先端総合学術研究科 教授

松原 洋子

1987年、東京大学大学院理学系研究科を修了後、1998年、お茶の水女子大学大学院で博士課程を修了。同年、同大学大学院人間文化研究科助手に就任する。その後、三菱化学生命科学研究所の特別研究員を経て、2002年、立命館大学産業社会学部教授に就任。2003年より現職。さらに2012年から先端総合学術研究科研究科長、2015年から立命館大学人間科学研究所所長を歴任。

生命科学と社会をつなぐ学問と出会い、研究者の道へ

#09

研究との出会いは高校の「生物」の授業

私が高校生だった1970年代の中頃は、生命科学の技術と、倫理や社会、人類との関係が世界的に議論され始めた、まさに「生命倫理の出発点」ともいうべき時期でした。また高校の生物の教科書に分子生物学の知見が入ってきたのも、この頃です。論理が明快な分子生物学を知って、それまで「生物=暗記科目」としか思っていなかった私は新鮮な衝撃を受けました。また当時の高校の生物の先生が、授業中に生命科学と社会に関する本を紹介してくれたことが、今の研究にもつながっています。
大学では生物学を専攻しましたが、生物や実験よりも、もっぱら興味があったのは、思想史や制度史的な方法論の方でした。「科学と社会の関係を歴史的に追う」という内容の本を読んで「科学史」という学問分野があることを知ったのは、そんな時です。「私がやりたいのは、まさにこれだ」とのめり込みました。生物学では実験や観察に基づく研究で卒業論文を書くのが普通ですが、「科学史」をテーマに研究したかった私は、それを認めてくださる指導教官を探しあて、まずは博物学史に関する卒業研究をまとめました。
その後、大学院で科学史の他、優生学や、優生学と密接に関連するジェンダー論を研究。現在も生命科学と社会をつなぐ融合的な領域の研究を続けています。

科学史の研究会でやりたいことを実感

高校で生物の授業を受けた時から「将来は生命科学と社会の間をつなぐような仕事をしたい」と考えてはいましたが、「研究者になろう」と思い定めたのは、大学3回生の頃です。当時、学生結婚をしたのですが、そのお祝いのなかに、科学史の本が何冊かありました。そして科学史が、私が関心を持っていた「文系と理系、倫理や社会と科学の両方にまたがる領域」を研究できる分野であることを知りました。それで本の著者に手紙を書き、科学史の研究会を紹介してもらいました。今思えば、これが大きな転機でした。研究者や研究者志望の大学院生が集まる中で学部生は私一人でしたが、研究者の方々の報告を聞いたり、修士や博士の院生たちと交流し、「自分のやりたいことがここにある」と実感。それが研究者の道に足を踏み入れるきっかけになりました。
以来、科学史、生命倫理学、科学技術社会論を専門として研究してきました。とりわけ関心があるのは、近現代の生物学や生命科学、医学の技術が発達するのに伴って起こる、生殖や病気、障がいをめぐる問題です。中でも、2005年に最終報告書をまとめた「ハンセン病問題に関する検証会議」に参加したことは、研究者として大きな糧になっています。弁護士や当事者団体、ソーシャルワーカーの全国組織が関わる実態調査の事務局長として、さまざまな立場の方々と協働しながら被害実態調査のマネジメントに携わりました。調査では、療養所で暮らした経験を持つ元患者の方々へのインタビューも実施。淡々とした語り口から伝わってくる「人生の荒波の中で揉まれて洗われて、今ここにいる」ことの凄みや人の存在の奥行きを肌身で感じられたことも、非常に貴重な経験となりました。

自分だけのキャリアを築いてほしい

研究者を志す皆さんに助言するとしたら、まず時流に迎合しないこと。どんな状況でも自分が研究したいことを大切にしてください。研究者に年齢は関係ありません。一生に一つでもインパクトがある研究成果を出せたら、すばらしいと思います。もう一つは、人と比べないこと。特に女性の場合は、若手研究者としての基礎をつくる時期と、結婚・出産・子育てといったライフイベントが重なることが多いので、焦りに駆られることもあると思います。そんな時は「60歳の時にどうなっていたいのか」を想像してください。それぞれが抱える事情や歩むキャリアは異なります。だから、自分で自分をプロデュースし、自分だけのキャリアを築いていくことが重要です。また失敗や偶然がもたらすチャンスもあります。ぜひそれも生かしてください。