかしながら、学生時代、私は世の中で働きたくないという気持ちの方が強かった。出来れば「そのままずっと学生をしていたい」そんな風にも思っていました。とはいえ実際は、仕事をしないわけにはいかない。卒業後は、京都の山科にある鞄製造会社に入社しました。でも、やっぱり仕事が面白いと思い続ける事ができなかった。会社を辞めて、友人の紹介で職を転々とした後、日刊木材新聞社という、原木調達や製造業の市場分析から木材業界の情報を発信する専門紙の記者になりました。
記者時代の知人との関係から、京都で千年シアターという野外劇場の建設に関わることになり、舞台や映画のセットをつくるのが楽しいなと思うようになりました。それがきっかけで様々な制作集団に属しながら、気づけば現在では、映画美術という仕事をやらせてもらっています。この世界に入り約20年ですが、実を言うと、この仕事を生涯続けていこうと決心したのは、つい10年ほど前の40歳を越えてから。しかし、決心した翌朝に気づいた事があります。それまでは自分の可能性の視界が120度や90度ぐらいあるように思っていたのが、40歳を越えてふと気づけば10度ぐらいに狭くなっていた、というだけかも知れないと。
「この仕事で自分は将来やっていけるのか?」とか、「他の選択肢はないのか?」とよく考えていました。自分自身が、映像や芸術を専門分野として学んできてなかった点も、不安要素だったと思います。
私がこの業界に入るタイミングは、まわりの人たちと比べ10年ほど遅く、30歳頃からでした。どうも人より遅れているのが引け目だったのですが「ああ、これからの10年、人の2倍の仕事をすれば皆といっしょだ」と単純に考えそうしてきました。まぁ何よりも子どもが生まれたことで、家族を養わないといけない状況もあったのですが(笑)。以降、年間平均10作品というペースで映画美術を担当してきました。正直、定期的な休みもなければ、家でゆっくり家族と過ごす時間もないに等しいくらいの仕事量です。ひとつの映画を作るために、何ヶ月も前から撮影セットを作っていく美術部門の仕事は、来る日も来る日も永遠に続くかのような作業の連続で、実に根気が要る仕事です。印象に残っている作品を上げるとするならば、『血と骨』でしょうか。この作品中の昭和の町を再現するのは作りがいがあるぶん、とても大変でした。
しかし、映画というのは作品ごとにスタッフや出演者たちが変化します。実に多様な人間の集まりで、現場はまるで生き物のようです。「やっぱり映画は面白い!」という楽しみのほうが上回りますね。それは、自分が「好きだな」「面白いな」と思うことを、実現できているからだと考えています。だからどんなに多くの仕事が重なっても、常にそこに自分流の楽しみを見出して仕事をする姿勢を大事にしています。 |