衣笠総合研究機構 教授 (インタービュー当時)

鈴木 桂子

南山大学を卒業後、4年間、大学職員として勤めた後、アメリカへ。ニューヨーク大学大学院人文科学研究科で人類学の修士号を取得と同時に博物館学プログラムを修了。2006年、ウィスコンシン大学マディソン校で人類学の博士課程を修了。帰国後、非常勤講師を経て、2008年、立命館大学衣笠総合研究機構の研究支援者に。2012年、立命館大学アート・リサーチセンターの副センター長に就任。2012年より現職。

文化人類学から学ぶ「正しい」進路、「常識」の考え方

#11

文化人類学を学び、海外を体験した学生時代

幼い頃から外国に興味があった私の夢は、世界中を旅行すること。小学生の時、叔父の家の本棚で文化人類学者・中根千枝先生の著作を見つけ、「世界各地でフィールドワークをする学問があるんだ」と知ったことが、文化人類学に関心を持った最初でした。しかし当時の私にとって研究者になることはもちろん、女性が社会で働き続けることすら当たり前ではありませんでした。人類学科のある地元の大学を志望した時、「女子なのに短大に行かないのか」と進路指導の先生に驚かれたほどです。
「外国に行って、いろんなことを知りたい」という思いが叶ったのは、3回生の夏休み。インドネシア文化を研究する先生がインドネシアでのフィールドワークをお膳立てしてくださったのです。初めて海を渡り、数人の学生とバリ島の山奥にあるテンガナンという村で2週間を過ごしました。水道はなく、食事もあまり衛生的とは思えなかったけれど、地域の祭りを見学したり、現地の暮らしに触れたりするのは楽しかったですね。中には馴染めない学生もいましたが、「私はどこでも生活できそう」と変な (?)自信を得て日本に帰ってきました。
4回生で1年間、アメリカのイリノイ州立大学に留学。日本で学芸員の資格取得課程を履修していた私は、週末にシカゴの博物館を訪れるのが楽しみの一つでした。当時まだ日本にはなかった、体験したり、触れたりできるユニークな展示を見て、「楽しみながら学べる博物館がある」と知り、博物館への興味が膨らみました。
文化人類学を学び、海外も体験しましたが、当時は大学院へ進学することまでは考えていませんでした。研究の道に目が開かれたのは、卒業後に4年間、地元の女子短大に職員として勤務した時です。ここで多くの女性の研究者の先生方と出会い、初めて「研究者」、「大学教員」という選択肢を自分のこととして身近に感じました。

博物館学を修めるべくアメリカへ

「どうせなら博物館学を学べる大学院へ進学しよう」。職を辞して改めて大学院へ進学することを決めた時、そう思ったのは留学での経験があったからです。当時の日本では博物館学を学べる大学院を見つけられず、再びアメリカへ。ニューヨーク大学の人類学部の修士課程で学びながら博物館学プログラムを履修しました。その間、ブルックリン美術館でインターンシップを経験。浮世絵のコレクションの企画展示のプロジェクトを任され、それが修士論文のテーマにもなりました。修士課程修了後は、ペンシルバニア大学考古学人類学博物館で給付金付きのインターンとして、アジア部門のコレクション管理に携わりました。さらにウィスコンシン大学マディソン校の博士課程に進学。アメリカのキュレーターの多くは、研究者としても活躍しています。研究とキュレーターの仕事の両方に深く関わった経験が、研究者としても生きています。

自分に合う場所を見つけてほしい

博士号を取得後、帰国。2008年に立命館大学に招かれて以来、京都で暮らしています。ニューヨークで浮世絵に触れて以来、浮世絵研究を続ける他、京都に来てからは、型紙や友禅染などの「きもの」文化にも研究を広げています。特に関心を持っているのは、伝統的な日本文化である浮世絵や「きもの」が海外にどのように伝わり、異文化理解にどのような影響を与えたか。グローバルな視点で研究するのも、海外で学んだ影響だと思います。
振り返ってみますと、社会の常識に疑問を持ちつつ、好きなことを追求してきた結果、やりがいのある研究や職場に出会えたのだと思います。人生の様々な局面で出会った人々に影響を受け、道が開けたことは幸運でした。皆さんが進路を考える際にも、「こうあらねばならない」と決めつけないでくださいとお願いしたいですね。人類学は常識を疑うことから始まる学問です。ある社会で正しいとされていることが、別の社会では不正とみなされることも少なくありません。だからこそ、他ではない自分自身に合う道や場所を見つけてほしい。それが研究者であれば、すばらしいと思います。