STORY #7

「京都」が記憶してきた物語

  • 観光案内『鞍馬寺』吉田初三郎・画(須藤圭所蔵)

須藤 圭

文学部 助教

人々の「思い」が虚構である物語の舞台を
「現実の場所」と結びつける。

古都・京都。しばしばそんな枕詞とともに語られる「京都」。その言葉には「千年の昔、平安京の都のあった、雅やかな王朝文化の薫りを今に留めるまち」といったイメージが重なる。「しかしこれはあくまで『そうであってほしい』という人々の願いや思いが形づくった『京都』です」と語るのは須藤圭。日本の古典文学を研究する須藤は、中でも、源氏物語に焦点を当て「『京都』という場所が、物語をどのように記憶してきたか」を探っている。

源氏物語は平安時代に紫式部が書いたとされる。紫式部の自筆本は現存しないが、後の時代に作られた写本や版本は今に伝わっており、それ以外にも、ダイジェスト版にあたる梗概書や注釈書が著され、また俳句や短歌に詠まれたり絵画や工芸品の題材になったりとさまざまな形式で語り継がれ、受け継がれてきた。「各時代の読者たちは源氏物語をどう読んだのか。過去の読者の『理解の仕方』から源氏物語に対する『向き合い方』が見えてきます」と須藤は語る。

「源氏物語団扇画帖」(江戸時代前期)より第五帖・若紫巻の場面。右上に描かれているのが「涙の滝」。(国文学研究資料館所蔵)

「源氏物語団扇画帖」(江戸時代前期)より第五帖・若紫巻の場面。右上に描かれているのが「涙の滝」。(国文学研究資料館所蔵)

例えば源氏物語の第五帖・若紫巻の中で光源氏が詠んだ「ふきまよふ」歌に注目した須藤の研究がある。若紫巻で光源氏は病の治療のため「北山のなにがし寺」の聖を訪ね、そこで「滝の音」を聞いて「ふきまよふ 深山おろしに夢さめて 涙もよほす 滝の音かな」(お経を読む声をのせて吹き乱れる山おろしの風に、煩悩の夢からさめて、なおさら感涙をさそう滝の音ですね)と和歌を詠む。

この「北山のなにがし寺」がどこであるか、源氏物語には一切記されていない。ところが、須藤は、江戸時代に刊行された『絵入源氏』や『湖月抄』の影響によって、ここが「鞍馬寺」であるという解釈が広く浸透していったに違いない、という。

「しかも鞍馬寺の近くには、実際に『涙の滝』と名付けられた滝が存在するのです」と須藤。事実、大正から昭和初期にかけて人気を博した鳥瞰図絵師・吉田初三郎が描いた京都の鳥瞰図には、鞍馬寺の名所の一つとして「涙の滝」が描かれている。「これは後の世の人が、自分が生きている場所に『光源氏がいたらいいな』と願った結果、生み出されたもの」と須藤は推察する。「現実に生きていてほしい」という思いが虚構であるはずの物語の舞台を実際の場所と結びつけ、「ゆかりの場所」として設定していく。京都にはそうした営みの跡があちこちにあるという。

1924(大正13)年に刊行された観光案内『鞍馬寺』吉田初三郎・画。本堂の手前、階段を下った先に「涙の滝」が書き込まれている。若紫巻の場面の「北山のなにがし寺」が鞍馬寺であり、光源氏が涙したエピソードが実在の場所と結びついていたことがうかがえる。(須藤圭所蔵)

1924(大正13)年に刊行された観光案内『鞍馬寺』吉田初三郎・画。本堂の手前、階段を下った先に「涙の滝」が書き込まれている。若紫巻の場面の「北山のなにがし寺」が鞍馬寺であり、光源氏が涙したエピソードが実在の場所と結びついていたことがうかがえる。(須藤圭所蔵)

1926(大正15)年刊行の『鞍馬寺案内』。こちらでは「義経ノ涙ノ滝」と記されている。(須藤圭所蔵)

1926(大正15)年刊行の『鞍馬寺案内』。こちらでは「義経ノ涙ノ滝」と記されている。(須藤圭所蔵)

須藤の指摘はこれだけに終わらない。源氏物語の若紫巻で光源氏が詠んだはずの「ふきまよふ」歌が、時を経て、源義経の詠歌と誤解されて伝わった歴史があるというのだ。江戸時代の国学者・浅香久敬は二度京都を訪れ、滞在記を編んでいる。それを調査した須藤によると、1702(元禄15)年の二度目の旅で鞍馬を訪れた久敬が案内者に鞍馬にゆかりの「源氏の君」の詠歌について尋ねた折、案内者がそれを「源義経の詠歌」だと勘違いしていることを知って驚くというくだりがある。鞍馬は源義経が幼少期に修行したと伝わり、もともと義経と関わりがあったことから、いつの間にか光源氏の「ふきまよふ」歌は、同じく「源氏」の義経が詠んだというエピソードにすり替わってしまったという。昭和初期に描かれた吉田初三郎とは別の鳥瞰図には「涙の滝」が「義経ノ涙ノ滝」と表記されているものもある。「こうした誤りも含めた言説にこそ、その時代の『現実』が浮かんできます」と須藤はいう。

今でこそ源氏物語ゆかりの地として知られる京都府宇治市域も、昭和初期頃までは、平家物語をはじめとした軍記物語にも描かれる合戦場所として語られることが多かったと例を挙げた須藤。第二次世界大戦までの一時期はとりわけ軍記物語に対する人々の強い思いが背景にあったと須藤は分析する。戦後になって再び「京都をどう評価するか」を考えた時、改めて登場したのが王朝文化の雰囲気が漂う「源氏物語の舞台としての京都」だったのだ。

「京都」を表する要素は数多くある。「その中から『源氏物語』を選び取ってきた各時代の人々の『思い』をすくい上げるところに研究の醍醐味があります」と須藤。「全国の中でも、京都には、過去の物語を自分の生きる場所に重ねていく営みが際立って多い。それだけ人々の思いに応えるだけの力=歴史があるということでしょう」。人々が「京都」にどのような物語を重ねていこうとしているか。それを見定めることでその時代を生きる人々の姿や彼らが向き合う社会が見えてくると須藤は考えている。「それが現代社会を考えるファクターの一つになればいい」と語る。

数ある物語の中で源氏物語が千年という時間を超えて現代にまで読み継がれてきたのには、各時代を生きた人々に「伝えたい」という思いがあったからだと分析する須藤。100年後、果たして京都はどのような物語とともに語られるのだろうか。

1924(大正13)年刊『鞍馬寺』吉田初三郎・画の全図。(須藤圭所蔵)

1924(大正13)年刊『鞍馬寺』吉田初三郎・画の全図。(須藤圭所蔵)

須藤 圭
須藤 圭
文学部 助教
研究テーマ:日本古代中世物語の生成と伝来の相関的研究
専門分野:日本古典文学・地域文化学