中川小十郎生誕150周年記念講演会「立命館創立者・中川小十郎の思いをつなぐ」を開催

2016.10.25 TOPICS

中川小十郎生誕150周年記念講演会「立命館創立者・中川小十郎の思いをつなぐ」を開催

 10月22日(土)、朱雀キャンパスにて、立命館創立者の中川小十郎生誕150周年記念講演会「立命館創立者・中川小十郎の思いをつなぐ」と題した講演会を開催し、約300人の方が参加しました。1900年に立命館の前身の京都法政学校を創立した中川小十郎は、それまでは京都帝国大学の設置に携わり、実務家でも活躍、また官僚として樺太の開発を担うなど、様々な活動をしていました。一見、関係がなさそうな中川の足跡ですが、そこにはある「思い」がありました。本講演会は、立命館学園創立にかけた中川の「思い」を振り返るべく開催されました。

長田豊臣理事長
長田豊臣理事長
彬子女王殿下
彬子女王殿下

 冒頭、学校法人立命館・長田豊臣理事長が開会挨拶を行いました。長田理事長は「中川小十郎の思いは、開かれた教育であり、自由と清新を重視した教育でした。立命館は、中川小十郎の思いを受けて、自由と清新を建学の精神に掲げて、前例のないことに果敢に取り組むことこそが重要と考えてきました。2000年の立命館アジア太平洋大学開学、2015年の大阪いばらきキャンパス開設、オーストラリア国立大学との共同学位設置構想といった果敢な取り組みは立命館創立以来のDNAから生まれたものです」と述べました。

 講演会では、彬子女王殿下(心游舎 総裁/立命館大学衣笠総合研究機構客員研究員)が「記憶の種をまく-明治から未来へ-」と題した基調講演を行われました。彬子女王殿下は、「私は英国への留学生生活を終えて京都の立命館大学で勤務するようになり、工芸に関わる職人の方とも話をする機会がありました。職人の方からは、このままでは自分たちの工芸、日本文化が失われてしまうとの話を聞きました。日本人一人一人がこうした文化を重要だと感じ、環境を守らないとの意識を持つのが重要となります」と立命館でのご経験を通じた思いを語られました。そのうえで、「『残すべきものを誰かが選び保護をする』ではなくて、『保護をしなくて遺るような土壌を整える』ことが重要と述べられたうえで、「心游舎をつくり、子供たちが文化を体験できるワークショプを開催しています。日本文化の本当の良さは鑑賞するのではなくて、子供だけでなく、大人向けにも文化の素晴らしさを伝えていくことにしています。楽しかった体験は記憶に残ります。今は分からなくても必ず5年後、10年後には記憶として蘇ってくることになります」とお話されました。
 彬子女王殿下は、「伝統」という言葉は、燈を伝える、つまり「伝燈」という言葉が由来としています。中川小十郎の思いがこれからも先生から学生・生徒に伝わっていくことを期待していますとお話を締めくくられました。

パネルディスカッションの様子
パネルディスカッションの様子

 パネルディスカッションでは「-中川小十郎の「思い」をつなぐ-」をテーマに、文学部の山崎有恒教授がモデレータを務めて行われました。
 山崎教授からは、中川小十郎の生涯を「中川小十郎は日本に不足しているのは鉱山資源と考えて、樺太や台湾などで資源開発に関わりました。一方で、日本には人材という貴重な資源があると認識し、当時、人材育成が無いことを課題と考えて、教育に取り組みました。中川小十郎は文部省に入省し、西園寺公望の右腕として活躍、京都大学の開設に従事し、京都大学だけでなく、中等教育の人材を重要と捉えて、立命館の前身、京都法政学校の開設に尽力しました」と説明されました。
 京都大学文書館西山伸教授からは、西園寺公望の経歴に触れながら、西園寺公望や木下広次との交流の紹介がありました。西山教授は「西園寺と木下は、京都大学の開設に深く関わり、自由な校風作りに強い影響を与えた。中川小十郎のおかげで、京都大学の教員が、夜学である立命館で教えるようになりました。さらに、滝川事件のために京都大学を辞職せざるを得なかった法学部教員を立命館大学が受け入れたのも中川がいたからこそです」と述べられました。
 また、東海大学札幌教養教育センターの池田裕子准教授は、樺太での中川小十郎の活躍ぶりを紹介しました。池田准教授は「中川小十郎は、尋常小学校の開設、樺太窮民救済、セーフティネットとして樺太慈恵院の開設、住民の心の拠り所としての樺太神社の創建に関わり、さらには、樺太の教育機関を統合するものとして樺太教育会を発足させ、周囲からは時期尚早といわれながらも、樺太庁中学校を開校させました。樺太島の住民にとっては、大学にも近い存在であったと思われます。職業学校ではない教育機関を創設したのは、中川小十郎の本気度をメッセージとして住民に見せるものでありました」と述べられました。
 彬子女王殿下は、「私は立命館大学のアートリサーチセンターで2年間、勤務しました。過去の遺産をデータ化する仕事に関わっていました。ただ、デジタルデータがふとしたことで使えないような事態が起きたことで、デジタルデータに止めるのではなく、人の記憶に残していくことが重要と考えるようになりました。そして、心游舎を立ち上げて、子供たちのために、未来のために種を蒔く活動をはじめました」と述べられました。
 約300人の参加者は、パネリストの皆さんのお話を聞きながら、激動の時代を生きた中川小十郎の人生を振り返るとともに、立命館大学創立者、教育者としての中川小十郎の思いに触れていました。

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