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2017年度 立命館西園寺塾 12月2日講義「人間の再定義」を実施

2017年12月2日(土)
 ・13:00~14:30 講義
          講師:東京大学 教授
                     中島 隆博
 ・14:45~17:00 ディスカッション


【指定文献】
 『思想としての言語』中島隆博【著】岩波書店
 『道徳を基礎づける』フランソワ・ジュリアン、中島隆博、志野好伸【共著】講談社

 

▼受講した塾生のレポート(S.K.さん)▼
 人間社会の根源・本質を問うテーマでありながら、思いを致す機会が少ない「人間の(再)定義」。宗教にも関わることもあってか、この話題で議論する機会は稀有だった。自分なりに、普遍的な道徳原理は「利他」であり、利己的に設計された「動物たる人間」を、利他を通じて「動物たらざる人間に高めようとするのが人間」との結論に至った。こういった考えを、今後も意見を交わすことで深めたい。

・宗教と世俗は、相互に影響して中庸に向かい、また分離する。同じことは異なる宗教間、異なる世俗間でも言え、ある文化(パラダイム)は他の影響を受け、ときに融合し、分離することと同義だと思う。
・モノリンガルは深さ(縦)、マルチリンガルは水平(横)に広がる。モノリンガルにおける規範は緻密、厳密であるのに対し、マルチリンガルにおける規範は総花的となる。
・単一(モノ)文化は、交流により複合(マルチ)化する。一方、複合文化も総花的で、根無し草(アイデンティティの欠如)につながる。不安に駆られた人は拠り所を求め、文化の分離が起こる。
・他文化との交流を遮断すると、生物種がやがて交配不可能な段階に分化するように、いずれ他と相容れない「超ガラパゴス」に至る。この段階で他文化と出会うと、意思疎通も困難となり骨肉の争いに発展しかねない。このような中、他を利する(相手の身になる)考えがあれば、争いは起こりづらい。ただし、一方だけが利己(排他)であれば、他方を駆逐しかねない。双方が利他であることが重要となる。
・現実問題、全ての文化が利他ではなく、むしろ、利己と利己とのバランスの上にある。だからこそ教育が必要となる。利他、寛容、自尊など、複数の文化(宗教)の事例(儀礼)と、その背景を客観的に知り、他人と意見を交わすことに意味がある。指導者のスキルや経験はその次だと思う。
・ただし、「人間と動物」の問題は、利己的に解決せざるを得ない。動物は人間の食糧であり、愛玩であり、信仰の対象である。感謝し、殺戮・廃棄・暴食をやめ、可愛がり、痛み・苦しみをなくすのが精一杯の所業だが、どこまでも行きつく先は「利己的な寛容」であり、業・罪・カルマをなくすことはできない。

 議論の前に背景の整理も重要に思う。人間を問い直すきっかけである「資本主義」の問題は何か。社会主義にも蔓延る「お金」という新宗教により、何が正しいかを見失う人間が増えてきたことではないか。その本質は、お金を得るために身も心もすり減らしているにも関わらず、実際はお金を得ることが幸せにつながらないこと、また、多くの人がそのことに気づいていないことのように思う。

・資本主義は本来、自由市場で利他によりお金を得るものだが、市場独占という利己が最もお金になる点で矛盾が内包している。労働者は食べるために、経営陣は株主を前に歩調を合わせざるを得ず(現代奴隷)、過剰労働や不当競争、偽装を行う企業が増え、多くの人が幸せを感じづらくなってきている。
・社会主義は本来、平等・公平を目指す思想だが、成果と報酬の分離は、利他の意欲を奪った。加えて、国民の政治的自由が奪われる中、利己の塊である資本主義に蹴散らされた側面もあるだろう。
・共通して、どの神よりもリアルで万能な「お金」が新たな宗教(パラダイム)を生んでいるように思う。そこには、功徳よりも利得が自己実現への近道だという幻想があるが、むしろ果てがない欲望の追求は自己実現を遠ざけてしまうという皮肉があるところに、問題の本質があるように思う。


 

▼受講した塾生のレポート(T.K.さん)▼
 事前に課題図書を読んでいる段階では全く⻭が⽴たなかったというのが正直なところでであったが、講義の中で、登場⼈物が置かれていた時代背景などから導かれるそれぞれの思い・意図などの「⽬的」と、その「⽬的」の変遷などを教えていただくことで、流れと主張を把握できたように思う。空海が「衆⽣の救済」を追い求め、紀貫之や本居宣⻑は「中国からの独⽴」の為に”やまとうた”の優越を語り、夏⽬漱⽯は各国の「趣味」⾃体の変遷によっての普遍性の変容を説いたということだと認識したが、それぞれがそれぞれの時代体験において、成し遂げた価値は素晴らしいものだと思う。

 個⼈的に、空海が到達したであろう「悟り」には興味が湧いた。「三密」などについては、近代に⻄洋で発達した認識論とかソシュール辺りの⾔語論の匂いがするし、「声字実相義」などは、そのまま“シニフィエ・シニフィアン”だと思う。また「配置の思考・異なる次元の重ね合わせ」という概念・感覚については、量⼦⼒学で⾔う“コペンハーゲン解釈”とか“多世界解釈”と通じるものがあるように思う。もちろん空海がそれを分かっていたとは思っていないが、現代⼈でも解釈したり頭に思い浮かべるだけでも困難な概念を⽣み出している思考⼒には驚かされた。

 ディスカッションでお話をいただいたように、私は⾃覚的に「価値相対主義」であって、世の中には否定することが不可能な多くの考え⽅・価値観があり、優劣をつけることは良いことではない、という主義の中で⽣きている。ご指摘の通り、依るべき確固たる価値観が無いために「根無し草」のようにアイデンティティをフラフラさせながら漂うことになっています。もちろん「根無し草」の強さはあるので、この選択に後悔はないが・・とは⾔え、⽇々何かを判断しないと⽣きていけないが、先⽣もおっしゃったように、ではどこに許容/⾮許容の線を引くかという議題はあるが、私の場合、それは「経済・お⾦」である。単純に⾔えば、⾃分が”⾷うに困らない状態”を維持できるレベルがその基準であり、もしそれを侵害されるのであれば、その「主義」は排除するということである。よって、私は⾃分が経済的に裕福であればあるほど、様々な主義を受け⼊れることが出来るようになり、様々な⼈々を助けることが出来るようになるわけで、そのような意味で「やっぱりお⾦は⼤切」という考えになった。その意味において資本主義による経済発展がもたらした現代については、少なくとも多様性を認める余裕がなかったであろう近代以前に⽐べると素晴らしい世界だと思っている。

 最後の議論のテーマで「⼈間と動物の共⽣の倫理とは?」という⾔葉があった。私がこのテーマ⾃体に感じたのは、おそらく200 年前であれば「キリスト教徒と⾮キリスト教徒の〜」、70 年前であれば「アーリア⼈とそれ以外の〜」、50 年前であれば「⽩⼈と有⾊⼈種の〜」というように、同じ⼈間種が並べられていたのではないかと思う。それが現代社会になって、とうとう⼈間と他の⽣物種を並べることが出来るようになったのは、もちろん経済発展だけではないと思うが、⼈間が勝ち得た「余裕・余剰」のお陰なのではないかと思う。
 おそらく20 年後にはAI やアンドロイドによる働き⼿の問題が⽣じると思うが、その10 年後にはそれが収束して「⼈間とアンドロイドの共⽣の倫理」を論じているかもしれない。価値相対主義者らしく、⼈⽂学系の研究では何故か叩かれがちである「資本主義」の擁護をしてみた。

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