2001年11月15日(木)
<< 不純な欲望 >>
本日午後は「数理モデル論」「プログラム理論入門」の2連チャン講義で肉体 疲労する。当初「つまんねー!」とボヤいていたヤング図形の講義(「プログ ラム理論入門」)も、フテ腐りながらチマチマちまちまと森羅万象神社仏閣懇 切丁寧針小棒大牛歩戦術開店休業満員御礼をモットーに粛粛と講義しているう ちに、何となく面白くなってきた。また、この話をネタに来年あたりに徳島大 学で集中講義でもぶって、讃岐うどんでも食べて来ようという不純な欲望も頭 をもたげてきている。(残念ながら、讃岐うどんの本場香川大学からは まだ集中講義のお座敷が掛からない。)

2001年11月14日(水)
<< 窓の無い部屋 >>
本日午前と午後にそれぞれ「位相空間論」「線形代数」の講義。引続き教室会 議。終日多忙なれど「忙中閑あり」で「駆 け出し数学者ドイツに行く」出版情報のページを作る。月曜日にHerzog先 生に送ったコメントの返事が、アメリカ・メイルとして届く。メイルにはえっ?! と驚くような事も少し書いてあるけど、少なくとも今日はそれについてゆっく り考える暇は無い。

私にとって最も難しい「線形代数」の講義で疲れた後の教室会議は、窓の 無い会議室で行われる。私は太陽と風の動きから隔絶されてしまう窓の無い部 屋は大嫌いである。2時間も閉じ込められていると発狂または絶叫したくなっ てくる。おまけに今日の議題は(1)明らかに重いもの、(2) 一見どうでもよ い話のようで実は重大であり、さりとてどこがどう重大なのか私にはわからな いもの、(3)重大なのか重大でないのかもわからないもの、(4)どう考えても どうでも良いような話、等々が入り混じり、それらが約3時間の長きにわたっ て波状攻撃のように襲ってきたため、ほとほと疲れ果てた。

窓の無い会議室で明らかに重い議題を論じると、自分達が置かれた出口の 見えない状況が会議室によって象徴されているような気分になる。数学教室の 皆さん、これから会議をする時は琵琶湖のほとりのどこか見晴らしの良いとこ ろでやりませんか?

2001年11月13日(火)
<< 希望とスケベ心 >>
本日「バチ当たりの日」のはずだが、思うところあってGoetheでのレッスンの 後三条河原町で昼食をとり、さっさと大学に向かう。「思うところ」とは、昨 日出したHerzog先生と出版社へのメイルの返事が来てないかしら、来てたら大 学で色々やることがあるかも知れないし、ということだが結局ハズレ。昨日集 めた文献を静かに読み耽る。

夕方院生M君が難しい本を持って質問に訪れる。数学の世界で、若い人と若 くない人との決定的な違いは、前者がまだ自分に才能がどれぐらいあるか(無 いか)わからない状態であるのに対し、後者が既に完全にわかってしまってい ることである。自分に才能があるかどうかわからないというのは、一方では不 安ではあるものの、ひょっとしたら自分はもっともっと凄い才能を持っている かも知れない、それがまだ発揮されてないだけだと自分に希望が持てるところ が良い。だから、若い人を見るたびに「いいよなあ」と思う。

私なんぞは、もう自分の才能の分量が正確にわかってしまっていて、若い 時に抱いていたような希望は無いのだけど、だからと言って「夢も希望も無い」 というわけでもない。むしろ、若い時には思いもよらなかったタイプの希望と スケベ心に満ち満ち溢れていると言ってもよい(何とフケツなことか?!)。私 程度の才能の持ち主が、仮に若い時からずっと数学だけを続けて来たとすれば、 たぶん今頃はくたびれ果てて燃え尽きていたんじゃないかしらとふと思う。今 元気でいられるのは、20代30代に数学を離れて面白ろ可笑しく人生を浪費し ていたせいだろう。

2001年11月12日(月)
<< 神様の陰謀? >>
今朝はいきなりHerzog先生のアメリカ・メイル。数日前私は、共同研究で証明 した定理の一つが、某代数幾何学者の1、2年前の結果と良く似ていることを 発見しHerzog先生に知らせたのだが、「そりゃあ『良く似ている』なんてもん じゃなくて、『ほとんどそのまんま』みたいだな?!」との連絡。あわてて図 書館に行っていくつかの文献をコピーしたり、それらにざっと目を通してコメ ントをHerzog先生に送ったり、とバタバタした一日を送る。

可換環論と代数幾何学では同じ事を言ってても言葉が全く違うので厄介で ある。一方では可換環だの加群だのと言い、他方ではスキームだの層だのと言 う。一方では標準的次数付き多項式環の斉次イデアルと言い、他方では射影ス キームに対応するイデアル層と言う。一方ではネーター環上有限生成加群の局 所コホモロジーで語り、他方ではイデアル層係数の層のコホモロジーで語る。 P先生と一所懸命やっていた Hartshorne "Algebraic Geometry"のゼミというのは、結局のところ「語学」 の勉強だったとも考えられる。

こんな状態では、可換代数屋と代数幾何学屋がそれぞれ全く同じ問題を別 の言葉でそれぞれ同じようなアイディアで考えていて、それでいてお互い長い 間気づかないってこともあるわけだ。そして、まさにそれは実際我々にも起こっ たわけである。こういうのはすこぶる厄介である!「皆さん!仲間うちでしか分らない 言葉を使うのはやめましょう!」とわめき散らしたくもなってくる。

神様は、全世界の人間が力を合わせて神様を凌駕するようになっては困る と考え、人間に複数の言葉を使わせてお互いのコミュニケーションが取りにく くしたという。代数幾何学と可換代数学で言葉が違うのも、神様の陰謀ではな かろうか。それぞれの分野の言葉を開発したのは人間なのだけど、同じ事でも 観点が少し違うと別の言葉で語りたくなる人間の悲しい(?)習性は、きっと神 様が作ったのでしょう。

最近は可換代数屋と代数幾何学屋が全然別の事を考えていることが多いよ うだし、Herzog先生も「代数幾何学の事なんて知るもんか」って調子 だけど、やはり代数幾何学の動向ってのは無視できないよな。

まあ、「新しい結果」として主張できる部分がちょっと目減りしてしまっ たけど、私としては今やっている事が実は代数幾何学の方とも深く関係してい る事がわかったし、そう悪いことばかりでもない。

2001年11月10日(土)
<< 耳が腐りそうなぐらい... >>
昼前に大学へ。昼食などをはさんで少し仕事をしたのだけど、今日は学園祭を やっていて外が「少し」騒がしい。否!!実際は、例年になく「耳が腐りそう なぐらい」騒がしい!どうして今年はこんなに騒がしいのか知らないが、とに かくこれではいけないと午後には早々に大学を脱出する。今夜は Goethe-Institutで日独現代音楽演奏会なるものが開かれるので、そこで「口 直し」ならぬ「耳直し」をしよう。

立命館大学の数学・物理系の学科のOB会(数物会)の会誌に、会長のN教授に よる「日本の科学と大学-- 独創が生まれない知的風土 --」という論説が載っ ていて、"独創性を阻害する文化人類学的な要因"のひとつとして「自分のして いることに自信がない。流行している研究ばかりしている。」というのがあっ た。そうかあ!流行している研究ばかりするのは自信の無い証拠なのかあ!こ れは鋭い。私のやっている可換代数学は最近では「流行の研究分野」とは 言い難い雰囲気だけど、自信を持ってやっていくことにしよう。

それにしても、「流行している研究だけを追いかける」のが基本方針と公 言している学科もあるけど、そういうのって集団自信喪失状態にでも陥ってい るのだろうか。その割には結構自信満々の御様子だけど。

2001年11月9日(金)
<< 90分授業 >>
朝はGoethe. 昼食後、明治屋でそろそろ底をつき始めたプンパーニッケルを買い、 そのまま大学へ。午後は卒研ゼミ。

Goetheのレッスンは火・金の週2回各90分。いつも思うのだけど、講義 をする立場にしてみれば90分なんてあっという間に終ってしまうけど、講義 を受ける立場になると、例え好きな講義であっても90分はかなりこたえる。 45分に1回ぐらい休憩が欲しくなる。大学の教室の堅い椅子に座って90分 講義を一日にいくつも受講している学生達は平気なのだろうか。このことを考えた だけでも、もういちど学生時代に戻るなんてのはまっぴらだな。

2001年11月8日(木)
<< 卒研50ページ説 >>
来年度の卒研生予定者の2人目が現れる。就職希望。色々相談した結果、グレ ブナー基底とブーフバーガー・アルゴリズムを勉強しましょう、という話に落 ち着く。私としては、密かに代数幾何学入門の方へ誘導しようとしていたのだが、 成功せず。

「卒研50ページ説」というのがあって、卒研ゼミでは一人一年でせいぜ い50ページも進めば上出来だという経験則である。ゼミのテキストは一人一 冊主義で、学生の顔を見て各学生に対して「ちょっと背伸びする程度」のもの を選ぶのだが、この匙加減を間違えると半年で10ページ以下しか進まなかったり 半年で70ページ以上進んだりする。だけど、1年50ページぐらいのペースで 進めるテキストがちょうど良いのではかなろうか、というわけである。

この説に従うと、卒研ゼミで使うテキストは最初の50ページ以内に面白 い事が書かれていないといけない。その条件を満たした上で、学生も私も「こ れなら読んでもいいかな」と思えるテキストを決めるのは案外難しいものであ る。

本日午後はサクラ付き「数理モデル論」、サクラなし「プログラム理論入 門」の2連チャン講義でくたびれ果てる。「プログラム理論入門」の講義の後 ひとりの学生が質問の来たのだが、頓珍漢なようで微妙に本質的な事に関係す る面白いことを聞いてくる。数学の学生にしてはずいぶん素人っぽいし、基本 的に数学に憧れを持っている雰囲気だから情報の学生とは違うはずである。聞 いてみたらロボティックス学科の学生だった。

2001年11月7日(水)
<< 保型形式論 >>
最近、Herzog先生との共同研究でやっている事が、思いもよらなかった別の理 論と深く関連してそうだとういう文献を見付け、彼にメイルで知らせた。11 月末までアメリカ滞在予定のHerzog先生は、(エッセン滞在時の私と同じよう に)完全に天国モードになっているらしく、炭そ菌テロも何のその、ミズーリ 大学を寝城にアメリカ内のあちこちの大学を飛び回っているらしい。「それは 良いニュースだ。ミズーリに帰ったら早速その文献を読んでみよう」とのこと。

今日は「位相空間論」と「線形代数」の講義の日。「線形代数」の講義は 「位相空間論」の講義の倍以上疲れる。

今日から3日間の間、来年度の卒研ゼミに配属された2名の学生の面接日。 今日はそのうち1名がやってきた。今まで複素解析や幾何を中心に勉強してい て急に保型形式の数論がやりたくなったので私の所に来た、大学院にも進学し たいという。そりゃあ大いに結構だけど、私は保型形式はまったく知らないし 選ぶゼミを間違ったようだね。大学院は保型形式論の専門家I先生とこにお願 いすることにして、卒研では今までほとんど勉強してない体論とかガロア理論 を勉強しようか、という話にとりあえず落ち着く。

2001年11月5日(月)
<< ゲップ >>
午前遅くに大学へ。昼食時などを除いて夕方まで自分の部屋で過ごす。世の中 には、大学教員が全員研究者である必要は無い、とか、研究中心の大学と教育 中心の大学に分かれるべきだ、とかいう意見が根強くあるらしい。何だか知ら ないけど、ただ一つはっきり言えることは、私は単に教育だけやるために わざわざ計算機メーカをやめて大学に移ったわけではないということだ。

ところで、「駆け出し数学者ドイツに行く」の初版が刷り上がった。著者 贈呈本が送られてきたので、「ごく身内だけ」に献本する。間もなく書店にも 並ぶだろうが、どこの書店に置かれるかは出版社からの連絡待ち状態。立命生 協にも置いてもらおうかなあとか、友人の居る大学の生協にも置いてもらおう かなあ、とか色々画策中。とても綺麗な本に仕上ったけど、私は校正のためゲ ラ刷り原稿の段階で4〜5回読み込んでいるので、もう読む気が起こらない (ゲップ)。

明日は週1回私が「バチ当たり教授」になる日である。

2001年11月3日(土)
<< 近親憎悪 >>
「お...俺なんか、どんなに頑張ったってどうせ「バチ当たり教授」なんかに はなれないんだ!くそー!こうなったら大学の個研室にへばりついてやるぞ!」 とヤケ糞になったわけでもないけど、本日終日大学の研究室で過ごす。

最近読んだ「ミミズに魅せられて半世紀」(中村方子、新日本出版社)に、 分子生物学者たちの多くは生態学研究なんてのはマトモな学問じゃないと見下し、挨拶 をしても返事もしてくれなかったというような事が書かれていた。より難しそ うでハイブローな分野の専門家がそれ以外の分野の専門家を見下しまともに口 もきこうとしないというのは、実際にある話らしい。数学の世界でも「貴族の数学」 をやっている数学者は「庶民の数学」をやっている数学者に対して往々にその ような態度を取るらしいし、物理学者は往々にして数学者に対して同様の態度 を取るものらしい。私は物理学者の友人をつくって色々耳学問をしてみたいと 思っているのだけど、そういう話を聞くと何だかオッカナクて近寄りがたい。 ちなみに数学者と物理学者は、双方とも自分達の学問の方がより高尚だと思ってい るだけに、話がことさらややこしくなるのだという。

こういうのって、例えば素粒子論の研究者が納豆菌の研究者を馬鹿にして 目のカタキのように扱うとか、数学者が考古学者を見下して唾も吐きかけない とかいう事はまず無いだろうから、結局みんな「近親憎悪」なんだと思う。

私はその辺の心情がいまひとつよくわからない。ある分野を馬鹿にすると いうのは学者・研究者のハシクレとしてよくわかる。私にだって、完璧に馬鹿 にし切っている学問分野、何が嬉しいのか知らないけどしょーもない事ばかり やってるとしか思えない研究者だか何だかの集団というものがある。それは要 するに趣味の違いなんだから、別に不思議でもなんでもない。私は関知しない から勝手にやっててくださいって感じである。しかし、そのこととその分野の 人達と口もききたくない、挨拶もしたくない、というのは直接には繋がらない と思うのだけど。でも、そういう人達に徹底的に理不尽な目に合わされたとか いう話になると、話は別だな。それはもう学者同士がどうしたという話以前の 問題だけど。

2001年11月2日(金)
<< 会社員根性 >>
思うに私は、心の奥深くまで染み着いた会社員根性のために「バチ当たり教授」 になり切れない悲しき存在なのかも知れない。どうも大学教員と会社員(正確 には私が10年程前までやっていたヒラ社員)というのは勝手が違う。会社員 というのは「仕事イコール出勤」「純粋数学イコール金にならない遊び」の世 界であり、週3回半日ぐらい出勤するだけで、あとは自宅で数学の研究に励ん でいるというのは、「週3回半日働いただけで給料貰っているバチ当たり」と いうことになる。だから「バチ当たりというのは外道であって、人間は外道に なってはいけないのである」という古い教育で育った私としては、どうに も心理的に抵抗があるのだ。

大学教師の多くはいわゆる学歴エリートであって、一度も会社員生活をせ ずにそのまま教師になった人が多い。彼らは妙な会社員根性とは無縁なので、 ごく自然に「バチ当たり教授・助教授・講師・助手」をやっている。これは私 にしてみれば、なんとも羨ましい限りである。

しかし、一方で「『仕事』をすべき職場で、金にならない純粋数学をやっ て『遊んでいる』」のは給料泥棒ではないか?という問題などは既に私の心の 中で完全に克服済みだったりする。そんな調子だから、私が会社員根性から完 全に自由になれるのもそう遠いことではないかも知れない。

本日午前中はGoetheでレッスン。昼食後大学の直行して卒研ゼミ。正しい 「バチ当たり教授」になるための練習も兼ねて、卒研ゼミの後早々に帰宅して みる。

2001年11月1日(木)
<< 筋金入りのバチ当たり教授 >>
本日午後はサクラ付き「数理モデル論」とサクラなし「プログラム理論入門」 の講義。例によってくたびれ果てる。 夕方頃、「バチ当たり教授」について、S藤先生と少し話す。S藤先生は周 りが少しざわざわしている所の方が落ち着くらしく、「個室で静かに勉強しろ と言われるとちょっと困ってしまう」という。S藤先生は勉強は自宅でテレビ をつけてながら勉強をするらしく、大学の個研室では専らパソコンをいじったり しているだけだという。そういう状態だから、個室が与えられることはそんな に有難いとは思わないと言う。まさに、猫に小判、S藤先生に個人研究室であ る。

想像するに、大学教員の中には個研室を取り上げられても実際にはほとん ど困らない人が少なからずいると思われる。彼らは一応自分の部屋があるから、 まあ、たまに大学に来たときの荷物置場として使いましょうかとか、あるいは 不要な本などを保管する倉庫代りに使おうかしらという感じではないだろうか。

平和な時代ならばそれでもいいが、大学氷河期の昨今、こういう情報が大 学経営者たちの耳に入ると、「経費節減と教員間の連絡を密にし学校運営の効 率を向上させるため」と称して大学教員の個研室は原則廃止となり、中学校や 高校みたいな職員室形式にしようという動きが起こる。そうなったら私は抵抗 するであろうが、「今や20世紀の遺物でしかない"大学神話"と既得権にしが みつく頑迷で醜い大学教授」として一蹴されてしまう。「バチ当たり教授」達 は、べつに個研室なんて使わないからいいやと平静を装うのかしら。あるいは、 本当は個研室なんて使わないのだけど、大学教員は教育者であると同時に研究 者だから個研室が必要だと主張するかもしれない。しかし、企業の研究者でも 大部屋で仕事しているからという理由で却下される。企業の研究者と大学の研 究者は違うのだと主張すると、「今や大学は一企業なのです」と一蹴される。

さて、大部屋制度が導入されると教員の出勤状況がひと目でわかる。カラ ンとした大部屋よりも、人がひしめいている状態にして全員に目が届くように しておきたいというのが、管理者の自然な感覚である。一方、大部屋に自分の 机があると、いつの間にかそれが撤去されてしまわないかと不安になるから、 何となく毎日のように出勤したくなってくる教員も現れるかもしれない。 そこで、「学生には『毎日学校(「大学」とは言わない)に出て来い』と言っ ておいて、教師がたまにしか大学に出てこないのはおかしい」という理屈でもっ て「教員は毎日大学に出勤し、職員室で仕事をするように」というお上のお達 しが下される。

その期におよんで「それじゃあ、まるで中学校や高校と同じじゃないか」 と反論しても、「そうですよ。中学も高校も大学も、みーんな『学校』じゃな いですか。中学や高校の先生達は毎日学校に出勤して一所懸命働いてますよ。 同じ『学校』なのに何故大学だけが特別なんですか?そんなことはないでしょ う」という理屈で却下される。「大学の大衆化」とはまさにそういう事なのだ から。

こうなると、私なんかはかなりジタバタしちゃいますよ、きっと。

ところで、ここで「筋金入りのバチ当たり教授」という概念が考えられる。 彼または彼女は、個人研究室廃止令と職員室大部屋制度の発足にあたっても何 ら困ることはない。さらに、「毎日出勤せよ」の号令が出ても抵抗し続け、最 後には職員室に自分の机が無くなっても平気なのである。講義と会議の直前に 大学に現れ、仕事が終ったらさっさと帰るという非常勤講師のスタイルを堅持 する限り、給料を貰っている大学に自分の居場所があろうとなかろうと関係無 い。

考えてみれば、これこそが真の学者の姿ではあるまいか。大学から与えら れた個研室だの机だの「自分の居場所」にしがみつくなんて、独立自尊の精神 でもって真理を探求する者にあるまじき姿である、と言えないこともない。