2011年12月12日更新

農山村の懐の深さを示した「地域分散型震災支援」

平岡 和久
立命館大学政策科学部教授
平岡 和久(立命館大学政策科学部教授)
1960年広島県生まれ。1993年大阪市立大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得後退学。同年に高知短期大学助教授、2002年に高知大学人文学部助教授・教授を経て、2006年から立命館大学で現職。地域経済、地方財政を専門としており、近年のテーマは地方税財政改革、自治体財政健全化法と自治体財政の実態分析など。「自然と共生する農山村を大切にしなければならない。自治体とコミュニティの関係を壊してしまうような行財政改革や効率化の強行には疑問を感じます」
防災

東日本大震災から5日後の3月16日午後8時20分、長野県飯田市からマイクロバス3台、大型バス2台、トラック1台が出発した。福島県南相馬市の緊急避難者を受け入れる派遣隊である。

こうした「地域分散型」の避難はマスコミでほとんど報道されなかったが、その詳細な調査に取り組んできたのが平岡和久だ。

話を戻すと、16日の早朝7時に南相馬市町が飯田市に避難者受け入れを打診。飯田市では午後2時25分にこの要請を公式受理して直ちに派遣隊を結成。前述した計6台のバスとトラックは震災直後の道路を走り抜け、翌17日には103人の避難者を収容して午後1時には現地を出発。彼らが飯田市内に帰還したのは同日午後10時であり、最初の打診から僅か39時間、2日もたっていない。

「飯田市は機構改革で危機管理・交通安全対策室を設置していました。震災直後に立ち上げられた災害対策本部が避難者の搬送をこの対策室に一任したことが迅速な対応につながった。同時並行で飯田市と3町10村で構成する南信州広域連合が地域全体での受け入れを決定。避難者の到着時には『出迎え式』も行なっています」(平岡和久)

被災者の避難といえば、テレビでたびたび報道されたように、大きな体育館に集められて段ボールで仕切った不自由な生活が思い浮かぶ。南信州広域連合でも研修センターなどが使われたが、飯田市とともに小規模な自治体が分担して受け入れたため、避難者のプライバシーやニーズに配慮して概ね家族単位で部屋割りなどを行い、各役場と地域コミュニティが一体となって全面的な保護から生活安定までキメ細かく支援してきたという。平岡らは以前から「地域共創サイト」として多くの自治体と共同で行政のあり方などを研究してきた。その一つが「南信州サイト」で、いち早く避難者を受け入れた南信州広域連合の動向を4月半ばに現地調査し、小冊子にまとめている。

「太平洋戦争時の疎開経験もありますが、農山村にはそうした懐の深さがある。各自治体間や、役場と住民が緊密に連携しているからです。その一方で、実は財政や職員数などはギリギリの状態。今後も継続して検証を行い、国と地方分権のあるべき姿を具体的に提言していくつもりです。」

AERA 2011年12月12日発売号掲載 (朝日新聞出版)

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