2019.02.19

受容するとは…

大学3年生のときに発達障がい(アスペルガー症候群)と診断された青年と共に歩き始めて10年が経ちました。
さまざまな特性があり、一般就労が難しく、少しのアルバイトをしながら絵で生計を立てようとしています。
少しずつですが、絵の評価も得られるようになり、二人でお話させていただく機会もたまに出てきました。
そういう場で、よく訊かれることがあります。新聞などでの表現も同じことが使われます。

どのようにして、障がいを「乗り越えた」のか?
どのようにして、障がいを「受容した」のか?

これらの質問や記事の書かれ方に、いつも違和感を覚えます。

そもそも、私たち(私と青年)は、「障がい」だとは考えておらず、大多数の人のあり方で定義される日常生活の様式や常識では生きにくい「特性」があると考えています。一つひとつの「特性」とは向き合えても、「障がい」という得体のしれないものとは向き合いようがないと実感してきました。そのうえで、

「少しずつ絵が評価され始めること=障がいを乗り越えた」なのでしょうか。
裏返せば、「絵が評価されることはないが、描き続けている=障がいを乗り越えていない」なのでしょうか。

さらには、障がいは
乗り越えるものなのか、
乗り越えられるものなのか、
乗り越えなければならないものなのか、

という疑問がわいてきます。みなさんは、どうお考えになられますか?

次に「受容」についてですが、これも同じように違和感を覚えます。
障がいを「受容」するとはどういう状態を指すのでしょうか。こういう文脈で使われる「受容」ということば。障がいのある当事者、あるいは、その身近な人が、自ら「受容」ということばを使うことはほとんどありません。たいていは、第三者が「あの人は、障がいを受容できていない」「障がいを受容して次のステップへ」などという使い方をします。まるで、障がいを「受容」することが正しいこと、あるいは、受容することが人生に積極的であることの指標のように使われます。

私たちは、青年の特性を受容はしていません。
「特性」は、「あるもの」として、認め・受け止めてはいます。
「受け容れる(受容)」と「受けとめる」は、似て非なるものだと考えています。

一つひとつの「特性」を「受けとめる」。
一つひとつの「特性」とていねいに向き合う。
一つひとつの「特性」との上手なつきあい方を模索する。

このようなステップを踏みながら、特性に翻弄されない、特性に乗っ取られない、特性に壊されてしまわない。「受けとめる」からこそ、特性をよく観察し、特性とよく対話し、特性とけんかもしながら生活できていると思います。

みなさんは、自身の嫌いな部分、自信が持てないこと、コンプレックスなどを、「乗り越える」あるいは「受容する」のでしょうか。一度、考えてみてはいかがでしょうか。