2001年5月31日(木)
<< 夢見る学内政治? >>
天国から戻ってもう2ヵ月、5月も終りである。Herzog先生からメイルの返事 が届く。あちらでも幻のGrothendieckの定理の件は進んでいないようであり、 また、CD-ROMを非常に楽しみにしているとのこと。私は、と言えば昨日あたり からある学内政治がらみの事で急に熱くなり、あれこれ考えてしまってゆうべ はあまり眠れなかった。学内政治に熱くなるというのは全く「夢見る数学者」 的ではないのだが、「夢見る数学者」だからこそ熱くなることもあるわけだ。

午前中は半分眠っている頭で大学院の講義。昼食後A堀先生をつかまえて、 久しぶりに(学内政治がらみで)少し密談。彼は結婚を前にして少しスマートに なったんじゃないかしら。その後、相変わらず5分の2ぐらい眠っている頭で 工学部の一般教養の講義。すこし休んでから、今日が〆切であることをすっか り忘れていた書類書きを少しやり、夕方から会議。「講義と会議と学内政治と 書類書きに忙殺される私立大学教員」を絵に描いたような一日となった。

2001年5月30日(水)
<< 研究100%の生活 >>
昼前に国立研究所時代の友人から電話があった。北大工学部の先生をしていた のだが、この4月から東京に新設された情報系の国立研究所に移ったそうである。 大学教員時代と違って研究100%でやっていけるから嬉しいと言ってい た。そういえば、私も国立研究所時代は1日8時間ぐらい研究していた。その お蔭で大学に戻ることができたのだ。ドイツ留学中は一日14時間ぐらい数学 ができた。そのお蔭か、半年で論文が1つ半書けた。せいぜい一日平均3時間 ぐらいの今とは大違いである。でも、一日3時間数学ができるというのも、結 構な御身分なのであって、天に感謝しなければいけないのかも知れない。

それに、解析数論のHardy大先生は、数学者が仕事に集中できるのは一日せ いぜい4時間だとして、毎日午前中は数学に没頭し、午後はクリケットを観戦 したりして優雅で美しい時間を過ごしたという(講義とか学生の指導はどうし たのだろう?)だから、3時間というのはまあまあの研究生活だという考え方 も成り立つのかも知れない。(よくわからんけど)

本日Kaz先生の全面的御協力により、めでたく「Herzog先生最後の幸せそう な笑顔」のビデオ画像がCD-ROM化される。早速Herzog先生にメイルを出し、つ いでに「Grothendieckの定理、まだ見つからん。どうしよう?!」てな事など も伝える。

Herzog先生に追いたてられて、半ば訳のわからないままに無我夢中でやっ ていた研究だけど、最近ようやく全体図がはっきり見えてきた。だからと言っ て研究に進展が見られる兆しや感触があるわけでもない。只々、残された問題 や、その問題の位置付けがよりハッキリ見えるようになっただけである。まだ まだ模索の時期が続きそうだ。

数学は時間を掛ければ何とかなるってものでもないし、もし研究100% の生活をしていたとしても、こういう時ってどうしょうもないだろうと思う。 でも、研究100%の生活をしていたら、しばらく別の問題と並行して考えた りしているかもね。

2001年5月29日(火)
<< 2000年度修士論文・博士論文一覧 >>
本日P先生と代数幾何学のゼミ。加群層の話が終って次回は因子に入る。今ま では、自分の研究とこのゼミが内容的に余り関連を持っていなかったけれど、 因子とか因子類群とかの話は今悩んでいる問題に関係してくる。将来的にも、 このゼミが単なる趣味のお勉強で終らなければ良いのだが。

昨日日本数学会の会誌が届いて、2000年度の全国の数学教室の修士論 文と博士論文のタイトル一覧が掲載されていた。毎年掲載されている立命館の 修論などが今年は出てなかったけど、何故だろう。この一覧をざっと見たとこ ろ、可換代数の修論が2つ博士論文が1つしか出ていない。可換代数の教員は もっと沢山いるのだけど、学生が居ないか、あるいは、とても可換代数で論文 を書かせられるレベルでないので他のテーマをやらせたのかのどちらかなのだ ろう。

修論のタイトルなどを見ていると、小さいながらも一つの問題について色々 調べたり考えたりした結果が書かれていそうな、かなりまともそうな論文もあ るのだが、そうでもないものも多い。どこの大学院も大幅に定員を増やしたの で、その分野の基本書をなんとか読ませて粗筋を理解させるので精一杯という ケースが多いように思える。

私は大学院生の経験が無いからよく知らないのだが、私の学生の頃は、大 学院の合格発表の日に指導教員に呼び出され、目の前に論文を30センチぐら い積み上げられて、「入学までにこれを全部読んでおくように」と言われたと か、修論提出間際に自分の証明の間違いが見付かり留年が決定してしまったと か、提出日の朝まで根性で頑張って証明を修復し提出にこぎつけた、なんてい うスリルに満ちた話を良く聞いたものである。修論というのは、どんな小さな 事でも良いから何かオリジナルな結果が書かれていないと受理されなかったよ うである。また斎藤秀司さんのホームページには、「4000時間勉強すれば まともな修論が書けるでしょう」なんて書かれているが、それぐらいは当時誰 でも勉強していたようである。それやこれやを思うと、今の修士課程は、昔の 修士課程とは全く違うもののように思えてくる。

夕方, K川先生にちょっと整数論の様子を聞き、次にO坂先生もやはり「夢 見る数学者」である事を確かめ、最後にS先生に数式処理のちょっとした話を 聞く。同僚教員と色々雑談ができるというのは、良いことである。

2001年5月28日(月)
<< 理解不能な数学 >>
数学がわからない学生というのにはいつくかのレベルがあって、「徹頭徹尾わ からない。始めっから頭の中が真っ白」というのもあれば、本人は「わかった わかった」と言っていても、実は全然わかってない、というのもある。一般的 には前者よりも後者の方がはるかに危ういとされていて、表面的な理解で納得 しているよりも、時間が掛かってもひとつひとつの事を深く理解する方が良い という。それは確かにそうだ。

しかし「徹頭徹尾わからない」学生が数学で成功するのは、「徹頭徹尾わ からないから、徹底的に考えた」場合に限られるのであって、ちょっと考えて すぐ諦めているのでは、いつまで経っても粘り強く考える力はつかないし、 従って何の進歩も無い。

それに、私なんぞはすぐに「わかったわかった」と言う極めて危うい学生 だったので、「始めっから頭の中が真っ白」という気分がどうもよくわからな い。最初の一歩でつまづいてしまい、色々手を変え品を変えて説明したり誘導 したりしても全く立ち上がれない、そのうち自分が何をやっているのかもわか らなくなってしまう、というタイプの学生の場合、どうしたら良いものか悩ん でしまう。

しかし、そういうタイプの学生って結構多いような気がする。一般に"わか る理由"よりも"わからない理由"の方がきっと深いはずで、そういう意味で私 は数学ができない学生の方が興味があるのだが、最近は「理解できない」とい うのは、自分の中にある何かが無意識に抵抗して「理解したくない」という状 態なのだろうと考えている。だとすると、自分の中の何が理解を拒否している のかは、本人でないとわからないし、結局最後は本人が自分で苦労して理解す るしか無いのではないか。

あるいは、理解を拒否している「あるもの」を探求した結果、それは自分 にとって大切なものと判明し、「従って、私はこの数学の理解を拒否する」と いう結果になるかも知れない。でも、それは自分に合った数学は何なのかを知 る手掛かりが得られたことになるわけだから、それはそれでいいと思う。「全 ての数学の理解を拒否する」というところまで行くと、ちょっと悲しいが、そ れはそれでしょうがないし、数学以外の道を探せば良いことである。自 分自身と向き合った経験は、他の道に進んでも生きてくることであろう。いす れにせよ、一度は自分自身と悪戦苦闘しないと話にならない。

数学って結局のところ「阿呆な自分との闘い」なのだから、それを最初か ら回避して「わからせてもらえるもの」「わからせてくれない」なんていう思 考回路の中で閉じている限り、いつまで経っても「頭の中が真っ白」なままな のだ。数学のゼミは、まずこういう"甘え根性"を叩き直すところから 始めるわけだが、それで学生が根を上げてしまうともうお手上げで、 「縁無き衆生は度し難し。南無阿弥陀仏...」と唱えるしかないのである。 これって、どんな分野でも同じだと思うけど。

2001年5月26・27日(土・日)
<< 泣けて泣けて... >>
土曜はゲーテでドイツ語のレッスンとドイツパンの共同購入。日曜はドイツで 撮ってきた「Herzog先生最後の幸福そうな画像」を、S-VHSカセットにダビン グする。これをKaz先生に渡せばCDに焼き付けてもらえる手はずになっている。 論文の完成と画像編集の「宿題」とどちらが先になるのだろうかと思っていた が、どうやら「宿題」の方が先になりそうだ。

ダビングをしながら、久しぶりにドイツのビデオを見ていて、懐かしさの あまり(心の中で)泣けて泣けてしょうがなかった。もしかして、ドイツ時代は 私の人生の中で最も輝かしい季節として記憶されることになるかも知れない。

ところで、H先生の誕生日はルジャンドルの誕生日でもあり、オイラーの命 日でもあるそうだ。私の誕生日はWeil予想を解決した代数幾何学・数論幾何学 のDeligneの誕生日であり、組合せ論のLucas数で知られるLucasの命日であり、 東西ドイツ統一記念日でもある。やはり私はそういう星の下に生まれたのかし ら。なーんちゃって。

2001年5月25日(金)
<< 数学のスタイル >>
最近何故か足が疲れることが多く、講義で張りきり過ぎて黒板の前を何度も往 復しているせいかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。一日を振り 返ってみると、自分の部屋の中でウロウロしている時間がけっこう長いような のだ。何をしているかというと、机の前で本や論文やノートを眺め、それから 部屋にあるホワイトボードに数式を書いてしばらく眺め、うーんとうなって部 屋の中をぐるぐる回り、また机の前に戻って本や論文やノートを眺め、という 事を繰り返しているようだ。そういう事を小一時間やっては、講義や食事や何 だかんだと出かけ、また戻ってきて小一時間同じ事をやって、という事の繰り 返しで一日が終る。ゆっくり椅子に座っている時間が短いわけだから、 足が疲れるはずである。

そういえば学生の頃から、黒板を使って数学の問題を考えるのが好きだっ たような気がする。講義もゼミも無いのに毎日大学へ行って、空き教室を転々 としながら、黒板の前に立って問題を解いていたような覚えがある。これは結 構体力を消耗するスタイルである。今でも使い古しの紙の計算用紙が山のよう にたまっているけど、そういうのは余り使わずにすぐにホワイトボードを使っ てしまう。

ところが、K川先生は自宅では布団の上で数学をするそうである。夢見るH 先生も、数学は専ら自宅のベットの上でやるらしい。現在Y大の友人Y君も、学 生時代は専ら汚い(!)煎餅布団の上で数学をやり、その布団のまわりにはコーヒー カップだの本だのティッシュだの急須だの、その他何だのかんだのとわけのわ からないものが同心円状に分布していた。私は布団の上では滅多に数学はやら ない。せいぜい寝る前に少し本を眺めるぐらいである。布団の上で数学ができ る人というのは、学生時代に滅多に大学に行かなかった人に多いような気がす る。

自宅には黒板もホワイトボードも無いので、専ら本や論文を読んでぼんや り考えるだけである。一応勉強部屋はあるのだが物置状態でほとんど使わず、 専らダイニング・キッチンの隅っこで、ふかふかの座り心地の良い座椅子にひっ くり返ってやっている。座椅子ではなくて、ソファーがあればもっといいのだ が。

かくして私の理想の数学のスタイルは、大学の研究室でソファーにひっく り返ってぼんやり考えたり、ホワイトボードの前で計算したりの繰り返し形態 である。それに対して、布団派のK川先生やH先生は、「ソファーが無くても平 気です」なんて言っている。

歩きながら数学をやるというスタイルもある。数論幾何学の某有名数学者 は、歩きながら数学をやっていて名案が浮かぶと、やおら道端のゴミ箱の上でせっせ と計算始めたりするそうである。心を打つ立派なお姿である。私の場合は、目をつ り上げてぶつくさ独り言を言いながら歩くという「危ないオジサン」状態になっ たりする。でも、よほど問題が具体的に煮詰まった時以外は、ただそこはかと なくぼんやり問題をイメージしながら歩く「オメデタそうなオジサン」状態で、 しかもいつの間にか数学を離れて「腹減ったなあ。くたびれたなあ。」とかと いうロクデモない事ばかり考えていたりする。

2001年5月24日(木)
<< ずんと胸に響く... >>
午前中は大学院の講義。やっと極大イデアル、素イデアル、およびそれらの剰 余環による特徴付けを終え、次回から超越拡大体の話に入り、それが終ればい よいよHilbertの零点定理の証明という筋書きである。Hilbertの零点定理の証 明は、正規化定理を使えばエレガントにできるのだが、そこまで可換環論の話 を広げたくないし、代数系の院生は整数論の学生だけなので、拡大体論を使っ た証明の方が理解しやすいだろうということで、そちらを説明することにした わけである。ということで、一応「代数幾何学入門」というふれ書きになって いるけど、内容的には学部レベルの可換環論入門プラス体論の補足なのだ。

昼食と前後して明日のCプログラミングの講義プリントを作り、午後は工学 部の線形代数の講義。その後、いよいよ私の部屋に作り付けのホワイトボード を発注することになって、あちこちウロウロする。今日は何だか歩き回ってく たびれ果てる。

くたびれ果てて部屋でぼんやりしていると、2年前の卒研生で現在奈良先 端でインターネットの研究をしているY君がひょっこり遊びに来た。Y君は99 年度の卒研生だが、彼は97年度のT君(現在高校教師)、98年度のYさん(現 在高校教師)、00年度のM君(現在某シンクタンク研究員)、今年度のI君と脈々 と続いている「情報学科の学生のくせに何故か純粋数学の卒研をやりたがる変 わり種学生たち」のひとりだったのだ。ひとしきり近況などを話し合ったけど、 彼はずいぶん成長したなあ。

昨日の教室会議でのYt先生の一言:「我々は教えて入試やって、それだけ の存在なのか。我々は一応研究者でしょうが。」当り前の事だけど、ずんと胸 に響きましたねえ。当り前の事ではあるが、こういう事が誰の口からも出でこ ないような学科になったら、それはもう大学ではなく専門学校である。

2001年5月23日(水)
<< 溜め息、そしてまた溜め息 >>
先週見付けた「Herzog先生の原稿の証明のギャップ」が解決した。何のことは ない、ある条件を一つ見落としていて、それを使えば色々な問題点が次々に解 決することがわかった。ということで、やはり「幻のGrothendieckの定理」だ けがネックということになった。ふと思い立ち、図書館で関係しそうな本を借 りて眺めてみたけれど、やはりこれといった事は書かれていない。どうしたも のかと溜め息をつく。

午後は「離散数学」の講義。学生が黙々と板書写しばかりやって全然話を 聞かなかったので、今日は板書を少なくし、黒板には数式を中心に書いて大事 なポイントはできるだけ口頭で話すようにしてみた。すると、板書が楽になっ た分、話を聞かずにお喋りしている馬鹿者がちらほら発生したので、何回か雷 を落す。以前立ち読みした上野健爾「学力があぶない」(岩波新書)によると、 ノートを取ることは、ただ板書を書き写す事だと考えている馬鹿者は、京大数 学科でも大量発生しているらしい。結局、口頭の(大事な)話を自分でまとめる 能力が無いという事なのだろうが、その原因は立派な脳味噌を持ちながら、 それを使おうとしない怠慢であると思う。そんな奴の事なんぞ、わしゃ知らん。

その後、教室会議。とても重い議題で延々と「盛り上がる」。後に残った ものは、ただただ溜め息ばかりなり。

2001年5月22日(火)
<< 世捨て人? >>
以前、京大数理研の東大出身の先生がどこかで言っていたが、東大理学部の学 生と京大理学部の学生の大きな違いは、京大の学生は入学と同時に世捨て人に なることだそうである。つまり、ノーベル賞かフィールズ賞を取るか、さもな くば人生を棒に振るかのどちらかだ、と悲壮な決心をするという。多少誇張は あると思うけれど、かなり当たっていると思う。

私も学生時代は、数学科の学生たるもの、フィールズ賞とまでは言わない までも、数学者として生き残るか、さもなくば人生を棒に振るか、どちらに転 んでも受けて立つ決意がなければならない、と何となく思っていたし、数学者 として生き残れなければ、ホームレスとして生きるのが最も美しい人生だと思っ ていた。これは大学自体が、数学者養成機関として未来の数学者を振い分ける 装置として機能していたし、振い落された者の事なんぞ知らん、何処へでも行っ て勝手にくたばってろ!という雰囲気が漂っていたことも影響していると思う。

実際の人生はそう単純ではなくて、私の場合、「ホームレスになると風呂 に入れないし、自分は何としても風呂に入れる人生だけは確保したい」などと 日和見路線に走り、結局会社勤めをして自己嫌悪に陥ったり、何だかんだと色々 あって、果して人生を棒に振ったのか振ってないのか判然としない状態にある。 ただ、会社に入ったとき、早稲田の数学科から来た同期入社のK君やT君が、や はり私と同じく「人生棒に振った!」という思想を持っていて、三人で焼け糞 新入社員として滅茶苦茶やっていられたのは、楽しかったが。

立命館の数学の学生で、世捨て人の決意を固めている人はいるのだろうか。 居たらいたで面白いだろうけど、俺は知らんぞ。

本日ほとんどHartshorne "Algebraic Geometry"を読んですごず。途中P先 生とゼミの件で打ち合せをし、さらに「ドイツ・テレコムの正しいあしらい方」 のレクチャーを受ける。その後、A堀先生に「最近は大学の予算でソファーが 買えなくなった」と聞いて顎然とする。どうも立命館は、数理科学科の開設を 最後に数学者を徐々に兵糧断ちしようという路線に変わったような気がしてな らないのだが、ソファーの件もその一貫と思われる。これが被害妄想なら いいのだけど。

2001年5月21日(月)
<< 京大のドイツ・テレコム現象? >>
午前中は、野暮用にて京大へ。京大でも「ドイツ・テレコム現象」が起こって いて、本当なら土曜日で済んだはずの手続きを、また今日出かけて行ってやり 直さねばならなかったのである。こういうところで「民間人」の怨みを買うよ うな事をするから、誰も積極的には味方してくれなくなって、最近の独立法人 化だの民営化だのの動きに歯止めがかからなくなっているのじゃないかしら。

用事はすぐに終って、その後久しぶりに理学部数学教室や数理研あたりを ぶらついて、京大生協で昼食を摂ってから大学に戻る。今日は京大図書館でずっ と過ごそうと思ったのだけど、冷房も無くやけに蒸し暑かったので、やめにし た。

大学に戻ると、Kaz先生が例の「Herzog先生最後の幸せそうな顔の画像」の 件で、パソコンで編集したビデオ画像のサンプルを見せに来てくれた。Kaz先 生はいい人である。

何だかんだと、今日は半日以上潰れてしまったのだが、夕方以後は、 Hartshorne "Algebraic Geometry"のSheaves of Moduleの章をせっせと読む。 途中メディアセンターに、先日注文しておいたドイツ語の論文複写を取りに行 く。趣味と実益が一緒になっているという意味で、ドイツ語の数学論文という のは嬉しいものである。

ふと思うのだが、幾何が苦手な人というのはいるものである。そういう人 はたぶん三次元ユークリッド空間のイメージが湧かないのではないだろうか。 高次元の幾何なんて、天才を除いて大抵の人は三次元空間をもとにしたあやふ やな直観でやっていて、直観の弱点を数式と論理で補っているのだと思う。だ けど、三次元空間のイメージ自体が無いとちょっときつい。私の大学時代の友 人で、現在解析をやっている人がいるが、彼は学生時代に「俺は立方体の展開 図がわからんのだ」とか言い出したので、私はずいぶん馬鹿にしてやったもので ある。それでも分野を選べば十分数学者としてやっていけるわけで、彼も今解 析の方でずいぶん活躍している。

数学の学生に講義していて、例えば三次元空間の中の平面や球面などの方 程式が全くわからない人が異様に多いような気がする。それは私の友人のよう に、元々幾何学的直観力が弱いからといよりも、最近の高校では空間図形はほ とんど教えず、しかし大学に入るとそれが当然のように扱われることが原因の ような気がする。立命館の学生の幾何学嫌いの原因は、たまたま幾何学の先生 が「おっかない」事ばかりでもないのかも知れない。

しかし、子供の頃にテレビを見たりパソコン・ゲームばかりやっていて、 自分の手で工作をしたりしながら空間図形のイメージを獲得する経験を積んで いないのかも知れない。そうだとすれば、ちょっと厄介である。

2001年5月19・20日(土・日)
<< Ohne diese Brote kann ich nicht leben! >>
土曜のゲーテのレッスンで、偶然、日本では手に入らないと思っていた Pumpernickelなどの"カチカチのVollkornbrot"が、河原町三条の明治屋で売っ ている事を知る。またそれ以外のドイツ・パンなら河原町四条の ユーハイムや四条高倉の大丸地下の食料品売場で売っているという。

日曜日は猛烈に暑い日であったが、午後は三条、四条をうろついて、ドイ ツ・パンの調査を行う。明治屋でPumpernickelが1個約10マルク!高い。ド イツで買えば、1マルク70ペニヒぐらい。まあ、輸入品だから高くつくのは しょうがないと思い、とりあえず1個買った。

その他。土曜日は京大ルネの書店で、「ドイツ語重要単語3000」を買 い、ちょっと時間が空いた時に眺めることにする。先日50日ぶりにドイツか ら届いたMOMOは、寝る前に5〜10行ぐらいづつ辞書を引きながら読むことに した。まだまだ、"ドイツかぶれ"は治っていない。

2001年5月18日(金)
<< 卒研 >>
今年の卒研生は二人とも大学院進学予定で、これはめでたいことだ。何がめで たいかと言うと、彼らは今年就職活動をしないからである。つまり、教育実習 とかで、あらかじめ決まった日は休みになるけれど、今日は卒研ゼミだと思っ て大学に来たら、レポータがどこかの会社に行っていて出て来なかった、とい うことが無いわけだ。

5、6年前ぐらい前から、大学生の就職活動がひどい状態になった。情報 (工)学科の場合、それ以前は5月か6月頃に学生達があちこち走り回って、7 月頃にはだいたいカタがついていた。5、6月の間も、まったく卒研に顔を見せ ないという事はなく、「最近ちょっと休みがちだなあ」という感じであった。 また大学の方も、「4月5月は卒研に集中し、就職活動は6月以降にしましょ う。それで十分間に合います」なんて事を学生に呼びかけていた。事実上学部 最終学年の学生は、1年近くべったり就職活動に忙殺される昨今の事を思うと、 何とも暢気な時代であったと思う。

1回生の頃は、大学に入学したばかりで嬉しいからハメを外してしまう。 2回生になると少し横着になってきて、サボる事を覚える。3回生になると勉 強が難しくなり、ひえーとか言っているうち年が明け、就職活動に突入する。 1年近くバタバタしているうちに卒業の声が聞こえてきて、虚脱状態のままで 卒業してしまう。特に数学の場合、講義を聞いているだけで分るなんて事はな く、演習だとか卒研ゼミとかでみっちり絞られて初めて理解できる。数年前ま では、3回生までちゃらんぽらんだったのが、卒研ゼミで絞られて少しはまと もになって卒業する事ができたのである。就職活動の悪化による卒研の空洞化 によって、多くの学生をちゃらんぽらんのまま卒業させなければならなくなっ てしまったわけだ。

数学でも実験系でも、卒研というのは前半でゼミ形式で卒研に最低限必要 な事を勉強させるのが普通である。数学系ならそのままゼミを続け、実験系な ら後半で各自のテーマを振り分けてそれぞれに作業をやらせるわけである。し かし、卒研生が就職活動で休んでばかりという状態では、ゼミは事実上成り立 たない。最低限の知識の習得ができてないから、個別テーマもまともな ものは与えられない。

かくして、実験系学科のいくつかの研究室では、卒研生は大学院進学予定 者だけが面倒を見てもらえて、就職志望の卒研生は事実上放置されていると学 生から聞いたことがある。だからと言って、指導教員が怠慢だと一方的に責めるのは筋 違いである。テキストの内容を順番にきっちり理解していかないといけない数 学の卒研ゼミの場合だと、完全にお手上げであろう。

かくして大学は事実上3年制、短大は1年制となり、学力崩壊だの「1セ メスター12回制を国立大並に15回制に!4月4日から(テキスト無しで!) いきなり講義するぞ!」などという話以前の問題が起こっているわけだ。大学 をこのような状態にしているのはまさしく企業なのだが、その企業側が、就職 希望の学生に「卒研では何をやってますか」なんて野暮な事を聞くらしいから、 全くわけがわからない。自分がやっている事の意味が理解できる人間ならば、 こういう事は聞かないはずである。リストラだの生き残りだのと騒いでいるけれど、 自分達がやっている事の意味が理解できないような事で大丈夫なのだろうか。

2001年5月17日(木)
<< 昔話 >>
大学院の初等可換環論の講義には、ほとんど全ての分野の大学院生が出席して いる。従って解析をやっている学生もいるわけだ。解析を専門にしている学生 が何故可換環論の講義を取ってるんだろうと聞いてみると、そうしないと卒業 単位が揃わないそうだ。まあ、関数解析で関数環のイデアルとかいう話も出て 来るし、解析をやっていると何らかの形で関数解析が顔を出すだろうから、必 ずしも無駄というわけではないけど。卒研で整数論やって、大学院で確率論を やるといった、良く言えばスケールの大きい、悪く言えば節操の無い学生もい るぐらいだから、まあいいか。

ところで私の学生の頃、数学基礎論は数学の全てを理解した上で、量子力 学とか物理の事も知っていないと何もできない恐ろしい分野だ、というデマに よって志望者はゼロであった。もっとも数学基礎論の先生は居なかったのだけ ど。整数論はどうかというと、これも代数、解析、幾何全部わかってないとで きない恐ろしい分野だ、ということで志望者は少なかった。それに高木貞治の 令名高い東大数学科というのもあるから、整数論やるならわざわざ京大に来な かったぜ、という気分も漂ってはいた。

で、高校数学の秀才も、大学に入って群論などの抽象的な話でバタバタ倒 れ(流石に微積分のεδで倒れる学生は居ない)、それでも高校時代から高木貞 治「解析概論」なんか読んでましたというような学生は根性で位相空間論やル ベーグ積分なんか勉強して解析に進む。当時は偏微分方程式の溝畑茂先生とか、 山口昌哉先生とかが居たので、解析は結構人気があった。解析が好きでさらに 幾何学的な話にも興味がある学生は、楠幸男先生のゼミに進んでリーマン面を 勉強した。一変数の複素関数論は、偏微分方程式論や関数解析よりもとっつき やすいし、理論がとても美しいこともあって、この分野もまた相当人気があっ た。志望者が多すぎて教養部(当時)の藤家先生を引っ張り出してゼミを2つに 分けたほどである。何だかんだと言って、解析に進む学生は多かったのだ。 ただ、関数解析や確率論は、吉沢尚明先生や平井武先生や、現在「立命館の確 率論をベスト3以内に持ち上げている」(H先生談)渡辺信三先生とかが居たけ れど、講義が3回生の後期以降にしか無かったこともあって、そちらに進む学 生は少なかったように思う。「渡辺先生って、物凄く偉いらしいぜ」「へー」っ てな会話はしていたけれど。

数理物理については、当時は今のように大ブームではなく、散乱理論の池 部晃生先生のところに進む学生がちらほらという程度。あと溝畑先生や山口先 生のところで物理的な話もやっているらしい、という程度であった。「山口先 生や西田孝明先生のところは非線形の微分方程式ってのをやっていて、結構物 理っぽいらしいぞ」「へー。」ってな事を学生同士で言い合っていたが、私は あまり関心が無かった。

幾何については、理学部には微分幾何学の教授がおらず、中島和文先生が 助手をしていたけれど、名前は知ってても一度も顔を見た事が無かった。微分 位相幾何学の方では足立正久先生のゼミでArnoldの力学系の本を読んでいると かで、そりゃあ幾何学なんかい?それとも解析なんかい?何なんだい?ってな 風に思っていた。さらに「微分幾何学は過去の遺物だ」なんていう、トンデモ ナイ思い違いもしていたように思う。当時の京大で幾何と言えば、(学生達に してみれば)何と言っても代数幾何学か代数的位相幾何学のことであった。 「幾何学」と言ったとき、微分幾何学の事を意味するのだという事は、ずっと 後になって知ったのである。

代数幾何学の方は、伝説的な秋月スクールの流れにある代数的代数幾何学 (抽象代数幾何学)の他に、東大から移ってきたばかりの上野健爾先生がまだ講 師か助教授になりたてのパリパリの若手で、複素多様体論のグループも立ち上 りつつあった。数理研の方では、中野茂男先生や成木先生などが居て、複素多 様体論をやる環境としてはかなり良かったように思う。

抽象代数幾何学の方は、当時OD問題が深刻なため大学院の進学を厳しく制 限していて「よほどの事が無い限り大学院へは進めない」なんて話もあって、 少数の秀才か私のような能天気学生ぐらいしか志望しなかった。しかし 「Grothendieckがスキーム論を作ったのは、Nagata の Local ringsを読んで 全然理解できないので、しょうがないから自分でもっと簡単は理論を考えよう と思ったからだ」と学生達の間で噂されていた永田先生や、2年間のドイツ留 学から帰ったばかりで元気一杯の丸山正樹先生、それと数理研の広中先生や、 ハーバードに行ってしまったもののまだ余韻と伝説が生々しかった森重文先生 とかがいて、結構メジャーかつ近寄り難い雰囲気をかもし出していた。

代数的位相幾何学の方は、「J. P. Serreがホモトピー論から代数に転向し たのは、『Todaにはかなわない』と思ったからだ」と噂されていた戸田宏先生 が居て、日本数学会の賞を取って盛り上がっていた西田吾朗先生や、森重文先 生と同期で学生時代から「京大数学科三羽ガラス」とその名が 轟き渡っていた河野明先生も助手をしていた。なぜか学生には、頭が切れて、 酒がやたら強く、無闇に元気なのが多く、このグループは並々ならぬ存在感を 発散させていた。

数学の風景も当時とずいぶん変わってきたし、京大数学科も当時とかなり 雰囲気が変わったようである。それにしても、「代数に進むのは、よほどの自 信家か能天気」という感じで大半の学生が解析方面に進んだ私の学生時代を思 うと、「代数指向が強い」とされている立命館の数学科の現象は、ちょっと不 思議な気がしてくる。

2001年5月16日(水)
<< 幻のGrothendieckの定理 >>
本日午後の「離散数学」の講義が一つあるだけで、教室会議は無し。離散数学 の方はやっと射影平面の話を片付けて、次回から組合せ論の話に戻る予定。

講義以外では昨日に引続き論文原稿に関する諸問題の検討する。ドイツか ら帰る直前にHerzog先生が拡張した定理の証明で、重大な見落としと思われる ものを発見する。これは、私が懇切丁寧なノートで1ページぐらいで証明して、 Herzog先生が「んな証明なんて『明らか』だ!」として証明抜きで原稿に書い た結果を、定理の拡張に際してそのままの記述(つまり「明らか」の一言)で済 ましてしまった部分である。定理が拡張されたのだから、条件も変わっている わけで、そしたらもう一度証明をきちんと見直さねばなるまいと思ってチェッ クしていたら、大きなギャップが見付かったのである。

このギャップが埋まらないと、「幻のGrothendieckの定理」よりももっと 強い事が言えないといけないような気がするし、そういう事は実は言えている ような気もする。どうもすっきりしないのだが、こういうモヤモヤした状態は もう少し続くであろう。もう少し考えてから、Herzog先生にメイルを出そうと 思う。

ところで、学内からS先生の事をもっと書いてくれというリクエストがある ようだが、彼をイジケさせてはいけないと思って押えている。私がドイツに行 く前は、S先生はずいぶんイジケテいて、私が何を言っても「また俺を馬鹿に している」と腐り、「俺なんか、情報学科に残っていた方が幸せだった」なん て弱気な事まで言っていた。私が言うことを真剣に気にするあまり、「高山が 何を言おうと、俺は気にしないぞ!」と力んでみたり、「Web日記なんて書く ような暗い人間の世界には近寄りたくない」と言いながらも、自分の「悪口」 が書かれてないかと心配して、私のHPを頻繁にチェックしていたようである。 しかし半年ばかり私が立命館を離れたので、S先生は誰にもイジメられること なく羽を伸ばせ、さらに研究の方も進展があったこともあって、4月に私が大 学に復帰した時にはずいぶん元気そうで、今でも意気揚々としている。めでた いことである。

S先生は計算機の管理のみならず、立命館大学数理科学科の数理情報部門を 一手に引き受けている最重要人物の一人である。彼が元気に頑張っているから こそ、私は「夢見る数学者」然としていられるわけである。だから、S先生に はちょっと気を使わなければならない。

以前は「少なくともS先生のやっているような数式処理(計算機代数)は数学 ではない!」とか「集合論なんて数学じゃない!」とか言ってS先生をイジメ テいた。一般にイジメられっ子はイジメっ子になると言うが、京大名物サド・ マゾの世界でイジメられっ子として育った私は、今やイジメっ子の素質を持っ ている。しかし、ドイツに行っている間に、私はいくばくかの「人間的成長」をと げたのである。自分が今興味を持っている事が自分にとっての数学なのであっ て、それ以外の事は知らんと思考停止するのである。だから、S先生が「(数式 処理で)こんな事がわかったんだぞ!」と自慢しても、「あ、そうですか。そ れは凄いですねー」と思考停止しながらニコニコしているのだ。