2002年5月31日(金)
<< もう大丈夫? >>
本日午後は可換環論・代数幾何学ゼミ。自家養成サクラI君は今日でZariski位 相の部分を終了する。やや「蝸牛的」な進度が気になるところではあるが、ま ともに可換環論や位相空間論とかを始めてまだ1年も経ってないのだから、こ んなものなのかも知れない。I君の「心の問題」はほぼ解決したようである。 自分の修論はどんな感じになるのですか?なんて事を心配できるほど回復した のだからもう大丈夫なのだろう。 代数幾何学の本って大抵代数閉体とか無限体上の話として書いてあ るけれど、有限体上のZariski位相ってどうなるんだろう?ってな話で(目が点 になっている3回生F君をさしおいて)I君と二人で少し盛り上がる。

続いてF君の発表は極大イデアルの存在、べき零根基、べき等元とそれによ る環の直和分解など。前回と違って純代数的な話であるためF君は快調に話を すすめていた。

そういえば今日は、立命館大学のキーパーソンとして遠い遠い(超多忙な) 世界に旅立ってしまったはずのA堀先生と廊下でばったり会ってしまった。最 近は、A堀先生が閑そうな顔をして一族郎等を引き連れて生協食堂に夕食に出 かけていく姿をあまり見掛けない。

2002年5月30日(木)
<< コンサート >>
そういえば昨日は午後一番からCプログラミングの講義などという下品な事に かかわり、何かというとすぐに私語に走る昨今の学生諸君の傾向とは一線を画 し、私語はしないかわりに何かというとすぐに脈絡も状況も何もお構いなく唐 突に眠りこける新傾向赤丸急上昇中の今年の一回生相手にキレまくってどっと 疲れ、その次の離散数学の講義で少し「口直し」をしたものの、その後S藤先 生と「数理科学科の情報処理教育をどうするか?」などという、これまた下品 極まる議論を大真面目にやってしまい、はっと我に返ってここはどこ?私は誰? 何故こんな所でこんな事やってるの?と自己嫌悪に陥り、心身ともにへとへと になり、「そうだ!疲れた時には『K』が効く!」とばかりにK川先生のとこ ろで油を売って少し持ち直しつつも、夢見る宗教生活者として自宅に籠って修 行に打ち込む前の「夢見る数学者」時代のH先生よろしく「ふらふらになって」 帰宅したのであった。

ところがどうだ。人生とはわからないものである。今日はといえば、午前 中ちょっとパソコンの調子がおかしくてS藤先生に泣きつくなどという下品な 時間を過ごしてしまったけれど、その後線形代数(の講義)、群論(の蝸牛ゼ ミ)、可換環論(の蝸牛ゼミ)と続いた上に、夜はゲーテに直行して、矢鱈滅 多羅ピアノがうまいどう見てもイギリス人という雰囲気のドイツから来た音大 の学生さんと滅法クラリネットがうまいどう見てもドイツ人にしか見えないこ れまたドイツから来た音大の学生さんの、入場料1500円は超お買い 得のひじょうにハイレベルなコンサートを聴くという、美しいものばかりに囲 まれた一日だったのだ。思えば私はこういう一日を過ごすためにそれ以外のお ぞましい日々を耐えしのんでいるのだと言うのは明らかにウソだけど、なかな か麗しい一日だったと言えよう。

2002年5月29日(水)
<< 頭の中が真っ白? >>
午後一番から"けだるい"「情報処理」と"思わず力の入っている"「離散数学」の講義。

教員学生双方の「けだるさ」の相互増幅作用によって、情報処理の講座は受講 者が居なくなって自然消滅するのかと思っていたらさにあらず。受講者数は底 打ちし、そのかわり受講者の8割以上が寝ている!という事態になった。それ で今日は5月初旬以来再びキレてしまい、「君たちは、何で寝るためにわざざ わ教室に出てくるのか?」と学生と直談判をすることとなった。彼らに色々聞 き出した結果、じゃあ来週からは計算機室で実習を交えて講義することにしよ う、という事となった。結局彼らが望んでいる事は、そういう事だったのである。

それにしても、実際に計算機をいじっていないからイメージが湧かず座学ばか りやっててもピンと来ないので眠ってしまうという事が判明したのだけど、そ れを聞き出すのにはちょっと苦労した。 「何か言ってよ。黙ってたんじゃあ、私も何にもわかんないだけどなあ」 というセリフを5回ぐらい吐かねばならなかったのだ。 彼らは自分が何故眠ってしまうのか自分でもわからないままにただ眠っていて、 「何で君達眠ってしまうの?」と聞かれても頭の中が真っ白になっ てしまうようである。 また「ただ寝てるだけなのに講義に出る意味はあるか?」という命題 も考えた事が無いから、そういう事を聞かれてもただ絶句するしかない のであろう。 もしそうだとしたら、「そりゃあ、まるっきり子供じゃ ん!」と言うしかない。

本能や自分を操る何かに命じられるままに生き、自分は何者か?何故ここに居 る?何故これをやっている?という問いかけを自らに投げかける事なく、従っ て自分自身を語れない、語れと言われると絶句するしかない、というのは子供 の特性である。子供は自らを語れないから、大人が推察して「もしかしてこう なんでしょう?」と聞いてやらねばならない。それは往々にして困難な仕事と なる。

大学一回生ってまだ子供なのかしら、それとも彼らは教室で自らを語る事を厳 しく禁じられて育ってきたのかしら。

「それにしても今年の一回生は手の焼ける連中だなあ」とため息をつきな がらK川先生の部屋に押し掛けて、ちょっと気分転換してから帰宅した。

2002年5月28日(火)
<< 営業活動 >>
午後来客があるので、昼頃に出勤。来客というのは高校の数学の先生で、高校 での数学教育や大学入試、大学教育などについて意見交換を行った。 私は人とおしゃべりするのが好きだから別に構わないのだけど、色々話が 弾んで予定時間を大幅に超える2時間半余りになってしまった。 途中瞬間的に夢見る宗教生活者H先生と廊下ですれ違ったような気がしたの だけど、週に月曜と水曜だけ大学に出勤して「サラリーマンの悲哀をかみしめ」る 彼が一体どうしたんだろう。

そういえば今朝の新聞で、某進学予備校が「最近の高校生は大学の内容で 進学先を選ぼうとする傾向が出て来ていて、大学の中身についての情報への要 求が高まっている。偏差値だけで大学を選ぶ時代は終りに近付きつつある」と いうような事を言っていると書いてあった。こういう事は2〜3年前から言わ れているけれど、私の実感といささか違う。以前、二つばかりの高校を訪 問した印象では全くそんな感じはしなかったからだ。 (もっとも私はたった二つの高校を見てきただけなので、全国的に どうかというと某進学予備校の言う事が正しいのかも知れない。)

進路指導の先生などに会うと、「進路指導は偏差値だけで決めています」 「生徒も偏差値とイメージが全てで、大学の中身なんて全く眼中にありませんよ」 「大学改革なんて最近はどこの大学でも似たりよったりの事をやっていますか ら、別に目新しくもないですし、特に興味もありません」「学部学科の特色な んて説明してもらっても、いちいち覚え切れませんから(説明してもらわなく ても)いいです。パンフレットをそこに置いておいてください」「生徒が大学 の中身を重視する言っても、名前から受けるイメージなどで勝手な想像してあっ ちがいい、こっちはダメとか言っているだけですよ」等々の返事がかえって くるばかりで、なかなか大学の営業活動も楽ではないなと痛感したものである。

上野千鶴子「サヨナラ学校化社会」によると、上野さんは京都の私大時代 にあちこち高校訪問をして、進路指導の先生に上手にアピールし、「あそこの 大学には上野という面白い先生が居るから、行ってみてはどうか」と生徒に進 路指導してもらって毎年確実に何名かの受験生を集めていたそうだ。営業には それなりの力量が無いとだめなのである。

やれやれ大変だなと思いながら帰ってきて、 大学当局に提出する"営業活動報告書"に「やはり偏差値操作と学部 学科のネーミング変更によるイメージ操作が受験生確保の王道であり、 教育や研究の質を上げれば受験生は集まると考えるのはひとりよがりの 思い上がりでしかない現状であると言わざるを得ない」というような事を 書いた覚えがある。

2002年5月27日(月)
<< 研究と「お勉強」 >>
毎週月曜日は自宅待機日にしようと思って現在「試験運用中」なのだが、今日 は事務的な用事を片付けようと午後から出勤。

S藤先生はお勉強が好きで、研究しなくてもお勉強だけやれれば満足だとい う。S藤先生の言うところのお勉強は、例えば「量子力学の体系やアイディア の全容を理解しよう」という風に、そのもの自身に対する興味に基づいて先人 の残した偉大な業績の完璧なフォローを目指す。これは学生時代の勉強に近い ものだけど、学生時代と違って試験も評価も無いことだし、静かな部屋でコー ヒーカップを片手に書物を1ページ1ページ順番に丁寧に読み進めていくとい う、ゆったりとした贅沢な時間を過ごすという形態をとる。

それに対して、研究の一貫として行う「お勉強」(というより文献調査と 呼ぶ方がいいかも知れない)は往々にして自分の問題 意識に関連した所だけをつまみ食いするような本の読み方になったりする。切 羽詰まって読むだけにある意味では深い読み方ができるのだけど、気分的にず いぶんせわしないことには違いない。 また、「先人の残した偉大で美しい業績」を鑑賞するというよりは、中途半端 な中間結果の報告のようなものを相手に「この結果は使えるか?否か?」と神 経質に値踏みしながら読み進める場合も多い。 こんな調子だから、心静かなお勉強と研究は一般には相容れないと思う。

さて、私はどちらの「お勉強」が好きか? S藤先生流のお勉強も好きであ る。Hartshorne "Algebraic Geometry"を1ページずつ丁寧に読破したら今度 はリーマン面や代数関数論の本でも読もうかしら。類体論を勉強してみるって のもいいなあ。そういえば自分は代数幾何学の解析的な扱いに弱いから、一度 複素多様体論もきちんと勉強してみたいな、等々。そういう夢も無いわけでは ない。しかし、実際そういう事をやる気分にはなれない。

私はS藤先生のように、「俺ももう四十何歳か。もうちょっとで50歳にな れるな。むふふ...」と自分が歳を取っていく事を喜ぶ習慣を持った幸福な人 間ではない。むしろ(恐らくは、多くの人と同様に!)自分の年齢を数えて密か に顎然とするタイプの人間である。「俺ももう四十何歳か。数学の研究ができ るのは、あと高々■△年だな。健康状態次第によっては、それよりも短い かも知れない。俺はそんなに色々アイディアが湧いてくるタイ プでもないし、頭の回転は遅いし、ぼんやりしてたら■△年なんてなーんにも しないうちに終ってしまうわさ。こりゃあ、大変だ!」ってな調子で焦るので ある。とてものんびりと「お勉強」する気分ではない。そんな暇があれば、無 い知恵でも絞って研究するフリをしていなくっちゃ。 さて、こんな追い詰められたような気分で研究している私は、本当に それを楽しんでいるのだろうか?「スリスがあっていいではないか」というのが 現在のところの公式見解である。「大体数学の研究というのは、自分にプレッシャー を掛け続けてないとマトモな事は何もできない」というのは、私の尊敬する 友人の言葉である。

それにしても最近のS藤先生は、(研究のための読書ではなく)心静かにお勉強 していると、色々研究のアイディアが湧いて来るそうだ。心静かなお勉強と研 究が両立するなんて、大変珍しく幸福な現象だと思う。

2002年5月24日(金)
<< 趣味(テイスト)を見出す >>
午後は可換代数・代数幾何学セミナー。自家養成サクラI君の発表は2次元アフィ ン空間のザリスキ位相の様子など。直観的には簡単な話で自分の講義でも事実 として紹介していたのだけど、きちんとした証明は今回初めて聞いた。3回生 F君の発表はSpec(Z[x]) → Spec(Z)のファイバーの構造の話とZornの補題から の選択公理の導出。これもきちんとした話を聞いたのは初めて。ということで、 今日は色々勉強させてもらった。

F君はファイバー空間のような(代数)幾何学的な話はどうも趣味に合わない、 といった顔をしている。F君にしろI君にしろ、私は可換環論プロパーではなく 代数幾何学の方に誘導しようとしている。それは、入門程度の代数幾何学の理 解があれば可換環論のイメージがより膨らむから教育的効果は大きいと考えて いることと、常に代数幾何学との関連を意識するというのは私の趣味であるか らである。もっと言えば、実のところ私は可換環論の研究者よりも代数幾何学 の研究者になりたかったので、少し大袈裟に言えば(無意識に)「自らの見果てぬ夢を 学生に託している」ようなところもあるような気がする。

まあ、教師の私の思惑はどうあれ、いずれF君も自分の趣味(テイスト)に 合った数学を見出して行くだろうし、そうあって然るべきだと思うが、彼がどうい う方向に落ち着くのだろうかちょっと楽しみではある。

ところで、学生の中には国立大学などの大学院に進学する人も居るのだが、 彼らが行きたがる大学に可換環論の専門家が居ないことが多い。多くは代数幾 何学の専門家が名目上(?)可換環論もカバーしていることになっていて、そう いう指導教官に「代数幾何学には興味は無いです。私は可換環論を専攻したい です」と言った場合、あまり良い顔はされないということは十分にありうると 思う。実際そういう例も聞いた事がある。

F君が将来そういった大学の大学院に進学して、なおかつ「自分は代数幾何 学は嫌いで、可換環論でなきゃ嫌だ」とかいう趣味に落ち着いていたりすると、 ちょっと厄介な話になるような気がする。ま、そんな事私が今から心配するこ とではないかも知れないけどね。

2002年5月23日(木)
<< 私は蝸牛です >>
本日午後一番より線形代数の講義。思うように進まず自分が蝸牛になったよう な気分で部屋に戻る。まあ、演習担当のK川先生に「公約」した所までは進ん だから、よしとしようか。引続き卒研ゼミで二人の「蝸牛」君たちの奮闘ぶり を見守る。

それにしても線形代数の講義ってのは、講義が遅い私にとってはかなりしんど いものである。こういう基幹的基礎科目は、ここまでやらねばならないという 範囲がきっちり決まっている上に、講義に付属している演習の講座が2クラス あって両方のクラスの先生達(つまりK川先生、Kaz先生のKKコンビである)から 「お前この前の時間嘘教えただろう!?」とか「進度が遅い!」だのと直接・ 間接にプレッシャーを受け続けるのである。情報学科で8年間、単にコマさえ 埋めれば良いだけのいい加減な講座ばかり担当してきたので、数学科のちゃん とした講義を担当するには、このぐらいプレッシャーを与えてもらわないと進 歩は無いのかも知れない。

2002年5月22日(水)
<< 心掛けだけはよろしい >>
本日午後一番より連続して「情報処理」「離散数学」の講義。両者は見事なコ ントラストを示している。あくまでけだるい「情報処理」の受講生数は等比数 列で減少し零に収束しつつあるのに対し、「離散数学」の受講生数は全く減少 する気配を見せない。「犬と子供と学生さんはだませまへん」と言うが、 私がどちらの講義に知らず知らずのうちに力を入れているかは、この傾向から 見て明らかであろう。

さて最近は、研究の事が常に頭の中にあってその合間に講義や会議をやっ ているという気分になってきているようだ。研究には意識の連続が必要だから、 これはこれで大変よろしい傾向だと思う。以前は講義や会議の合間に思い出し たように研究をするという感じだったのだが、講義や会議の量は以前とあまり 変わっていないから、私の心掛けが良くなったのであろう。確かに心掛けは大 変よろしくなったのかも知れないけれど、肝心の研究の自身は五里霧中のまん まというのがいけない。ま、こればっかりは研究者の宿命だからしょうがない けどね。

2002年5月21日(火)
<<虫の知らせ>>
本日も自宅待機日にしようと思っていたのだけど、「虫の知らせ」を感じて昼 頃大学へ。昼食を終え、ちょっと事務的な雑用を片付けようかと思っていたと ころに、4月からK大学大学院に進学しているY君が現れる。ははあ、虫の知ら せとはこの事だったのかと思いつつ、楕円曲線の質問をされてしどろもどろに なったり、K大学の様子や最近彼が勉強している事などをを中心に小一時間ほ ど雑談をする。私にとってK大学は今だに敷居の高い所なのだが、Y君のような 人がK大学の内部に居て時々色々な話をしに来てくれるのは有難いことである。

さて、 本当は読べき文献があるのだけど、どうも文献読みは電車の中やちょっと立ち 寄った喫茶店とかいった、中途半端な場所でないと気が進まない。折角大学に 来たのだし数式処理システムで具体例の計算をしてみようかということで、色々 やっていると、校務関係の外線電話。これは今日私が大学に来ていないとまずい ような内容だった。ははあ、これも虫の知らせかしら。

しかしながら、正しい数学者というのは、後者の場合の「虫の知らせ」は断固 として蹴飛ばすものなのではないだろうか。連絡がつきやすい人物と思われる と余計に「雑用」が降りかかってくるから、講義や会議などが無い限り絶対大 学には行かない。メイルも年2回ぐらいしか読まないか、読んでも 滅多に返事を出さないようにする。「虫の知ら せがする」とか言って、講義も会議も無いのに気をきかせて大学に行ってみる、なんてのはもってのほ かである。静かな研究環境を確保するためには、こういう日頃の地道な努力を 重ねることによって、「あいつは『使えない』」という評価を確立することが 肝要である。

同僚の先生達を見渡すと、こういう事は既に当り前のように実行している人も 存在するようである。私なんかは、いまだに会社員根性がどこかに残っている のか、まだまだである。

2002年5月20日(月)
<<数学を教える意味>>
自宅待機日である。昼過ぎから夕方頃までは進々堂で、それ以外は自宅(近辺) で過ごす。3月末から5月上旬までやっていた計算の意味をもう一度コンパク トに整理し直してみたり、何か別の方向は無いかと考えてみたり。しかしなが ら、相変わらず闇の中をさ迷っていることには違いない。

闇からの逃避行動はGoetheで借りてきた先週号のドイツ語版FOCUSを拾い読 みしたり、上野千鶴子「サヨナラ学校化社会」を読んだり。その他、最近の逃 避本としては、緑ゆうこ「イギリスは理想がお好き」、入江敦彦「やっぱり京 都人だけが知っている」、彌永昌吉「数学者の世界」等々。

上野千鶴子さんは今は東大の教授をやっているけど、私ぐらいの年齢まで は「京都の偏差値三流、四流校といわれる私大や女子短大で教えてい」たそう だ。「サヨナラ...」を読むと、上野さんが東大に移る前も後もひじょうに良心的で熱心 な教育者であり続けていることがよくわかる。

わが身を振り返って、今自分がなんらかの理想を持って学生の教育にあたっ ているかというと、そうでもない。何故ならば、自分は何のために数学を教え ているのかよくわからないからである。

それでは、数学を学べばは上野さんの専門である社会学みたいに現実を的確に とらえる視点や分析力といった「生きる力」(知恵)を身につけることができ るかというと、「そうかも知れませんが、そうでもないでしょう」という訳の わからない返事をするしかない。

結局、自分がやっていて面白いから「どう?これ面白いでしょう!」とい う気分で教えているだけである。幸い、数理科学科というのは「ふーん。そん なもんですかねえ」程度に興味を示す学生がそこそこの割合居て、たまに熱狂的に面白 ろがってくれる学生がいるから、こちらも調子に乗って教えているという感じ なのだ。

2002年5月17日(金)
<< 何の自慢にもならない >>
一週間があっという間に終ってしまう。もう金曜日の可換環論・代数幾何学ゼ ミの日である。自家養成サクラI君の発表はザリスキ位相の非ハウスドルフ性に ついて。相変わらず予習の詰めが甘くほとんど進まず。3回生F君の 発表はSpec(k[X,Y])とSpec(Z[X])の構造について。 最近のF君は癖の強いReidの本に当てられ気味で、いささか当惑しているようだ。 Reidの可換環論の本はとても刺激的で面白い本だと思うけど、 初学者には刺激が強過ぎていささか辛いものがあるのかも知れない。 来週はスキームの幾何学のさわりのさわりをやるのだけど、 ずいぶん不安がっている。 ということで、本日2人の学生はいずれも悪戦苦闘。

学生のゼミの発表を聞いていると、どうして予習でテキストを読む段階でこう いう疑問点に気づいてあらかじめ考えて来ないのだろうかとか、どうして こう説明の要領が悪くメリハリ無くダラダラと板書に時間を費すのだろうか、 とか思ったりする。しかし、今はそんな偉そうな事を言っているけれど、 自分の学生時代も同じような事をやってたような気がする。 私は何時からテキストの中の論理のギャップや注意すべき微妙な所 がわかるようになったのか?何時からメリハリをつけた説明がどういうものか わかるようになったのか?少なくとも言えることは、学生時代からそういう事 がちゃんとできる人は飛びきり優秀なのだが、年期を積んでからそういう 事ができるようになるのは何の自慢にもならないということである。

2002年5月16日(木)
<< 世にも厚かましい >>
本日午後一番で線形代数の講義。引続き卒研ゼミ。レポータの一人、大学院進学 予定のI君が都合で欠席。就職希望のM君の「蝸牛が一生懸命京都タ ワーを登る」さまをしかと見届け、少し早めに終る。M君は割合早く就職が決まるだろうな と思っていたのだが、もう決まったそうだ。私なんがが見ていて「何となく仕事が できそうなコやね」という雰囲気の人は、割合苦労無く就職が決まるような気がする。 その後、色々事務的な仕事をしてから帰宅。

卒研ゼミ中にふと、線形代数の講義で嘘の証明を喋ってしまった事に気づ く。結構微妙な所を突いた良いミスであったと言っておこう。次回の講義では 正しい証明を説明したうえで、「前回の証明のどこがどう間違っているか説明 せよ」というレポート課題でも出してやろうかと思う。頭領は倒るるところに 藁をも掴む。講義のミスをレポート課題にしてしまう、世にも厚かましい高山 大先生なのである。