2002年10月15日(火)
<<諸般の事情>>
本日出勤日。午前中は3回生F君の可換環論自主ゼミ。R-加群の定義、中山の 補題証明への伏線と加群の同型定理など。午後は自家養成サクラI君の代数幾 何学ゼミだったのだが、I君が「諸般の事情により」(詳細未確認)ゼミの準備 をしてこなかったため中止。思わぬ時間が空いたので研究室で少し計算などを 進める。夕方4時から教務委員会。

教務委員会でどっさり宿題を出されたので、夕食は大学で取り、夜遅くま で研究室でお仕事に励む。凄い雷があって、停電などあった。

2002年10月14日(月)
<<総論賛成>>
午前中は自宅で過ごし、昼食後は”放浪の旅”に出る。京都駅前アバンティー で文房具を買った後、ホテル京阪や山科駅前SBUXなど最近のお気に入りスポッ トを中心にふらふらと。

今日は祭日だが、例によって立命館は営業日である。教員学生双方から 「何を考えとるんじゃ!?」と沸沸と不満の声が上がっていると思われる。 こういった不満を持つ皆さんのために、今日は少し解説することにしよう。 ただし、解説はあくまで私が理解している範囲の個人的見解なのであって、 事実と異なることもありうるのでご注意を。

この問題の背景には、祭日が月曜日に固められるようになって学校関係者 にとってははなはだ不便になってしまったことと、1セメスター12週制の 「ゆとり教育」モードだった立命館が1セメスター15週制に移行したことがあ る。では、15週制の導入はどのようにして決まったのか?

まず、誰が言い出したのか知らないけれど、国立大学は1セメスターに1 5週講義があって私立は12週しかない。だから私立の学生は国立の学生に比 べて学力に見劣りがするのだ、という理論がある。(私はその理論の真偽につ いてはいくぶん懐疑的である。)そこで、それはけしからん、ウチの学生も国 立大学の学生なみにおりこーさんにするために1セメスター15週にしよう! という話が持ち上がった。私なんぞは当時「ウチは国立大学よりも雑用が多い のに国立大学と同じだけ講義してたら国立大学の先生と比べて益々研究時間が 減ってしまうし、第一かったるいなー」などとフトドキ千万な事を考えたり、 「私立、とくにウチは2月初めから入試だ採点だと大騒ぎしているから、国立 大学に比べて学年歴がタイトな状態なのに、どうやって15週も押し込むんだ ろう?」とちょっと心配してたのだけど、立命館の先生達は皆教育熱心なので 「それは良かろう」と圧倒的多数によって総論賛成!という事になったようで ある。

で、実際運用してみたら4月4日からいきなり講義が始まるわ「立命館に 祭日という言葉はございません、悪しからず」状態になるわで、「こんなはず じゃなかった...」となったわけだが、一度「総論」で賛成して決まった以上 たとえ「各論」がうまく行かなくても、手を変え品を変え「各論」を調整しな がら総論の実現のため矢尽き弓折れるまで突き進まねばならないのである。 総論賛成とはここまで重い意味を持つ。 それは何故か?

これが企業だったりすると、いいと思って始めたけれど実際やってみると 色々具合が悪いことが出てきたし、「状況が変わったので」(これは企業の中 で意思決定の不連続的変化を瞬時に合理化する際の常套句である)ので、思い 切ってやめてしまいましょうという事が割合簡単に行われるのだが、自由と民 主主義の立命館の場合はそうは行かない。つまり、一度決めた事を軽軽しく撤 回するなどとは、営々と積み上げてきた民主的議論の重みと学園構成員の総意 の到達点の輝きを何と心得るか?喝!!ということになる。15週制にしたら 以前より明らかに学生さん達が馬鹿になってしまったことが科学的に証明され るとか、お客様であるところの学生さん達が一致団結して反乱を起したという なら話は別だが、1セメスター15週制を撤回するためには導入時の数倍の気 の遠くなるような民主的議論を営々と積み重ね、議論の経緯を綿々と綴った資 料(これを「文書(もんじょ)」という)を山のように書きつらねなければいけな いと思われる。

しかし、自由と民主主義の立命館には民主的議論の「総括」いう裏技(詳細 は知らない。「総括」は連合赤軍事件では"私刑"を意味する言葉として使われて いたので、私はこの言葉が嫌いである)があるそうだし、またダイナミッ ク・アカデミックの立命館としては何か目新しい制度(たとえば2セメスター 制なんかやめてしまって、別の制度にしてしまえ!とか)を導入することによ る「発展的解消」というウルトラCも考えられる。だから、もしかして何らか の変化があることも否定できない。

2002年10月13日(日)
<<楽観主義者でなくたって>>
ノーベル化学賞を受賞された田中氏は、私より一歳若いのだけど私と同じく大学 で一年留年し、私と同じ1983年に学部卒でメーカに入り研究所勤務を始め、会社は 違うけれどメーカの学卒技術系社員として入社10年近くまでの経歴は私と似たような 感じのようである。そういう意味で、少なくとも(私も会社員をやっていた)10年前ぐらい までの氏の職業生活の雰囲気はおおよそ想像がつくし、なんとなく親近感を持ってしまう。

ところで、私が会社員をしていた頃何が一番怖かったかというと、会社の方針によって いつ研究者生命が断たれるかわかったものじゃないという事であった。今は研究所勤務で 研究者でやっていても来月から研究グループごと事業部に移転するという事も珍しくない し、事業部移転もスケジュールに入っている研究開発プロジェクトに組み込まれることだっ てある。こういうことは研究所から事業部への技術移転ということで、メーカとしてはごく当 たり前の事なのだが、私にとってはおおごとなのであった。

工学の場合、研究者と技術者の違いというのは一般に曖昧だけど、私の心の中では両者 は明確な違いがある。つまり、世界じゅうで誰も作った事がない新しいものの開発を手がけ、 新しいアイディアを設計に盛り込む立場にあるのが研究者、他人の作った設計に従って きちんと実装したり、既に世の中で知られている設計法に従って目の前のものを設計したり するのが(研究者ではない)技術者である。

事業部の技術者が研究者として活動することは、少なくとも当時私が勤めていた会社では ほとんど不可能であり、これは研究者生命が断たれたに等しい。そして私にとって研究者以外 の生き方はほとんど考えられないのである。最近わかってきたことだけど、私は自分では捨てる神 あれば拾う神ありで、結構あなた任せのふらふらとした生き方をしているつもりでいるのだけど、 実は自分がどう生きたいかについては常に明快な考えを持っていて、一切の妥協はしない人間 のようだ。そして、自分の人生が会社の方針という経済原理によって決まってしまうなんて、私に 言わせればとんでもないことなのだ。

かくして妥協を知らない悲観主義者の私は「明日をも知れぬ命」のはかなさに耐え切れ ず、田中氏がちょうど後にノーベル賞の受賞対象になった研究に没頭されていた頃、「会社 からの逃走」に没頭していたのである。つまり、上司の目を盗んで必死に(ゴミ)論文を書きま くり、(田中氏が取得しようとしなかった)博士号取得の道を模索し、研究者としての身分が安定 している大学への転身を画策していたのである。

田中氏は私と違って、こういった事で悩んだ形跡は感じられない。そういう人はたくさん 居るし、実際そういうタイプの人に「何で君みたいな事で悩むかね?研究所でも事業部でも、 会社に居たらあるレベル以上の技術者や研究者が揃っていて規模の大きい色々な仕事が できて面白いじゃないの」と不思議がられた事もある。確かに数理科学科に移籍する前は、 立命館の情報学科の教師をしているぐらいなら会社に残っていた方がよっぽどマシだった と後悔の日々を送っていたのだが、その時はそんなことはわかりっこない。大学教師になれ ば全てはバラ色だと信じていたのである。

まったくもって楽観主義者ならざる者は、つまらない事に大騒ぎして右往左往する人生 を覚悟しなければならないようである。もし私が楽観主義者だったなら、今でも案外何くわぬ顔 をして会社の研究所で計算機の研究を続けていたかも知れない。でも、数学とは一生オサ ラバのままだっただろうな。そういう意味では、楽観主義者でなくたっていい事はあるのだ。

夕方はラクト・スポーツクラブへ。

2002年10月12日(土)
<< Danke! >>
  本日ゲーテの中級1(Mittel Stufe 1)コースの第一日目。ゲーテの講座に通うのは3ヶ月 ぶりである。前回のクラスは音大関係の人が多く、ウイ―ンのナントカ音楽院の留学帰り だの何だのという人が何人もいて、私は4年住んでただの2年しか居なかっただのというよ うな話をしていた。それ以前のクラスでも、ヴァイオリンの先生とか趣味で独唱のコンサート をやっている主婦とか、はてまた老人ホームで音楽セラピーをやっているとかいう人が居た。 どうもゲーテには音楽関係者がたくさん通っているらしく、毎年ゲーテで行われるクリスマス 会のミニ・コンサートの演奏者は受講者有志だけで十分まかなえる。

今回の講座はちょっと趣が変わってなぜか同志社関係者が多く、同志社の院生だの、 同志社出身の高校・大学教師だの、同志社の帰国子女(ドイツ帰り)の学生だのといった 人がごろごろしている。図らずしも”同志社関係者に取り囲まれた立命館の教師”という図 式が出来上がってしまったようだ。

ところで、ゲーテの所長などは、ゲーテの生徒がドイツ語を勉強することに対してはっきりと Danke!(有難う)と言う。これは、学校経営の責任者として「まいどありい!」という意味もある のだろうけど、むしろドイツ文化やドイツ語を世界に広めるという使命を持って活動している、 ゲーテ・インスティチュートに趣旨に応えてくれる事に対する感謝という感じがする。

では、文化や言語あるいは道具としての数学を世界に広めるという使命を持って活動して いる我々数学教師の趣旨に応えて、わざわざ数学科に入学してまで数学を勉強する学生達 に対して、我々はDanke!と言うかというと、そういう話はあまり聞かない。心の中で思っている 教師はいるのかも知れないけどね。私は数学科に移籍した当初はDanke!の気持ちで一杯 だったけど、最近は比較の対象である情報学科の学生達の毒気に触れる事が少なくなって きて、数学科の学生達がいかに奇特な心掛けの持ち主であるかを特に意識しなくなってきた 事。さらには、到達度検証試験の結果を見て思わず心がすさんだりすることもあって、だんだん 感謝の気持ちが薄れてきているようだ。まあ、これが数学教室の日常というものなのかも 知れないけれど、慣れというのは怖いものである。

2002年10月11日(金)
<<高飛車>>
山科駅前SBUXでホットミルクと卵野菜サンドで軽く昼食を取りながらしばらく 過ごし、大学に置いてある本を見る必要が出て来たこともあって、夕方の院ゼミより 少し早めに出勤。院ゼミは捻れ3次曲線の例の計算など。

来週水曜日には卒研ガイダンスがあるのだけど、来年度のテキストを何に しようかまだ迷っている。昨日の帰り、K川先生の元同級生のK山先生と一緒に なり、Fultonの"Young Tableaux"を読ませるのがちょうど良いのではないかと いう話になったのだが、Young Tableauxは何となく気になってはいるものの、 私自身いま一つ好きになれないこともあって二の足を踏んでいる。学生に読ま せるのにちょうど良いレベルで、かつ、格調高い本であり、さらに私自身が 一年間楽しめそうなものとなると、なかなか見付からないのだ。

しかし、最後には学生の激しい抵抗に根負けして「すぐわかる代数」とか 「入門線形代数」の世界まで退却することになろうとも、最初ぐらいは高飛車 に打って出ないと示しというものがつかないのではないか。だいたい学生が勉 強しないからと言って、こちらが提示する講義だのゼミだの試験だののレベル をずるずる下げるような軟弱な事をしていて良いのか、という反省が私の胸の どこかに渦巻いているのだ。そこで、私は可換環論屋なのだけど、学生と一緒 に(趣味と実益の)代数幾何学を厳かに勉強するには、次のように説明するのが 良いかと思われる。

「既に可換環論をある程度自分で勉強している人にはD. Mumford "The Red Book of Varieties and Schemes"(LNM 1358, Springer)でスキーム論を勉強す るのがお勧めです。もうちょっと層と層のコホモロジーに重点を置いて勉強し たい人はG. Kempf "Algebraic Varieties" (London Math. Soc. LNS 172)なん てのはどうでしょう。スキームだ層だと言う前にもっと幾何学的な世界を堪能 したい人には、今や古典になってしまいましたけどD. Mumford "Algebraic Geometry I: Complex Projective Varieties"(Springer Classics in Math.) を読むって手があります。これらの本を読むには可換環論をある程度理解して ないといけないですが、環論はまだ全然勉強してないという人は、まず M.F.Atiyah & I. G. MacDonald "Introduction to Commutative Algebra" (Addison&Wesley)を夏休みまでにさっと読んでしまうって手も考えられます。 Red Bookはちょっとページ数がありますが、それ以外はどれも130〜180 ページぐらいの薄い本ですから、ちょっと頑張れば卒研の一年でほぼ読み終え ることができるでしょう。また、代数幾何学云々に必ずしもこだわらずに本格 的に可換環論をやりたい人は、H. Matsumura "Commutative ring theory" (Cambridge)の半分以上を読破することを目標に一年かけてじっくり 取り組むことになるでしょう。」

なんて事を一度言ってみたいものである。来週のガイダンスで本当に こんな事を言うかどうかは、その時のお楽しみとしておこう。

2002年10月10日(木)
<<見違える>>
出勤日である。午前は情報学科の数理モデル論の講義。受講生10名で、前回 に比べて微減。加群の具体例、体上の加群が自由加群になることの証明など。 講義は淡々と進める。午後は卒研ゼミ。講義とゼミの合間は色々雑用を片付け る。

卒研ゼミの合間と直後に夢見るH先生とA掘先生に出会う。ネクタイしてみ たり鬚を剃ってみたりで、ちょっと見ない間に二人とも見違えるようにこざっ ぱりしてしまって... ホント最初は誰だかわからなかった(特にA堀先生)。

2002年10月9日(水)
<<錯覚?>>
出勤日。午前は代数曲線論の講義。前回に引続き2次元実射影空間を中心に射 影空間の話。全部2回生で習っているはずの話なんだけどなあ。まあいいか。 もうRiemann-Rochの定理なんて真面目に話そうとは思っていない。眠り天才君 はこの2年間に長足の精神的成長を遂げたらしく、ほとんど眠りかかっている のに決して眠らない。エライエライ!しかし完全に眠りこけてしまうのも時間 の問題か。今日からMぴー君が講義に現れて、少し授業の雰囲気が活気づく。

午後は線形代数の講義。働けど働けど講義の進度良くならず、じつと手を 見る。写像の全射・単射、一次独立・一次従属などの話に関連して、全称記号、 存在記号、ANDの否定は何になるか、といった簡単な形式論理の話をしていた らどんどん時間が経ってしまい、教科書は2ページしか進まず。

集合・写像・論理は数学の基本中の基本で、それがわからないと大学の数 学なんてさっぱり分からないはずである。ところが、高校を出たばかりの学生 達はそういう方面はからきしダメであるにもかかわらず、大学では通常そうい う事はほとんど既知のこととしてカリキュラムが組まれている。これはちとま ずい。そこで線形代数や微積分といった講義の中でおりに触れて説明するのだ が、そんな事をしていると時間は圧倒的に足りなくなるのである。

線形代数の講義のあとさっさと帰宅しようと思ってたのだけど、学生が 後で質問に行きたいというので、集中講義の準備などをやりながら夕方過ぎまで 大学で過ごす。しかし結局学生は来ず。

夜のニュースで島津製作所の田中氏のノーベル化学賞受賞を知る。こうノー ベル賞をばかばか貰うようになると、まず単純に凄いもんだと思い、次に日本 が良い意味で全く別の国になったみたいだという気分になり、最後に「ノーベ ル賞って案外簡単に取れるんだな」という(おそらくトンデモナイ)錯覚に 陥る。

10〜15年に一人ぐらいの割合で、しかも量子なんとか理論を使って物 質の究極のナントカの構造を理論的に予言して、それが正しい事が30年後に 明らかになったのでノーベル賞をもらったそうだ、へー!とかいう話をしてい た時代は、ノーベル賞というのは何か特別に厳かで神々しくて有難いような気 がしてた。また、受賞の間隔が長いのでおのずと受賞者への注目度が高くなり、 いろいろな所での発言を通して彼らの学問や人となりをじっくり知ることもで きた。これが行きすぎた個人崇拝や受賞者の神格化につながる事もあったのか も知れないが。

しかし、正直言って今は「何だ、(平和賞を除く)ノーベル賞って普通の学 術賞じゃん」(学術賞でなかったら何なんだろう?)という、何だか醒めた気分 になってしまった。でも、これは案外正しい受け止め方なのかもしれない。

2002年10月8日(火)
<<ノーベル賞>>
秋の雨である。傘をさして、書籍代の振り込みと定期券の購入のため銀行、郵 便局、山科駅を回り、その足で河原町三条ゼストのパン屋カスケードでパンと ホットミルクで軽く昼食をとりながら線形代数の講義の準備。その後ゲーテの 図書室に移動し、ドイツ語講座の予習をし、ドイツ語のビデオを借り出す。山 科駅に帰ってきて、SBUXでカレーツナ・サンドとホットミルクで小腹を満たし ながら昨日の計算式を眺める。また傘をさして帰宅。

リストラされたお父さんが、それを家族に知らせられずに毎朝出勤を装っ て家を出て、公園や喫茶店で一日時間を潰して帰ってくるという話を聞いたこ とがあるが、私も形の上では同じような事をやっていることにふと気づく。

夜、テレビのニュースで日本人がノーベル物理学賞を受賞したことを伝え ていた。3年連続ノーベル賞というのも凄いけど、毎年のように日本人がノー ベル賞を取る時代がいよいよやってきたのかな。まあ、候補者はたくさん居る らしいから、そうだとしても不思議ではないそうだけど。

それにしても、小柴先生は優が2つ、可が4つ、良が10個ぐらいで東大 の物理をビリで卒業されたそうだが、この成績でビリになるのだから、(当時 の)東大の学生はよほど勉強家揃いだったのか、それとも(当時の)東大物理の 単位がよほど甘かったかののどちらかであろうと思う。

その後、自宅のPCに数式処理システムSingularをインストールして、少し いじってみる。 

2002年10月7日(月)
<<理路整然>>
心静かな生活のため、自宅ではメイルの読み書きをしないことにしている。そ うすると、どうしても今日じゅうにメイルを出しておきたいとなると、そのた めだけに大学に来ることになる。ということで、今日は臨時出勤日。メイル出 し等の仕事は午前中に終り、昼食後しばらく研究室ですごし、早々に帰宅。夕 食後はふらふらと山科駅前SBUXにゆき、21時過ぎまで過ごす。

夕方頃S藤先生が今日締め切りの書類を書き始めたとかで、ちょっと書き方な どを教えてくれとか言ってきた。システム管理だろうが、論文書きだろうが、 すべて一本指だけでキーボードをポツポツと叩いてやってのけるS藤先生であ る。天に誓って今日じゅうに書き終えられるわけがない。

S藤先生にとって、「締め切りは○月○日です」というのは全て例外無く「締 め切りは原則として○月○日です」と自動的に読み替えられる。そしてこの場 合の「原則として」は、常に10月4日分の日誌で書いたような「微妙な誤解」 によって解釈され、締め切り日の○月○日以降に「さて始めるか」とおもむろ に電話などを掛けて「本当の締め切りは何日ですか?」と問い合わせるのであ る。こう考えると、S藤先生の行動は全て一定の原理原則に従って理路整然と なされているのであって、決してその場そのときの気まぐれで動いているので はないことがわかる。

ところで、「本当の締め切りは何日ですか?」との問い合わせにちゃんと然る べき答が返ってくるのだから、S藤先生のような人は世の中にごまんと存在す ることがわかる。こういう人達はきっと長生きできるに違いない。

私はこのような、世の中何でも本音と建前があってお互い様のなあなあのもた れ合いなのさって事を最初から折り込み済みでモノを考えるのが好きでないので、 「締め切りは○月○日です」というのは全て例外無く「締め切りは原則として ○月○日です」と自動的に読み替えられる。そしてこの場合の「原則として」 は、常に10月4日分の日誌で書いたような「著しい誤解」によって解釈され、 何が何でも締め切り日の○月○日までに事を終えようと無理してしまうのであ る。こう考えると、自分はその場そのときの気まぐれでお気軽に生きているつ もりでいるのだけど、案外一定の原理原則に従って理路整然と行動しているこ とに気づく。

2002年10月6日(日)
<<掘り出し物>>
日曜日はいつも何だかんだとあって、さてと"通常業務"に戻ろうかと 思ったときには大抵午後3時を過ぎているのが普通である。 夕方、野暮用もかねて京都駅近辺へ。ホテル京阪で ティーオーレを飲みながら少し論文を見直し、昨日ふっと「これは使える!」と思った テクニックが、実は私が考えている場合には使えない事を確認してちょっと落胆。 その後アバンティーのMusic StreetでBachの中古CD900円也を 購入。これは掘り出し物だとほくほくして帰宅。夜は論文修正の最終作業。

2002年10月5日(土)
<<繁盛 >>
自宅にて論文修正作業。もう10月なのに何だか暑い。夕方散歩がてらに山科駅前SBUXへ。 スチーム・ミルクとメイプルナントカ・スコーンを食べながら論文を見直す。昨日もそうだった けど、SBUXって結構繁盛しているなあ。山科駅近辺で夜遅くまで、また、日曜日でも営業 している喫茶店というのは今まで無かったので、有り難いといえば確かにそうだ。 夕食後はまたラクト・スポーツクラブへ。帰宅後もまた少しだけ論文を見直す。

2002年10日4日(金)
<<勘違い>>
昼前から町をさ迷いながら論文の修正作業。京大ルネで昼食をとった後、京大数理研の図書室でも 行こうかと思ったが何となく気乗りがしない。「喫茶進々堂遊び」もちょっと飽きてしまった雰囲気。 どうしたものかと思いながら東大路を歩いていたのだが、そこでたまたま通りかかった京都駅行きの バスにふっと飛び乗る。京都駅前ホテル京阪のラウンジで紅茶を飲みながらしばらくすごし、その後 山科駅近辺に移動しスターバックスでスチーム・ミルクと本日のお勧めナントカカントカ・ケーキ(難しくて 名前が覚えられないぞ!)を食べながらまたしばらく過ごしたあと、ラクト山科をちょっと冷やかして帰宅。

ところで、私は比較的最近までずっと「原則として○○は認めない」というのは「いかなる理由があ っても決して認めません。石頭だの鬼だの杓子定規だの意地悪だのと言いたければ勝手に言うがよ ろしい。雨が降ろうが槍が降ろうが地球がひっくり返ろうが、ダメなものはダメなんです。それが『原則』 というものです!他に用件はあるんですか?無ければさっさとお帰りください。それじゃ!」という 意味だと著しく勘違いし、こういった文言を見るたびに心密かに見当違いの義憤にうち震えていたのである。

いっぽう、S藤先生はきわめて最近までずっと「大っぴらに認めると色々ややこしいことになるので表向 き一応ダメって言っておくだけですよ。皆さんそれぞれ事情ってものがあるでしょうし、世の中カタイ事 言ってたんじゃあ動いていきませんよね。ええ、だからこっそり申し出てくれればいつでも認めますよ。 え?原則を曲げなければならない『しかるべき理由』?何でそんなのが要るんですか?メンドクサイことを 言う人ですねえ。わかりました、わかりました。理由を示さないと気持ち悪いというのでしたら、何か紙にで も書いて出してもらってもいいです、はい。内容は何でもいいですよ。流石に『太陽がまぶしかったから』 とか『月がとってもきれいだから』とかいうフザケタのはちょっとまずいかもしれないけど、まあ多分誰も見 やしないですからジョーシキの範囲でテキトウに作文しといてください、はい」 という意味だと微妙に勘違いし、こういった文言を見るたびに「しめしめ」とほくそえんでいたようである。

この勘違いの仕方の違いは、私とS藤先生の人格および世界観の違いを実によく表しているような 気がする。

2002年10月3日(木)
<<とてもめでたい日 >>
今日はドイツ統一記念日であり、Weil予想を解いたP. Deligneの誕生日であり、 そしてまた私の誕生日でもあるという、とてもめでたい日である。昨日と同じ く朝から出勤。講義と雑用に励む。

情報学科4回生配当数理モデル論の講義第一回目。R-加群とその例など。 受講生12名うち1名は卒研生のM君で他は情報学科の学生。11名の情報学 科の学生は一体何を思ってこの講座を受講しているのか知らないが、内容は連 中が好きなサイバーなんとかだの画像カンケイだのではなくって多項式のイデ アル論なので、とりあえず彼らのことはおいとくことにし、とにかくM君にわ かる講義というレベル設定にする。さらに自分の講義ノートを丁寧に読み直し ていく要領で行う方針にした。するとどうなるかというと、結局手堅いスタン ダードな代数の講義になるわけだ。

ところで、K川先生によると「全国に飲み友達がいるのではなく、飲み友達 と一緒に全国を行脚しているだけ」なのだそうだ。

2002年10月2日(水)
<< 出勤日 >>
出勤日である。代数曲線論と線形代数の講義、および長い長い教室会議。その 合間に寸暇を惜しんで雑用を片っ端から片付ける。

4回生配当代数曲線論は、昔懐かしい「眠り天才」君の学年であり、昨年 度の到達度検証試験で「どこにも到達していないと思われる」と(少なくとも 私は)判定した学年でもある。これから代数曲線論を展開するうえで前提とし たい予備知識としてこれは知ってるか、あれは習ったか、と色々学生に質問し たのだが、何も知らない、何も覚えてない、ここはどこ?私は誰?ってな調子 なので、ははあ、やっぱり何処にも到達してないなあとの思いを強くする。結 局、当面は大学2回生ぐらいを相手に展望講義をするような調子で話して行こ うという方針を固める。

次は苦悩の線形代数!メモを作っててきぱき話を進めたつもりだけど、教 科書3ページ分しか進まず。最低4ページぐらい進まないとまずいんだけどなー。 何人かの学生の顔が夏休み前と比べてずいぶんこわばっていたのだが、たぶん 先週末の成績発表で前期の単位を落したことを知ってショックを受けているの だろう。ショックはおおいによろし。心を引き締めて勉学に励まれたし。

あと、教室会議。大きな議題は無かったと思うのだけど、何でこんなに長 引くのか?それにしても、会議における数学教室の皆さんのあの独特の「粘り」 は一体何なのだろうと疑問に思っていたのだけど、それは数学のゼミをやると きの粘りと同質のものである事にふと気づいた。

2002年10月1日(火)
<<あれやこれやの海>>
(集中講義を含めた)講義の準備や事務書類の修正、学会で同業者に約束した プレプリントの送付、ちょっと気になって読みかけた代数幾何学の教科書の疑 問点、ドイツ語の予習、この1、2ヵ月ずっと気になっている具体例の計算、 あまり読みたくないけど自分の研究に関係しそうな論文の勉強、学生とのゼミ の打合せの連絡、教務委員の仕事、研究以外の用事での出張、いろいろな会議、 そういえば来年度の卒研をどうするか考えなくっちゃ、その他たった今たまた ま忘れているのかも知れないちょっとした雑用etc. 新学期が始まると非可算 無限個のいろいろな事が突然洪水のように押し寄せ、頭の中が玩具箱をひっく り返したような状態になる。

こういうあれやこれやの海であっぷあっぷしている間に一生が終わって しまい、死ぬ前に「さて私は何をやってたのでしょう?」ってことに なってしまうのかな。

こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ(啄木)

午前中は自宅。午後は文房具などを買いに京都駅近辺へ。ついでにホテル 京阪のラウンジで集中講義の準備を少ししてすごし、帰宅してちょっとした書類作り などの雑用。さらに逃避行動として少しだけドイツ語の予習。夕食後は久しぶりに スポーツ・クラブへ。