STORY #1

デジタルアーカイブ
日本の芸術・文化を残し、活かす

『奥細道菅菰抄』 板木(ARC所蔵、arcMD01-0714、部分、鏡像)掲載箇所は十一丁

板木の足跡を辿れば、
江戸時代の出版業のあり様が見えてくる。

金子 貴昭

衣笠総合研究機構 准教授

印刷技術の発明が情報伝達の量や広がりを劇的に変えたことはいうまでもない。日本最古の印刷物として知られるのは、8世紀の「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」。制作時期がはっきりするものとして、世界最古の印刷物である。

江戸時代まで日本で主流だったのは、木の板(板木(はんぎ))に文字や絵を彫り、墨を塗った上から紙を当てて摺る整版印刷である。「繰り返し大量に印刷できる整版印刷のおかげで出版が商業として成り立つようになり、出版産業は一気に拡大しました。文学はもちろん思想・宗教・学問・エンターテイメントなど、江戸時代の文化的事象は、整版印刷による『板本(はんぽん)』なくして述べることはできないといっていいでしょう。日本が世界に誇る浮世絵も、大半は板木を用いて多色摺りされたものなのです。」そう語る金子貴昭は、板本そのものだけでなく、それを摺刷するための「板木」に注目する稀有な研究者である。

「物理的な『モノ』に着目する板本書誌学や出版研究は近世文芸研究にとって欠かせないものです。にも関わらず、その中で重要な一角を占める『板木』については決定的に情報が不足しています」と金子は言う。その理由の一つに板木資料の扱いにくさが挙げられる。原版である版木は板本に比べて圧倒的に少数の上、複写資料もほとんどなかったため、広く研究利用されるには至っていないという。金子はこの問題を「デジタルアーカイブ」によって解決しようとしている。

「江戸時代の出版産業の中心地であった江戸(東京)、上方(大阪、京都)の中で震災や戦災を免れ、多くの板木が現存するのは京都だけです。京都という立地なくしてアーカイブの充実は望めません」。そう語る金子はARCのプロジェクトとして奈良大学が管理する約5,800枚の板木資料を撮影するとともにデジタルアーカイブをウェブサイトで公開した。

表面を墨で覆われた板木の撮影においては照明がカギを握る。金子らは三度にわたるデジタル化試行の末、デジタル一眼レフカメラを用いた俯瞰撮影方法を採用。被写体正面からのフラッシュを当てた撮影に加え、斜光ライティングを用いて4方向から板木表面の凹凸を立体的に捉え、板木1枚につき計20カットの画像を収めた。計9万カットに及んだ画像のアーカイブを構築し終えた後、現在は法藏館や芸艸堂(うんそうどう)といった京都で古くから木版印刷を扱ってきた書肆などが保有する板木のデジタル保存を進めている。

三代豊国画「二五五四好今様美人 茶の会好」(1863年、ARC所蔵、arcUP6633)

三代豊国画「二五五四好今様美人 茶の会好」(1863年、ARC所蔵、arcUP6633)

同 板木(ARC所蔵、arcMD01-0657、鏡像)

同 板木(ARC所蔵、arcMD01-0657、鏡像)

「板木には出版書肆や職人の思考の跡が刻まれており、そこから近世出版業のあり様がかなり克明にわかってきました」と板木研究の必要性を語った金子。例えば板本の内容に修正が必要になった場合、板木に「入木」を施すことは以前から知られていた。入木とは修正すべき文字の箇所を彫り去り、新しく彫った板片を入れ込む手法だ。板本書誌学でも入木は長く修訂のための技法とされてきたが、金子の研究によってそれが誤解であることが判明する。「板に木の節があって彫りにくい箇所ではあらかじめ節を取り除いて入木したり、難解な文字や訓点はその箇所だけあとから入木するなど、必ずしも修正のためだけに入木が行われたのではないことがわかったのです」と金子。こうしたことは板本だけを見てもわからない。板木を詳細に調べ尽くしたことで、板本書誌学の定石を覆す事実が明らかになったのだ。

ARCは、松尾芭蕉『おくのほそ道』の注釈書のうち、刊行されたものとしては最古の『奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)』の板木を所蔵している。金子はその板木と板本、当時の出版記録を総合的に検討し、先行研究で明らかになっていなかった刊行経緯や、江戸時代の商業出版の内幕を明らかにした。

「例えば共同出版を行う場合、相手方の出版元が勝手に摺り増しできないように板木を分けて所有したり、板木一枚だけをいわば人質として版権者に渡し、その人に声をかけなければ本が完成できないようにしたり、板木の持ち分によって利益を配分したり、という記録が残っています。板木の足跡を辿れば、板本が作られるプロセスや、どのような板木を誰が所有していたか、板木が誰に売り渡され、版権がどう移動していったかなど、板本から得られる数倍の情報が見えてきます」

板木研究の魅力に比して研究者は極めて少ない。金子は「ARCのデジタルアーカイブによって板木研究が広がれば」と期待を寄せた。

『奥細道菅菰抄』(1778年、ARC所蔵、arcBK02-0256)掲載箇所は下巻表紙と下巻十一丁裏〜十二表の見開き

『奥細道菅菰抄』(1778年、ARC所蔵、arcBK02-0256)掲載箇所は下巻表紙と下巻十一丁裏〜十二表の見開き

同 板木(ARC所蔵、arcMD01-0714、部分、鏡像)掲載箇所は十一丁

同 板木(ARC所蔵、arcMD01-0714、部分、鏡像)掲載箇所は十一丁

2018年1月9日更新