2003年3月31日(月)
<<口から出任せ、こけ徳利>>
今日も出勤。細々とした仕事に取り組む。調べものをしていた合衆国とカナダ のWebサーバが途中から繋がらなくなったので嫌気がさし、夕方の早い時間に帰 宅。戦争の影響かしら。そういえば、今日は珍しく”常に美しい生き方を心掛 けている”Kaz先生が大学に来ていて上機嫌だったな。何故上機嫌だったのか は謎。

Kaz先生といえば、卒業証書授与式における「各先生からも一言づつ挨拶を」 という”悪しき風習”の創始者である。このいきさつについて私は次のように 理解している。

一般に数学者は数学的真実を後ろ盾にして話している限り勇気百倍・自信 満々である。このとき、今自分が語っている真実の偉さを自分自身の偉さだと 勘違いして、必要以上に居丈高な態度を取る人も時々いるけれど、これはいた だけない。『微笑みをもって真実を語れ』と言うではないか。

しかしながら卒業式で学生に挨拶するとなると、今度は自分自身を後ろ盾 にして何かを話さなければならない。頼れるものは自分だけで、数学的真実の 出る幕ではないのだ。これは多くの数学者の不得意とするところなのではなか ろうか。何ってたって「専門外」である。

自分は何か変な事、間違った事を喋ってないだろうか。こんな事を得意そ うに喋って、他の人からは滑稽に見えないだろうか。今喋っていることは人に 偉そうに言えるような代物なのだろうか。大体自分のような人間が人様にモノ 申す資格があるのか。こういった不安に押し潰されそうになっているためか 数学を語る時の威勢の良さは何処へやらとなる。

数学ならばそういう不安も心配も無い。内容の正当性は論理的に確認すれ ばよく、それは自分自身で自信を持って行える。プロの数学者というのはそう いうトレーニングを受けた者を指すのだ。そして数学的真実は常に人前で胸を 張って話すに値する。何も心配することは無い。

かくして人間に対して謙虚な多くの(「全て」とは言わない)数学者たちは、 学生達の前で先生ぶって偉そうに挨拶をするのを嫌う。では”悪しき風習”の 創始という一見全くKaz先生らしくない行為はどう説明すれば良いのか。

私はこれこそまさにKaz先生らしい奥ゆかしさに溢れた話ではないかと考え ている。すなわちKaz先生は、教室主任(当時)として卒業式で何か挨拶しな ければならぬと馴れない事をやったばかりに、一時的に心のバランスを失って しまったのである。ああ、自分は何て自分らしからぬことをやってしまったの だろう。汚れちまった自分をどうすればいいのだ、と。人間誰だってこういう 気分になる事はある。と、ふと見ると教室の後ろに他の先生達がずらりと並ん で高見の見物を決め込んでいる。そこで心のバランスを取り戻すために、藁を も掴む気持ちで他の先生達を”道連れ”にしたのだ。

言うまでもないが、以上は全て単なる私の想像、推測である。お前は単に Kaz先生をネタに美しい物語を作りたいだけではないか?と言われれば「はい。 そうです」と答えるより他にない。しかし、私はこの物語に深いリアリティー を感じるのだ。

ところで私はどうなのか。実のところ、私は心の汚れたすれっからしであ る。学生の前で偉そうに挨拶するのは得意中の得意科目。座右の銘は「口から 出任せ、こけ徳利」である。俺は今テキトーなコトをいい加減に、さりとてもっ ともらしい顔をして喋ってるんだから、君達は俺を言うことを真に受けちゃい かんぞ。世の中法螺吹きは一杯居るんだから、俺様の挨拶はいい練習になるだ ろう。有り難く思え、ぐらいの気分で得々と喋る。

では昔から私は”心の汚れたすれっからし”なのかというと、そうではな い。もし私が、若くして計算機などという「できるだけ大きな法螺を吹いた 者が勝ち」みたいな下品な世界に身を投じること無く、 数学者としての一本の道を順調に今日まで歩んで来れた人間ならば、まさに上 記”美しい物語”で描かれたKaz先生と同じようになっていただろうと思う。 そう、上記物語での”Kaz先生”はまさに別の人生を歩んでいた場合の私その もののように思えるのだ。

2003年3月30日(日)
<<青い鳥症候群と逃亡者人生>>
昼過ぎまで睡眠や野暮用など。夕方は山科駅前SBUXにて。夜、春休み中に仕上 げようと思っていた、ささやかな論文を脱稿。書き終えた満足感よりも、ああ これでこの問題からはとりあえず離れられるという開放感の方が大きい。

そういえば、純粋数学に転向してからはいつもそんな感じである。どうに も満足な結果が得られずにのたうち回り、やっとの思いでささやかな論文をでっ ち上げ「こんなに思うように進まないテーマはやめてしまって、新天地を切り 開こう」と別の問題を探す。そんな事ばかりやってきたような気がする。一種 の青い鳥症候群である。一貫して同じような問題を追求している人達って偉い よなーと思う。それは執念深く一つの問題を追求し続けられる 精神力の強さが偉いという意味もあるし、腰を据えて長い年月取り組める「汲めども尽きぬ発 見の泉」のようなテーマを見出した眼力やセンスが偉いという意味もある。

青い鳥症候群とは少し違うのかも知れないが、私のこれまでの人生も似た ようなところがある。京大数学科でヤバくなったので計算機メーカーに逃れ、 計算機メーカーでヤバくなったので国立研究所に逃れ、国立研究所でも少し旗 色が悪くなってきて計算機メーカーに出戻り、そこですぐにまたヤバくなって 立命館の情報に逃れ、立命の情報でヤバくなったから立命の数理に逃れる。あ あ、こうやって振り返ると私の人生って「好き勝手やってヤバくなり、やりっ 放しでズラかる」という逃亡者人生だったのねと気付く。このまま人生やりっ 放しで逃げ切りたいという欲望もあるのだけど、もうそろそろ逃げ場が無くなっ てきたので腹をくくらねばいかんなという気分も確かにある。

2003年3月29日(土)
<<過疎地の小学校>>
ゲーテの新しいクラスが始まった。全部で15、6人のクラスと初級クラス並みの 大所帯である。中級クラスは全部で6段階あるのだが、どうも土曜日の中級 クラス希望者を全部一つのクラスにまとめたようだ。 これは、過疎地の小学校などで、在校生が各学年それぞれ0〜3名づつ位しか居ないので、 全員が一つのクラスで和気藹々と勉強しているというのに似たような感じである。

今度のクラスには、 時々ドイツの支社に出張するためドイツ語を勉強しているという、ガンバ大阪 の熱狂的サポータを自認する松下電器の巨漢社員、 ベルリン在住だが夫の都合のためか3ヶ月だけ日本に帰ってきて、3ヶ月は 自分にとってドイツ語を忘れてしまうに十分長い時間なのでゲーテに通う ことにしたという主婦、 少なくとも子供の頃は画家志望だったという立命館大学文学部哲学科の4回生、 子供の頃は数学者になりたかったという技術系の会社員、 そして子供の頃は天馬博士のような偉大な科学者になって、鉄腕アトムや エイトマンや鉄人28号を開発したいと思いつつ結局数学者になってしまった 不肖私め(以上、ドイツ語による各自の自己紹介からの抜粋) 等々。何だか皆さんそれぞれ自分の物語を抱えてゲーテにやってきた という感じ。立命館の経済学部の先生でやはりゲーテに通っている人が居て、 今度の中級クラス大合併で一緒のクラスになれるかと期待してたのだが、 どうやら彼は上級クラスに進んだようだ。

夕食後はラクト・スポーツクラブ。

2003年3月28日(金)
<<面が割れる>>
今日も午前中は山科駅前SBUXにて、実力以上の上級クラスに飛び級させられて 今やあっぷあっぷ状態のドイツ語の予習に励む。こう毎日のようにSBUXに入り 浸っていると、時間帯によって目まぐるしく交替している店員さん達にも面が 割れているらしく、今日はある店員さんから「タゾ・ゼンがお好きのようです ね。いつも紅茶か緑茶を飲んでられますから」なんて言われてしまい、少々驚 いた。

例によって午後から出勤し、春休み最後の追い込み。3月中に仕上げたい と思っていた仕事はようやく目処が立ったようである。4月からは色々勉強し てみようと思っている事があって、それ用のノートも用意して気分を盛り上げて みたのだけど、新学期が始まったらそんな暢気な事は言ってられないかもね。

2003年3月27日(木)
<<追い込み>>
午前中は山科駅前SBUXにてドイツ語の予習。この土曜日からゲーテで新しいコー スを受講するのである。私が最初申し込んだクラスに受講生が集まらなかった との理由で、何故か2つ上級のクラスに放り込まれることになったので大変で ある。

その後出勤。4月になったらまとまった時間が取れなくなるので、春休み 最後の追い込み。

夕方頃は珍しく自家養成サクラI君が院生室に来ていたので、4月からのゼ ミの日程を決めたり就職活動の事などを中心にしばし雑談したり。東京出張し た時に一緒に飲んだ計算機メーカの友人達や就職活動をしている学生の話を聞 いていると、やはり日本の職場は大変な事になっているのだなと感じる。一番 まずいのは働く人達の志気がガタガタになってきている事で、この不況をたと え乗り切ったとしても、もう後戻りができない程取り返しのつかない事が進行 しているのではないかしら。

立命館の数学教室でも「人は減るわ仕事は増えるわ」式のリストラは進行 しているんだけど、まだ我々数学者が結構好き勝手な事を言っていられるのだか ら最悪の状態にまでは至っていないと思う。

2003年3月26日(水)
<<希望の街>>
22日の卒業証書授与式で卒業生を見回したところ、見た覚えのある顔が15 %ぐらいしか無い(演習を担当したことがある昨年度の卒業生は60%を超え ていたような気がする)。夢見るH先生は10%だそうだから私の方が5%勝っ たね、などという不毛な自慢話をしつつも内心「知らない学生ばっかりで、ど うしたものか」と思いながら謝恩会へ。しかし謝恩会では数名の学生達と新た に顔見知りになった。これで顔見知り率は一気に23%ぐらいにはね上がった。 でも顔見知りになったその日にサヨナラしたわけだけど。

その翌日から今日まで、東大駒場で開かれた日本数学会に行って来た。今回は長年に わたって世界の可換論研究をリードして来た、渡辺敬一氏の代数学賞受賞式と記念講演 があった。やはり可換環論の人から受賞者が出ることは、受賞者個人のみならず可換環論 という分野自体が認められたような気分になって、私も嬉しい。

東大での講演の合間に、暇そうにしていた学生時代の友人を吉祥寺に引っ 張り出す。吉祥寺は会社員時代のお気に入りの街で、久しぶりにジャズ喫茶 Sometimeにでも行ってみようと思ったのだが、もう15年ぐらい来てないので 場所を忘れてしまった。しょうがないので、小雨のそぼ降る井の頭公園の池の 周りをぐるぐる回りながら数学などの議論をする。立命館に居ると現代数学は 確率論と(数論幾何学以外の)整数論と作用素環論を中心に動いているような気 になってくると言うと、友人に「それはいびつな世界観だな」と言われてしまっ た。

それ以外では、計算機屋時代の仲間数人と飲む。

ところで、東京出張時はいつもJR水道橋駅の近くのホテルを常宿としてい るのだが、今回はJR目黒駅近くに泊まった。目黒は思い出の地である。ここに は私がかつて勤めていた電気メーカの研修センターがあり、新入社員時代には よく通った。さらに、まだ学生の就職活動が牧歌的だった時代に、その会社に 会社訪問(現在では「セミナー」とでも呼ぶのであろうか)した際、目黒の研 修センターに泊めてもらった。そしてその時、京都とは全く違う東京の街の雰 囲気に触れ、自分は京都で人生につまづいてしまったけれど、この活気に溢れ た街ならば新しい人生をやり直せるかも知れないと希望が涌いてくるのを感じ たものである。

もっとも、それから約10年後に京都に戻ってきて、自分は東京で人生に 行き詰まってしまったけれど、この落ち着いた街ならば新しい人生をやり直せ るかも知れないと希望が涌いてくるのを感じたのだから、やってる事があんま り進歩してないような気もする。(私は死ぬまでにあと何回人生をやり直すこ とになるのだろうか)

あれから20年、長引く不況でその会社も厳しい状況にあるらしく、目黒の研修センターは 今月一杯で売却されるそうである。ホテルのすぐ近くなので、東大に通う途中で ちょっと寄ってみたら、もう看板も外されもぬけの殻状態で閉鎖されていた。

2003年3月22日(土)
<<自己開放運動>>
卒業式である。私は年に2回スーツを着る。それは入学式と卒業式の時である。 昼頃は学部の夕方頃は大学院の卒業証書授与式。その間をぬってやり残してい た計算を終了させる。夜は京都駅前で行われた謝恩会に出席。

卒業証書授与式での某先生の挨拶の中で、ある昔の卒業生が「自分は学生 時代ほとんど勉強しなかったけれど、卒業後何年かして、数学科というのは在 籍しているだけで意味があることがわかった」としみじみと語ったというエピ ソードが紹介され、私はいたく感じ入った。数学科の目的は、こういう卒業生 を沢山世に送り出して、世の中を良くすることであると思う。こういうことは 数学者たちが、日々守るべきものを頑として守り続けているからこそ可能なのであ ろう。世の中の動きに追従して得意になっているだけの学科では、こうい う事はあり得ない。

ところで、私は大体次のような内容の挨拶をした。

私は会社員を9年間やっていたが、ここにおられる数学者の先生達のような人 間は一人も居なかった。今、会社員時代を振り返るに、数学者というのは全く 好き放題の人生を送っていて、世の中と人生をナメ切っているように思うこと しばしばである。こんな我儘ばっかり言って今日までのうのうと生きて来れる のだからいい気なもんである。しかし、数学者は世の中の多くの人々が当然の 事として知らず知らずのうちにとわわれている考え方からは自由なのである。 勿論、その一方で数学者達は、世の多くの人には思いもよらない事にとらわれ て生きているのだが。

さて、皆さんはこれから社会に出て行って色々な所で 生きていかれるのだと思う。そしてそこでは、知らず知らずのうちに当然と思わ れている事があって、皆さんもそれを何となく受け入れてしまうかも知れない。 しかし、そこで我々教員の事を思い出して欲しい。あの先生が今自分と同じ世 界に居たらとんでも無く浮いてしまう「こまったチャン」になっているだろう な。そう思うに違いない。そしてその時こそ、自分の今居る世界で当然と思わ れている事を相対化して眺めるチャンスだと考えて欲しい。そして何が正しい か、何が当り前で、何が当り前で無いのか、を自分の頭で考えていく「とらわ れない」生き方をして行って欲しい。

元会社員の私からすれば、数学者というのは若い時から数学さえちゃんと やってれば後は五月蝿い事も言われずに野放しにされてきた人間のように見え る。そんな調子で生きていくことが許されるんだったら、私だってやりたい放 題やってやろうじゃないかという気分で、実は今私は「自己開放運動」をやっ ているのである。挨拶の前半部分はそういう背景から出て来た言葉で、後半の まとめは苦しまぎれにアドリブででっち上げたものである。

ところで、卒業証書授与式における「各先生からの挨拶」などという工学 部みたいな風習は、Kaz先生が教室主任の時に、その場の勢いで突発的に始め てしまった悪しき風習であるとされている。確かKaz先生が主任として挨拶し た後、「では、各先生の方からも一言挨拶を」と促していた記憶がある。とこ ろが、翌年Kaz先生は主任を退き、次の主任から「各先生からの挨拶をひとこ と」と言われた時に、純粋数学者としての美しい人生に傷がつく等の理由(?) からか挨拶を断固拒否。翌々年である今年、Kaz先生は授与式に欠席したのだ が、それは挨拶をせよと言われるのを嫌がってのことであると推測されている。 もしそうであるならば、彼は自分の蒔いた種に苦しめられるというパターンに 陥ってしまっているのである。

以上の状況を鑑みるに、このような悪習は親和会に断固として出席を拒否 する我ら数学者の気質に合わないものとして、今後は廃止にしようという事が 決まったようだ。そしてこれが廃止されるのは、Kaz先生にとっても本望であ ろうと思われる。

明日から数学会のため東京出張。次回更新は27日以降になります。

2003年3月21日(金)
<<ブルバキイズム>>
祭日は全て月曜日に国家統制されたのかと思っていたのだが、今日は金曜日な のに祭日で、しかも祭日キラーの我ら立命館も休日である。こういうおめでた い日は、日曜日気分でゆっくり起きて、しばし野暮用の後、アリー・マイラ ブ5の録画を見て、それからスポーツ・クラブという過ごし方がよろしい。 スポーツ・クラブの後、久ぶりに山科駅前SBUXへ。

「ブルバキ、数学者達の秘密結社」(M. マシャル)を読んでいると、私の純 粋数学至上主義はまさにブルバキのそれであることが分かる。そういえば、私 の学生時代はまだブルバキイズムが健在で、私は何の疑いも無くそういう空気 を吸って育ったわけである。

当時の京大数学教室では、確かに数学基礎論や応用数学は蔑視されていた し、確率論は学生の間では人気は無かったし、物理専攻希望から転じて数学に 入ってきた学生を除いて物理学への関心は低かったように思う。これらはみん なブルバキの思想と同じなんだな。

数学の風景は、あの頃と比べてずいぶん変わったな。

2003年3月20日(木)
<<超お買い得>>
今日もまっすぐ大学に出勤。14時から夢見るNi先生の共同研究者であるK大 学M氏による特異点理論の講演。M氏の書いた本の内容が2時間でわかります! という超お買い得講演。昔から「あれは一体何なのか?」と疑問に思いつつも いざ勉強するとなるとどこから入ったら良いものかわからず面倒臭くなって 今日まで知らないままに放置していた、ディンキン図形とかルート系の事が何と なくわかって良かった。

その前後は昨日に引続き計算をしたりそれを見直したり。今日までにメドを つけようと思っていた計算だが、残念ながら終らず。

2003年3月19日(水)
<<風流な遊び>>
昨夜の親和会は南禅寺の近くの料亭で行われた。料理の方は刺身がうま かったのが印象に残ったが、あとはやけに小さな小鉢に入った、手ばかり込ん でいる上品過ぎる料理をガリバーになったような気分で突っついていた のだが、ガリバー高山の空腹はついぞ満たされる事無く、全体としては不満で あった。(おいしい)+(おなかいっぱい)=(幸せ)の法則というのが あって、どちらか一方でも欠けていれば決して幸福は得られないのである。

料理以外はどうかというと、これは数学教室の殆んどの同僚教員達と同様 に、社交家でも野心家でもない私にとっては「凍りつくような絶対零度の退屈」 との闘いなのである。ただ私は他の同僚達と違って、この闘いを楽しむという 風流な遊びができるのだ。今回はこの風流にさらに磨きがかかったような気が する。

以前は、親和会で展開する学内政治の現場を恐いもの見たさで見物すると いう楽しみ方をしていたのだが、これは所詮退屈しのぎでしかない。退屈を 「しのいで」いるようではまだダメで、真向から受けて立ってこそ本物である。 今回は座席の位置も関係してか学内政治の話は耳に入って来なかったのだが、 私は(空腹に耐えながら)ただひたすら退屈を楽しんでいたのである。次回の親 和会も断固出席するぞ!

本日も山科駅前SBUXには一瞥(いちべつ)も与えずに大学に出勤。 終日Macaulay2などを使って計算に励む。

2003年3月18日(火)
<<うまく行かなくて良かった!>>
朝5時頃にふと目が覚めて、結局朝まで眠れずに布団の中で色々考える。私は A. ワイルズさんじゃないし、新学期が始まってしまうとまとまった時間が取 れないと思うと、結構焦ってしまうのである。脳味噌の量は変わらないんだか ら、焦ったところでしょうがないんだけどね。

私としては早い時間に出勤。午前中にひと仕事してから午後は教 授会。夜は教授会の宴会(親和会)。

昨日帰り際のエレベータの中で、スーツを来た自家養成サクラI君とばった り会った。就職活動中らしいけど、職が決まるかどうか不安で不安でならない らしい。まあ、そりゃあ不安なのは他の人も同じだろうけど、君はちょっと動 揺し過ぎじゃないか。自分を見失ってしまったら出る結果も出なくなるよ、と 注意しておく。実はこれは、やはり進路問題でバタバタ動揺してしまって (それまで怠けていたことも災いして)「何 もかもうまく行かなかった」20年前の自分に対する忠告でもある。 (今更忠告しても遅いんだけどね)

ただ面白いことに、当時は進路について「何もかもうまく行かなかった」 としょげ返っていたのだけど、20年後の今振り返ってみると、それが「まず い方向にそれと気づかずに行ってしまうのを何度も奇跡的に逃れてたどりつい たベストの結果」だったとわかる。まさに、「うまく行かなくて良かった!」 というやつである。

人生何が良いのか悪いのかわかったものではない。だから、何かがうまく 行かなかったとしても、しょげ返るのは「そこそこ」にしておけば十分なのだ ろうと思う。

2003年3月17日(月)
<<いじり回す>>
山科駅前SBUXには見向きもせず、朝から出勤。終日Macaulay2を使ったりして 具体例の計算に励む。具体例を徹底的に調べることによって普遍的な原理(定 理)を見付けるというのは数学研究の常套手段だと思うが、私はこの1年ぐらいの 間たった2つの具体例を飽きる事もなくいじり回している。

プログラム理論の世界には「実現可能性解釈の健全性定理(soundness theorem of realizability interpretation)」というのがあって、計算機屋時 代はその定理を拡張するという仕事を何年間かやっていた。その頃は、小さな プログラムの具体例(をある種の数式に書き換えたもの)を注意深く選び出して、 ああでもないこうでもないと何か月もいじり回していたものである。そして最 近ふと気づいたのだが、形だけ見れば今でもやっている事はほとんど同じなの だ。

2003年3月16日(日)
<<圧倒される>>
本日のんびりと過ごす。朝はゆっくり起き、午後はまずアリー・マイ・ラブ5 の録画を一つ見てスポーツ・クラブへ。夕食後は昨日買ったホロヴィッツを聞 きながら「天上の歌」を読了。

岡潔が30代後半に講義の義務が研究の邪魔になるという理由で広島大 学をやめて、その後10年ぐらいの間郷里の和歌山で田畑を売ったり芋を作っ たりして「自活生活」を送りながら研究を続けたという有名な話は、学生時代か ら知っていた。その時は「ふーん。かっこええなー」ぐらいしか思ってなかっ た。

ところが私自身が大学教員になって、押し寄せる講義や会議や巨大雑用の 波に研究時間をズタズタに寸断される中で、自由な研究時間を如何に確保するか という問題と闘う日々を送るようになった。今、改めてこの話を思い起こすと、 「(岡潔が)よくそこまでできたなあ」とその凄さに圧倒されてしまう。あのガ ウスですら、ブツクサ言いながらも大学やめなかったのにね。