STORY #3

うつ病と健康の境界はどこにある?

川本 静香

診断される前段階で
うつ病を早期発見・予防する。

うつ病は「心の風邪」といわれるほど誰にでもなる可能性がある。しかしその軽妙な喩えとはかけ離れた深刻な結果をもたらす危険のある疾病でもある。近年日本では自殺の重大なファクターとしてもうつ病が注目されている。うつ病に焦点を当てて研究する川本静香によると、日本のうつ病患者(躁うつ病を含む、気分障害)は100万人を超えている(厚生労働省「患者調査」、2014)。加えて、うつ病を原因とする自殺の件数は、健康問題を原因・動機とする自殺者全体の4割を超え、2016年度には4,496件となっている(厚生労働省「自殺の統計」、2016)。

気分[感情]障害(躁うつ病を含む)患者数

グラフ:厚生労働省「患者調査」2015年12月発表より作成

川本は「うつ病予防は自殺予防対策としても重要である」との観点からとりわけ青年期後期のうつ病予防について研究している。中でも関心を持っているのが、「健康と病いの境界はどこか」ということだ。「落ち込んだり、不安で夜眠れなくなるなど、うつ病の症状の多くは誰もが経験したことのあるものです。一体『病い』と呼ばれるものと、そうでないものの間にどんな違いがあるのか」。そんな疑問が川本の研究の出発点だ。

うつ病と、病いとまではいかない抑うつの境界はどこか。この問いは「抑うつの連続性議論」といわれ、これまで多くの研究が重ねられてきたが、いまだ明確な答えは得られていない。抑うつ状態と健康な状態に明確な境界線はないとする「連続説派」の間では、健康な人の中にもうつ病に類似した特徴を持つ人がいることが指摘されている。「抑うつ症状を抱えながら、うつ病として専門機関にかかるまでには至っていない人は『うつ病アナログ群』と呼ばれます」。そう説明した川本はこの「アナログ群」の人はどのような点がうつ病患者と類似しているのか、または類似していないのかを明らかにするべく大学生の男女を対象に調査を行った。

まず川本はうつ病の諸症状を問う21項目からなる自記式の質問紙尺度BDI-Ⅱを用いて回答者の抑うつ重症度を判断した。「その結果、アナログ群の範疇にある人の中でもグラデーション(連続性)があり、健常とアナログ群、さらにうつ病との間に明確な境界は見出せないことがわかりました」と言う。同じアナログ群の中にも抑うつ症状の度合いが健常の域を出ない者もいれば、うつ病患者に近い状態にまで陥っている人もいる。その間にある違いを精査するため、川本はさらに各抑うつ症状の現れ方にどのような差異が見られるかをBDI-Ⅱの項目ごとに検討している。「症状によって明確な差が見られた項目の一つが『自殺念慮』です」と川本。重症度の高い者ほどこの項目が高く、異常なレベルの抑うつ症状を抱えていることが示唆されたという。さらに「興味喪失」「活力喪失」「集中困難」「睡眠習慣の変化」「食欲の変化」などの項目にも有意差を見出した。「これらは日常生活、とりわけ勉学や仕事を行う際に支障をきたす症状です。社会的、職業的な機能に障害が生じるというのはうつ病の判断基準の一つであることからも、アナログ群と言えども軽く見るべきではないと言えます」と分析した川本は「こうした研究がうつ病の早期発見や予防につながればいい」と語る。

しかしうつ病を早期に発見したとしても、それが精神科や神経内科の受診につながらないケースが多いことも川本は問題視する。「日本ではうつ病経験者のうち医療機関を受診した人は約3割しかいないという報告もあり、受診率の低さが指摘されています」。川本は大学生を対象に受診行動に影響を及ぼす要因を探索し、「時間経過による自然回復」を期待する、「周囲への相談と受診の面倒さ」、「疾病との関連付けの難しさ」、「精神科に対する抵抗感」という4つの要因を明らかにしている

こうした現状に国も対策に乗り出している。しかしコミュニティーベースでうつ病に関する知識の普及啓発活動や、早期発見・早期受診を目的としたうつ病スクリーニングが行われているものの、目立った効果は上がっていない。川本は「こうした『マス』を対象としたメンタルヘルスリテラシーでは本当に情報を必要としている人に届かないのではないか」と指摘する。今、川本は「個」に目を向け、一人ひとりが専門家との対話を通じてそれぞれにとって必要な情報を得られる機会を作ることに関心を持っている。対話によってメンタルヘルスリテラシーや精神科に対する偏見を変化させられるかを検討することが今後の研究課題だ。

「いつか心がしんどくなった時の助けになるような選択肢や可能性を提供したい」。川本が臨床心理士として現場に関わるだけでなく、研究を続ける意義もそこにある。

川本 静香
川本 静香
研究テーマ:うつ病・自殺予防のためのコミュニティ支援、メンタルヘルスリテラシー向上を目指した心理教育のあり方、専門職-非専門職間のヘルスコミュニケーション
専門分野:社会心理学、臨床心理学
2018年8月20日更新