2003年8月13日(水)
<<様子見>>
本日午後は何となく様子見出勤。冷房のきいた研究室でモノグラフ読みなど。 ゴースト・タウンと化しているキャンパスだが、最近やけに流行っている、く ねくね踊るサークルの連中だけが数名大学に来ていて、建物のガラス窓を鏡代 わりにしてくねくね踊っていた。

明日からしばらく京都を離れるので、次回の更新は来週以降。

2003年8月12日(火)
<<そんなもんかね>>
カンカン照りがなつかしい曇りがちの日。午前、午後と自転車に乗って山科の 街を野暮用に駆け回り、その合間に独作文など。夕方、少しモノグラフを読ん で、夜は高校、大学時代の友人で、京都市内某高校英語教師のPちゃんと三条 界隈で飲む。

フランス語の達人であるPちゃん曰く、フランス語の動詞の不規則活用の 多さなんて大した事ではない。問題は、一つの単語に沢山の意味があり、文脈 によってどの意味かを考えなければならないことだ、とのこと(だとすれば、 哲学書なんて読むのは大変だろうな)。不規則活用で倒れた私としては、「そ んなもんかね」としか答えようがない。さらに、ドイツ語はとっつきは難しそ うに見えるがフランス語に比べればやさしく、誰がやってもフランス語よりも 上達は早いはずだとのこと。ドイツ語の上達も遅々としている私としては、や はり「そんなもんかね」としか答えようがないけどね。

ところで、私は暗記が大の苦手である。学生時代は仕方なく色々覚えよう としたが、今は何かを覚えることは鼻っから諦めている。学生の名前なども、 聞いても覚えられないし、すぐに忘れるから始めっから聞かないことにしてい る。”巨漢社員”だの”清少納言”だの”謎の音大主婦”といったニックネー ムを使うのも、単に匿名にするためだけではなく、元々彼ら(彼女ら)の名前 を知らないし、覚えられないし、従って始めから名前を聞いてもいないからで ある。「座敷童のS太郎」の本名なんてのも、一年の半分以上は忘れている。 しかし自分で命名したニックネームは案外忘れないものだ。

こんな調子だから、フランス語やドイツ語の動詞だの形容詞だの活用形だ の語尾変化だのなんて、全然覚えようとしない。

2003年8月11日(月)
<<偵察>>
天気がゆっくり下り坂なのか、少し曇りがちの夏の日。独作文少々。「宿題」 いじりまわすも目だった進展なし。「クイック・マニュアル」はモノグラフ読 みに終始。夕方頃から三条方面に出かけ、川原町通りや木屋町通りを四条あた りまで偵察。途中寺町通り平野屋改めSBUXにて、オレンジジュースを飲ん で休憩。今日は琵琶湖花火があるらしく、帰りの地下鉄は満員状態。

2003年8月10日(日)
<<黙っている方が良い>>
台風一過のカンカン照りである。昼頃まで熟睡。その後少し野暮用。独作文 少々。「宿題」あまり進まず。「クイック・マニュアル」お休み。夜自転車で 近所をツーリング。

自分の研究分野を素人に一言で説明するなんて不可能だと思ってたが、 「整数同士で、足し算、引き算、掛け算を行っても答えは必ず整数になる。こ れと同じ性質をもつ世界がこの宇宙にどれだけ存在するか。そして、それぞれ の世界がどれだけの神秘と奥行きを持っているかを探求してます」と答えれば 良いことに気づいた。でも、「足し算、引き算、掛け算かよ?小学生でもわか るじゃん。そんなもんに神秘だの奥行きだのがあるんかよ?」と馬鹿にされて しまいそうなので、普段は黙っている方が良いかも知れない。

整数論だと、「宇宙の誕生の前から存在する素数の神秘!」だの「フェル マー大予想解決のドラマ」だの、(うんとおゲレツになって)暗号・符号理論 だのと、殺し文句の決め玉に事欠かないようだけど、可換環論はそういうのが 無いので、いまひとつアピールする力に弱いように思える。

2003年8月9日(土)
<<数学者という蛮族がいる>>
昼過ぎまで台風の影響で雨になったり曇ったり。今日から一週間、大学は一斉 休暇に入る。

夕方頃、天気が良くなってきたので自転車で琵琶湖疎水のあたりをツーリ ングし、夜はスポーツ・クラブでへとへとになる。それ以外は、ほとんど自宅 ですごす。独作文、「クイック・マニュアル」、「宿題」メモの整理など。

私の同僚たちは「全国の数学者が見ている。そんな格好の悪い事をしては 何を言われるかわからない」というような事を良く言う。数学者のくせに世間 体など気にしてどうするんだと思うのだが、数学者が世間体を気にしてはいけ ないという決まりはない。(この場合の「世間」とは、もちろん数学者社会を 意味する。) むしろ数学者というのは、他人からの評価にはことさら神経と 研ぎすます人種なのかも知れない。

ただ、人によって気にする評価に多少違いがあると思われる。自分の研究 者としての評価を気にするというのは、ほとんど全ての数学者に共通すると思 われる。しかし、講義とか入試の出題とか、研究とは直接関係ない数学教師と しての活動については、考え方が分かれるようだ。つまり、変な講義や入試の 出題をしては自分の研究者としての(輝かしい)評価に傷がつくと考える人と、 そんな事はどうでも良いではないかと考える人、という違いがあるようだ。 「全国の数学者が見ている...」と言う私の同僚たちは明らかの前者のタイプ で、「皆さん、真面目なんだな」とつくずく思う不真面目な私である。

ところで、何を隠そう、私には世間体を気にするという神経が存在しない。 しかし研究者としての評価だけは多少は気にしないといけないのである。これ は多くの(?)学生達が、成績などはあまり気にしないが、単位数が卒業でき るすれすれのレベルを超えそうかどうかだけは常に気を配っているのと似てい る。つまり、数学者として適当にアホだとかへぼだと虫ケラのようなものだと か思われている分には別に構わないのだが、ある一線を超えたドアホだと判定 されてしまうと、後々仕事がしにくくなりそうだから、そういう事が無いよう に気をつけている、という意味である。

猿の集団には厳しい階級ががあるらしい。人間社会にも色々階級があるが、 それをオブラートに包むところが洗練された知恵というものであり、霊長類の トップを自認するだけのことはあるのだと思う。その意味ではエライ、エラく 無いの階級が露骨に出てしまう数学者社会というのは、危うい。つまり、野蛮 な世界になってしまう恐れがあるというわけだ。

幸い私が大学卒業後に出会った数学者達は皆「あ、こいつアホだな」と思 いながらも、アホなりに普通に相手してくれる。「あなたはアホですね」「は い、私はアホです」と合意形成が成された世界は、一般的に言って平和なはず である。そこに人類の知恵が光っている。しかし、数学者の中には相手が自分 よりアホだと分かると、途端に尊大な態度に出る者も居るらしい。 これは、ジーゲルの手記なんかにもそういう事がブツクサ書いてあるらしいから、 洋の東西を問わず広く数学者の社会に見られる現象と思われる。

数学者社会の中で、ある一線を超えたドアホと判定されてしまうと、この 手の蛮族に出会ってしまう確率が一気に高まり、「腹が立って後で勉強できな くなる」状態になるのが怖い。本来楽しく数学がやれたはずの時間を、藁人形 に釘を打つことに費やしなければならないというのは、とても不幸な事である。

だから、心豊かに数学を続けていくためには、アホの一線を超えないよう に日々色々な面での研鑽を怠らず、さらに蛮族系の数学者にはできるだけ近寄 らないようにするという努力も大切であると思う。

2003年8月8日(金)
<<暴走シナリオ(第1版)完成>>
台風である。帰りには暴風雨警報が出て帰れなくなるかもと恐れながら、某作 業委員会のため昼過ぎに出勤。何とも間の悪い会議である。会議の直前までせっ せと作業をして「暴走シナリオ(第1版)」完成!AMS-LaTeXで33ページ。 あとは、9月の開講までの暇々に校正をして行けばよかろう。

「暴走シナリオ」は、ホモロジー代数、極小自由分解、アルティン環とア ルティン加群、ヒルベルト多項式とヒルベルト級数と進み、ヒルベルト級数に ついてのマコーレの定理、そしてグレブナ基底(ブーフバーーガ・アルゴリズ ムではない)について少しコメントして終わるといった内容。ごく一部を除い て全て証明をつけるという良心的方針だが、ネータ環、素イデアル、極大イデ アル、(アーベル)群とその商群、(アーベル)群の組成列などは、「学部で 習ったはず」として説明抜きで縦横矛盾に使おうとしているところが暴走の暴 走たる由縁。

夜は「クイック・マニュアル」でも作ろうかと、ぶ厚いモノグラフを読み はじめる。

2003年8月7日(木)
<<腰が引ける>>
午前中はカンカン照りの盛夏。台風の影響なのか、やや曇りがちになってきた 昼頃より、何となく出勤。基礎となる論文を解読しながら、「宿題」を考える。 筋は良さそうに思えるが、必須の基礎論文はどれも分厚く、さらに見通しのつ けにくい猛烈な計算の洪水状態。これは前途多難そうだなと、ちょっと腰が引 けてしまう。

そういえば、4月から6月中旬までにMathSciNetで検索したりしながら行っ ていた作業が中断されっ放しだったことを思い出す。腰が引けた機会に、その 作業も再開。

2003年8月6日(水)
<<深みが無い>>
教師の夏休みらしく、自宅研修日。夕方頃まで暴走準備など。その後散歩がて らに久々の山科駅前SBUX。昔書いた論文を眺めなおしたり、作戦を練った り。山科ラクトの中古CD屋でセコビア(Andres Segovia)のCDを買って帰 り、夜は再び暴走の準備。

暴走内容は、極小自由分解とヒルベルト多項式の話。Bruns & Herzog の教 科書ではほんの数ページの内容なのだが、加群、テンソル積、ホモロジー代数、 Krull次元、アルティン環などの予備知識まで範囲に含めると、結構な分量に なる。普段何気なく使っている理論だけど、こうやって眺めてみると結構な高 みと言うか、深い理論なんだなと改めて認識する。

小学生時代にちょっとだけクラシック・ギターを習っていた。自宅の物置 に何故か古い(たぶん安物の)クラシック・ギターが転がっていて、たまたま 家の隣がヤマハの音楽教室だったからである。私は小学校一年生の6月頃には 既に音楽の授業に落ちこぼれており、楽譜が読めない(音符文盲)。にもかか わらず、せっせとカルカッシー・ギター教則本とかいうのを練習していた。ト レモロがどうしてもうまく弾けず、「アルハンブラの思い出」を練習している 間に嫌になってやめてしまった。

その頃誰が言ってたのか、セコビアは偉い、12本弦ギターなどで奇をて らっているナンシーソ・イエペスなんてメじゃない、なんて事が何となく子供 の私の耳目に入って来ていた。それから30年以上経って初めてこれがセコビ アかと思って聞いたのだけど、イエペスよりも音に深みがあると言われればそ うなのかも知れないが、何か情緒的過ぎるというか、ちょっと古臭い感じ。

ところで、Amazonの私の著書のところに、初めて読者レビューが載った。 曰く「おもしろいが、深みが無い。お勧め度☆☆★★★」。うーむ、深みを求 められても困るんだけどな。

2003年8月5日(火)
<<脳死>>
本日午前中より何となく出勤。夏休みは大学が静かで、普段は雑用部屋のよう になっている研究室が、文字通り研究室として使える。 静かなことは良いことである。

本学のスローガンである「ダイナミック・アカデミック」というのは、要 するに「ザワザワしていて落ち着かない」という事を意味する。大学氷河期に のんびりしてたら凍死してしまうのかも知れないが、「ダイナミック・アカデ ミック」だけでは大学は脳死してしまう。

2003年8月4日(月)
<<わけのわからない人たち>>
教師の夏休みらしく自宅待機の日。週末締め切りの校務を思い出し、午前中か ら昼すぎにかけて片付ける。その後夕方から野暮用にて外出。夜は「暴走の準 備」など。

「暴走」予定の内容については、何もかもぜーんぶわかっちゃてるつもり でいたけれど、案外そうでもない。講義するつもりできちんと見てみると、あ やふやなままになってて、そういえば研究の過程でもこういうところで足をす くわれそうになった事があったな、というような事もちらほら。今頃そんな 事言ってるようじゃ、いけませんねえ(と夢見るH先生風につぶやいてみる)。

ところで、ふと高校1年生の時の級友F君の事を思い出した。彼は入学し て最初の数学の授業で、教科書と学習参考書(確か旺文社の研究数学I)の該 当ページと真新しいノートを広げ、準備完了これでよし!という表情を一瞬し たかと思うと、居眠り体制を整えてすやすやと眠り込んでしまった。それを見 た私は、「おお!こいつは天才に違いない!」と色めき立ったのであった。

私は数学の授業で居眠りする人間を天才だと勘違いする癖がある。これは 高校時代から今まで一貫していて、なかなか直らない。F君は数学に限らずど の科目でもこんな調子で、間もなく「零点王」の確固たる地位を確立し、さり とて特に慌てる風でもなく高校3年間毎日きちんと学校に通っては居眠りして 過ごした。F君が何を考えて生きていたのかは知らない。

F君の脈絡の無い居眠りは、この1,2年よく目にするようになってきた居 眠り学生達に通じるものがある。居眠り学生より以前は、私語学生に閉口した。私 の小学生時代の自習時間ってこんな感じだったよなあ。でも授業中に大騒ぎす る小学生ってあの頃は居なかったけど。では、今講義中に騒いでいるこの人た ちは一体何なんだろう、と思ったものである。

彼らが一体何を考えているのか知らない。私はあの、世にも奇妙な(と私の 目には映るのだけど)情報学科で何年か仕事をしてきたから、世の中には理解 不能な人たちが沢山いることを知っている。だから、学生達が何を考えている のか、別に知りたいとも思わないし、わかるとも思ってない。

ただ、少しばかり教師を続けていると次から次とわけのわからない人たち が現れては消えていくんだな、という感触は持っている。今後どんな「わけの わからない人たち」が教室に押し寄せるようになるんだろうか、ちょっと楽し みだな。

2003年8月3日(日)
<<煙に巻く>>
朝はゆっくりめに起き、午前中は「暴走の準備」を少し。

午後は営業関連業務のため、水と食料を持って出勤。今年はやけに営業の 仕事が多い。今日はオープン・キャンパスとやらで、夕方から数学の模擬授業 をせよとのこと。高校生向けの公開授業をやるのは初めてで、何を喋ればよい か皆目見当がつかない。しょうがないので、離散数学の講義からの話題として、 分割数問題と母関数の話をして10名程度の寂しげな聴衆を煙に巻く作戦に出た。 寂しげな私の講義をよそに、オープン・キャンパス全体としては予想を上回る 満員御礼状態だったらしい。めでたいことである。

模擬授業の前後はちょっと面白い計算などをやって過ごす。

2003年8月2日(土)
<<特権>>
自宅待機とスポーツ・クラブの一日。

昨夜、関西学院大生の放火事件のニュースをやっていたが、あれはどうも おかしい。まず、「就職が決まらず『むしゃくしゃして』やった」という「本 人の供述」。今時「むしゃくしゃして」なんて言葉を使うのは、こういうニュー スの時ぐらいではなかろうか。特に大学4回生ぐらいの若い人がこういう言葉 を実際に喋ったとは思えない。まあ、警察かマスコミを介するうちに紋切り型 の定型文に翻訳されてしまったのだろう。

同じようなマスコミ特有の紋切り口調として「勇壮な」という単語がある。 テレビのニュースでどこかの祭りについて報じるとき、必ずこの形容詞が使わ れる。どの地方のどんな祭りでも全国一律判で押したように「勇壮な」なので ある。全国のアナウンサーは祭りを必ず「勇壮な」と形容して話すように教育 されていて、その教えを堅く守り続けているのであろう。この言葉も、テレビ・ ニュース以外で聞くことは滅多にない。あとは「ちびっ子」。これは35年ぐ らい前は割合日常的に使われていた言葉だが、今この言葉を使うのは行政機関 とマスコミだけだと思う。

そういう言葉の問題よりももっとおかしいと思うのは、関西学院大の学長 と副学長が、うちの学生の教育が足りなかった、申し訳ないと広島まで謝罪し に行っていることだ。「大学としてはこういう行為は断じて認められないし、 まことに遺憾なことである。当該学生には厳しい処分も含めた対応を検討する とともに、犯罪行為は許さないという大学の姿勢を一層明確に学生達に示して ゆくことにより、今後このような事が起こらないように努めたい」というよう な声明を出すのならまだ良い。しかし、今回の「謝罪」というのは、上のよう な声明の域をうんとはみ出しているように思う。

第一に、大学生が犯罪を犯す度に大学のトップが謝罪に駆け回らなければ ならないのか、という問題がある。問題の学生が犯したのは、状況から考えて 放火罪ではなく、より軽微とされる器物損壊罪であろう。素人考えではあるが、 それと同格ぐらいの犯罪として例えば自転車泥棒が考えられるのではないだろ うか。学生が自転車泥棒をしても、大学トップが謝罪に駆け回るべきなのか?

自転車泥棒も窃盗罪という立派な犯罪行為である。私は自転車を盗まれた ことがあるので、その悔しさはよくわかる。それは、(こと自転車に関しては) 何の落ち度も無く暮らしていた私の生活感情が、突然泥靴で踏みにじられたよ うな悔しさである。安く買ったずいぶん古い自転車で大した手入れもしてなかっ たのだが、だからと言って盗むとは何事か。自転車でこれなのだから、例えば 肉親を殺された者の悔しさはいかばかりのものか、としみじみと思ったもので ある。

今度の放火事件は平和を願う多くの人々の気持ちを踏みにじったから特別 なのだ、と言うかも知れない。ならば、多くの人の気持ちを踏みにじるのはい けないけれど、一人の人間の心を踏みにじるぐらいは大したことではないとで も考えているのか。そんな理屈が通ってたまるものか、学生が自転車泥棒をし てもきっちり謝罪に来てもらおうじゃないか、ということになろう。これは変 な話である。

第二に、そもそも大学は学生の犯罪行為に対して逐一謝罪する「権利」が あるのか、という問題がある。例えば、ある大学の学生が私あるいは私の家族 に何らかの犯罪行為を行ったとして、その大学の学長だの副学長だのが謝罪に 来たとしよう。その犯罪行為が、大学内部やゼミ合宿やサークル活動や大学へ の登下校時といった、その大学の学生としての活動の中で行われたものならば 別として、明らかに大学側が関知しない状況で発生したものであるならば、私 は謝罪に来た大学関係者に次のような言葉を浴びせ、塩をまいて追い払うであ ろう。「これはあくまで私と犯罪を犯した成人として責任能力のある当該学生 との間の問題だ。関係無い人間がしゃしゃり出てくるな!あなた達はいつから この人物を、あなた方の大学に通っているというだけで、責任能力も無く精神 的成熟も遂げていない子供と決め付けた上で保護監督責任者面をし、教育の名 のもとにこの人物の人生と良心の問題に口出ししたり勝手に責任を共有したり する『特権』を与えられたのだ?」

上記2つの問題点から、関西学院大のトップの「謝罪」は大学のありかた の転換、あるいは既に転換しつつある事の顕在化を意味するような気がして、 私としては正直言って「えらいことをやらかしてくれたな」という気分なので ある。謝罪を受けた広島(市)の方も、「あなた達は関係ない」と塩でもまい て追い返してくれるかと思ったらそうでもなかったみたいだし、ちょっと拍子 抜け。

しかし今や「大学生は大人である」という概念は名実ともに風化の一途と たどっている。そして、単に学生時代に少しばかり勉強ができて、特定の専門 分野のことについては多少詳しいという事を除いては、全くその辺の人間と変 わらない私を含めた多くの大学教員が、教育の名の下に傲慢にも学生達に「人 の道」だの「命の尊さ」だの「生きる力」だのを説く、あるいは説く事を強要 される、そんな時代が真近に迫っているのかも知れない。つまり、大学はその 『特権』を着々と手に入れつつあるのかもしれない。

そして「人の道」などを声高に説くような「傲慢さ」に気恥ずかしさを感 じる我々の姿から、何かを学べるものなら学んでんで欲しい、ただし、学ぶか 学ばないかは学生自身が考えて決めることだという、”奥ゆかしい大学教育” の姿が過去のものになる日は近いのかもしれない。

でも、もう既にういう時代になってしまってるのかも知れないな。

2003年8月1日(金)
<<どうだ、わからんだろう!>>
8月になるとちょっとほっとした気分になる。学生達は今日から夏休みに入っ たので、あとは後期の講義準備の他には、会議だの営業関連業務だの院試だの 到達度試験だの前期卒業生修士論文公聴会だのといった、いくばくかの(と言 うにはいささか多い)雑用があるけれど、少しは心静かに研究できる... はずなんだけど。

ということで、本日昼前に出勤し、しばらく放置してあった問題をゆっく りと考え始める。

ところで、著書「バカの壁」が「ブレイクした」養老先生によると、今の 若い人は「ちゃんと言葉で説明してもらえれば何でもわかるはずだ」と勘違い してて、講義で何でもわからせてもらえるはずだと堅く信じているのだそうだ。 そこで、世の中にはどうしても理解できない事があるという事を教えるために、 講義では「どうだ、わからんだろう!(そんなに簡単にわかってたまるか)」と 得意気に挑発するのだそうである。

私も、大学院の講義では気兼ねなく暴走し、胸を張って「どうだ、わから んだろう!」と自慢しようと思う。私がかつて七転八倒してやっと理解した事 である。単位を揃えるためにさらっと聞いた講義だけでわかられてたまるもん か。