2017.01.03

謹賀新年

恙無く年があらたまり、穏やかな正月を迎えております。
昨今は、かつての正月の雰囲気とは異なり、元日から多くの商店が営業をしていたり、門松や注連縄などを飾る家も少なく、新しい年を無事迎えられたことに対するお祝いのムードはだんだんなくなってきていますが、元旦、初日の出を拝み、寺社仏閣へ初詣に出かけたあと、親族や旧友に挨拶・近況を報告しあい、新しい年への展望を確認するといったことが、歳を重ねることにその意味の重要性を増してきているように思われます。

2017年に各紙の特集のなかで特に気になったのは、「AI(Artificial Intelligence)」の急速な進出・拡大についてです。ディープラーニング(深層学習)という技術により、人間らしい理解が可能となり、さまざまな分野で適応され、2020年代にはホワイトカラーの仕事の半分が機械に取って代わられるかもしれないということです。また、クリエイティブな仕事である小説の執筆や音楽の作曲にもAIが進出してきているとのこと、そうした未来予想図のなか、我々人間に必要とされるリテラシーはどのようなものなのか?やはり、「祝祭としての身体」(清水ら)ではないでしょうか?我々のみが持ちうる身体は、理知的で機械的であると当時に、偶発的で非合理的でもあります。その最も代表的な例が、世界各地に伝わる祝祭における我々の営為です。たとえば、バヌアツのペンテコステ島のランドダイブのような、どう合理的に説明しようとしても理解が不能な営為を我々の文化は内包してきました。そして、その最たるものが、古代オリンピア、そして近代オリンピックといえるかもしれません。どれだけ後発的な価値を見出そうとしても、オリンピックの祝祭的意味と、そこで蠢く身体性はAIには理解できないのではないでしょうか?

正月に、初詣に訪れた神社で首を垂れ、柏手を打つという身体動作と祝祭が結びついた営為を、多くの人が受け入れ行っている様子を改めて観て、AIと共存しつつ力強く未来を生き抜く鍵がそこにあるような気がしました。

今年1年が皆様にとって大いに実りある1年となりますようお祈りいたします。




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