2013.01.13

ヒューマニズムについて思う

大阪市立高校バスケ部顧問の体罰を受けた生徒がその翌日に「自ら命を絶った」事件の報道が、先週では一番印象に残りました。同様の指導実践を行うコーチ・指導者の方々や有識者のコメント、生徒・父母・学校関係者達による証言や意見、等々が連日報道されています。

 

それらのコメント内容を見ると、大きく三つに分かれます。1つは、「体罰は禁止されており、子ども・学習者の人権を著しく侵害するものであり、指導・コーチングの有効な手段になるはずもないもの」で、「否定・不要」論とでも言うべき内容です。2つは、「厳しくされたおかげで今日の自分がある、情熱を入れ込むあるいは相手の態度変容を性急に求め過ぎた結果やむなきに至ったもの」だといった、「容認・必要」論とでも言うべきものです。他の三つ目は、「学校名の露出効果を増し、競技界の次代のホープを発掘・育成することに関する結果の実績が求められ、指導者もそれによって評価される「競争事態」に置かれているので、彼らも学校や競技界の被害者」だという、「スポーツ選手育成体制の脆弱」論です。1つ目が表面上は多いようですが、2つ目と三つ目はきちんと系統的に論理内容が明らかにされているとは言えない状況です。

 

スポーツ界、特に学校の運動クラブ(大学では体育会)の暴力容認体質について私が鮮烈な記憶に留めているのは、1965年の東京の大学ワンダーフォーゲル部の「死のしごき」事件です。これは、およそ次のようなことでした。

1965515日から18日まで、東京農業大学のワンゲル部は山梨県へ合宿に行きました。そのハードな日程のもと、それまで登山経験のなかった1年生部員のW君は衰弱しきっていました。それでも頂上への前進強行を求められ、彼は上級生から殴る蹴るの暴行を伴った、指導・援助を受けていました。その状態が3日間ほど続き、やっとのことで同級生に連れ帰られた後彼は死亡しました。当時の朝日新聞の記事では、次のように知らせています。

『練馬署は21日の段階でリンチの線で捜査を進めており、25日には主将のWと副将のF2人を逮捕した。なおも「徹底的に事件は叫明する」という署長の言葉のもと、合宿参加者全員(1年生28名、上級生18名、OB2名)に対し、事情聴取を行い、25日に副将Mと副将T5名を、64日にはOBで監督のIを逮捕した。さらに、このIこそが農大ワンゲル部のトップであり、このリンチ事件の首謀者であったことを明かにした。ある部員は「自分たちも1年のときから同じ訓練を受けてきた」と話したという。』

 

後の裁判において、「閉鎖的な組織の中で、従来の訓練手法や賞罰の与え方等を無批判に受け入れてきたこと」「科学的根拠に基づかない、しかも心身の安全を省みない非人道的な訓練方法」等々について、判決文が厳しく指摘していたことを、私は今でも強く覚えています。

 

後に「教授―学習過程」を研究するようになって勉強したことの1つですが、「動物行動に対する動機づけ理論初期の一番の基本法則」、すなわち「効果の法則」(ソーンダイク)についてもまた、私は上記のこととぼんやり重ね合わせます。

ある行動に対する報酬(快刺激)は、その行動が繰り返される可能性を増す

罰すること(不快・嫌悪)は、その行動が繰り返される可能性を減少させる

これらは、動物行動変容の過程に働く強化の原理です。

 

通常、目標との偏差をゼロにする働きをフィードバックと呼び、それが生じなければ学習は起こらないと考えられます。動物とは異なり、目標自体を自らが徐々に変化させていくところに人間の学習の大きな特徴の1つがあります。指導者が目標を付与し、その変更も指導者が恣意的に行う場面では、その偏差を検知して修正の手立てを図る基準もまた、指導者によって判断されることになります。

目標に至らない部分の隔たりは、「ネガティブ」なものとして次回への入力に反映されます。一方、学習者(特に未習熟な人)は偏差を検出する機能と修正するための有効な手段を十分に構築できていません。畢竟、外見的応答は、「ボーッと、反省心なく、真剣でない」様になることが、しばしばです。

 

お互いの違いを認めることがまず、「人間尊重、人権尊重、」したがって「ヒューマニズム」を大切にすることの基礎であるなら、指導者と学習者とがいかに「目標とフィードバック情報のやり取り」に関して、お互いの相違点について理解しあっていたのか、換言すれば「信頼関係」を築いていたのかが基本線だろうと、私は感じます。

「信頼関係があったならば、体罰も時には有効だ」などとよく言われますが、上の意味での信頼関係があれば、体罰は起こらないあるいは起こさない、とほぼ断言できると私は思います。

 

また、大学や社会人の運動クラブで活躍する選手達に対する調査では、「体罰は有効だと思いますか」という問いに、7割を超える人がイエスあるいは肯定的な意見を述べることがしばしばです。「成功者」に過去を遡っていくら聞いても、「都合のいいことばかりを多少の脚色を加えて想起する」(エピソード記憶)という答えの傾向は、これも変わらないだろうと思われます。逆にスポーツが嫌になったり、うまくなる機会が奪われたりした人々の経験が十分浮き彫りにされている、とは到底思われません。

私が高校生の時代に起こった「死のしごき事件」の時代と冒頭事件が起こった現時点で、スポーツに関する「科学」の進展は目を見張るものがあります。これに対して「人間尊重」の観点はどれほどの進歩を示したのか、と少し愕然となります。この気持ちだけに留まることなく、だからこそ指導者を養成する機関の「ヒューマニズム」が科学とともに問われているのだ、と私は自戒しています。

 

【善】