2003年9月30日(火)
<<良心的講義傾向>>
本日午前は、大学院の暴走講義第一回目。さあー思いっきり暴走してやるぞー! ふっふっふーと思って教室に行くと、眠り天才君が目をクリクリさせて座って いた。これで大分出鼻がくじかれる。それ以外は確率論や偏微分方程式をやっ ているような学生ばかり。こういう人たちに、学部の群論、環・体論は全て仮 定するなどという純然たる代数学の中級レベル講義をやってよいものだろうか (正解:良いのである!)、などと妙に良心の呵責の落とし穴にはまり、つい つい良心的講義傾向を強めてしまった。伝説の講義も厭わずという不退転の決 意で臨んだはずなのに、これはいかんな。次回から鬼になることを宣言して、 今日の講義を終える。

昼食は萩原朔太郎と同郷のK先生と一緒になる。

昼休み、院生I君が、修論の予定としているところまで勉強が進まなかっ たらどうしましょうか、などという事を聞いてくるので、「進まなかったら」 じゃなくって「進む」んです!と厳命しておく。何故ならば、既に夏休み中に に死んだつもりで勉強し、予定のところまで予習し終わっているはずなので、 この期に及んで「進まなかったら」などという仮定自体が存在し得ないからで ある。

午後は学部4回生の可換環論・代数幾何学入門講義。これは良心的講義傾 向の強い課目である。教室には卒研T君のお付きの者と可換環論自主ゼミのF 君の2名がおり、講義を理解できる人間が少なくとも2名は居るという事を心 の支えに淡々と進める。

2003年9月29日(月)
<<後期が始まった >>
終日ゼミの日。午前の自家養成サクラI君の院ゼミでは射影代数多様体とアフィ ン部分集合との関係、午後の教員試験に合格してひとまず安心のT君の卒研ゼ ミでは層の定義と例など。「世紀の大発見を自慢しに」ドイツに出張していた 自慢のS藤先生が、現地でプンパーニッケルをお土産に買って来てくれた。なつかし いドイツの味である。多謝。

てな事をやっているうちに、予想通り”文化ぼけ”が解消された。 明日から講義が始まるので、その準備もしなくっちゃ。なんて事をやっていると、 ああ後期が始まったなという実感がする。

2003年9月28日(日)
<< 全くの謎 >>
明日から大学の仕事が始まる。今日は完全休業日ということで、終日のんびり すごす。実は昨夜出張から帰ってきて以来ひどい”時差ぼけ”というか”文化 ぼけ”を起こしており、今日一日かかってそれを解消しようとしていたのであ る。

”時差ぼけ”というのは、出張中の周りの雰囲気が日頃の私の生活とずい ぶん違っていたので、軽いカルチャー・ショック状態になって頭がくらくらし てしまったのである。しかし、特段変わった出張でも無かったし、秋の数学会 なんて何回も行っているのに、何故今回だけこんな強い症状が出たのだろう? それについては色々な憶測があるが、実際のところは全くの謎である。

2003年9月24〜27日(水〜土)
<< 数学会 >>
千葉大で開かれた数学会に参加。日本の地方国立大学は、どこも同じような建 物が同じように建っていて、どこも似たような雰囲気がする。千葉大学もやは り、地方国立大スタンダードにのっとって作られているようだ。しかも千葉 大学生協食堂は、そのメニューの層の厚さから見て、所詮無敵を誇るわれ等が 立命館大学生協食堂の敵ではなかった。

しかし、このキャンパスには周到に計画されて植林されたと思われる、か なりの樹齢の美しい並木通りがあって、それが際立った特徴である。こんなに しっかりした木々が生い茂っているのは珍しいと、別の某地方国立大勤務の友 人が羨ましがっていた。私も同感である。

ところで、年に2回の数学会は、1件あたりの発表時間がわずか10〜1 5分と卒研発表会並みの短さ。各専門分野の研究者だけが集まって突っ込んだ 議論をする研究集会等とは違い、数学業界全体のお祭りみたいなものである。お 祭りの目的は、人と会い、他分野の活動の様子を偵察し、この業界全体の風景 を確かめることである。

人には会った。こんな所に来てまで立命関係者に会ってもしょうがないの だが、月曜日あたりから宣言通り(?)「雲隠れ」していたAr先生と、二日酔 いしていないK川先生を目撃した。私は数学会で二日酔いをしていないK川先 生を見るのは初めてのような気がするのだが、そのような認識はきっと何かの 錯覚なのだから、読者の方々が「飲んだくれのK川先生」などという誤ったイ メージを抱かないことを切に希望する。

立命館の希望の星で現在この大学の院生であるMぴー君も、学会のタイム キーパのバイト(勤労奉仕?)をしており、元気そうであった。全力疾走のO 坂先生も学会に来ていたそうだが、Mぴー君による目撃証言を得たにとどまっ た。まあ、O坂先生の全力疾走なら立命館に帰ればいつでも見られる。

あとは、専門分野は全く違うのだが、数学者としての心得などを学ぶ師匠 として私が崇め奉っている、学生時代の友人Y君と会った。実は、数学に対す る熱い思いを語り合った若い頃と比べ、近頃の彼はもう数学に対する情熱を無 くしているのではなどと訝っていた。しかし、どっこい彼は益々深く美しい数 学を絶えることなく追い続けていることが分かり、少し感動してしまった。

夜は計算機屋時代の友人達と飲んで、最近の計算機科学の風景を聞き出し たりもしていた。私は本学情報学科の人達の言うことはあまり信用しないけれ ど、彼らの言うことは信用している。

講演も聴いた。可換環論の講演だけ聴いていると半日で終わってしまうの で、隣接他分野の動向調査ということで、代数幾何学の講演もほとんど聴いた。 細かい部分はよく分からないのだが、近頃は話の概要ぐらいは大体理解できる し、立派な仕事なのかそうでもない仕事なのかについても、少なくとも自分な りの意見が持てるようになっている。

しかしながら、代数幾何学はやはり私にとっては遠い遠い世界である。私 の心の中では今でも可換環論と代数幾何学は地続きなのだが、それは多分セー ルやグロタンディエックが活躍していた昔の事を思っているからであり、現在 実際にそこで問題になっている事やそこに居る人たちは、可換環論業界とはず いぶん雰囲気が違うようだ。そして彼らは、どんどん遠くに行ってしまうよう な気さえする。いっぽう、代数幾何学の問題で私が面白いと思うものは(代数 幾何プロパーの人達が余り関心を持たない?)環論的な問題ばかりで、そうい う意味でもやはり自分は可換環論向きの人間なんだなと思う。

だから、もう、彼らは彼ら自分は自分ってことでいいのだと思うのだけど、 すっかり変わってしまった初恋の人に、いつまでも昔の面影を求めるような事 をしている私って、一体何なんだろう。などというような事を考えながら、 京都に帰ってきた。

2003年9月23日(火)
<< 終日自宅 >>
祭日である。ほぼ終日自宅で文献読みなど。

2003年9月22日(月)
<< どん兵衛 >>
本日午前より、自家養成サクラI君の院ゼミ。I君は夏休み中も気を抜かずに 勉強していたようだ。ゼミ終了後、生協で遅い昼食。見ればI君も生協で食べ ていた。彼が昼食に「どん兵衛」とか「ラ王」以外のものを食べることがある とは、知らなかった。

その後研究室で色々雑用。明後日から千葉に出張。次回の更新は29日以 降。

2003年9月21日(日)
<< 楽チン? >>
めっきり涼しくなった。今日は私にとっては夏休み最後の日である。公式には 25日までのようだが、明日には院ゼミが再開され、24日からは出張だから である。

「仕込み」に励むも進展遅し。夜更し癖が抜けないにもかかわらず、リハ ビリを意識して朝は適当に起きるので、眠い。自宅でずっと分からない事を考 えていると、睡魔に襲われ気を失いそうになる。昼寝ばかりでは能が無いかと 思い気分転換に外に出て、電車の中で考え、京都駅で考え、山科駅前SBUX で考え、それでも寝てしまいそうなので、歩きながら考え。それでやっとほん の少しの事が分かる。ああ、今日も贅沢三昧の効率の悪い一日。

ところで、ウチの大学は自由で開放的な雰囲気の大学と言われたりもする が、私から見ればそうでもない。むしろ、学生を常に監視し、尻を叩き、あれ これ指図をしたがる、管理主義的な大学だと思う。勉強ばかりではいけません、 サークル活動もきちんとやりなさい。政治に無関心ではいけません、社会を担 う健全な市民として成長するために自治会活動もやりましょう。単位はきちん と取ってますか。おや、君は単位の取得状況が悪いですね。教育的指導をしま すからちょっとこちらに来なさい。普段勉強した事がちゃんと身についてます かねえ。え?単位さえ取れればあとはきれいさっぱり忘れてしまって良いのだっ て?そんな事はありませんよ。ひとつ実力テストでもして確かめてみましょう。 この機会にちゃんと復習をやって、テストは全員受けてくださいね。ところで そこの君たち、大学の勉強をしないのなら、ぼんやりしてないでサークル活動 をやりなさい。公務員講座を受けるのもいいですね。どうせなら国家公務員一 種を狙ってください。自宅に籠ってぼんやりしててはいけませんよ、何をやっ ているのか大学側からわからなくなりますから。とにかく大学に出てきて、講 義に出るなり、サークル活動をやるなり、自治会活動をやるなり、公務員講座 に出るなり、とにかく大学の目の届くところで活動するようにしてください、 等々。

これを管理主義と言わずして何というかというと、「面倒見が良い、教育 熱心な大学」である。これはウチの大学の特殊性なのかどうかは知らない。あ るいは、「大学は研究ばかりやってないで、教育にも力を入れるべきだ」とい う世間の意見は、実は上記の如き管理主義を求めているということかも知れな いな。そして少なくともウチは「面倒見が良い、教育熱心な大学」を売りにし ている。大学側が提供する流れに従ってなんとなくやってけば、悪いことには ならないだろうという気分にさせてくれるという意味では、学生にとって楽チ ンなのかも知れないな。

しかし、私などは、管理主義の対極にある自由放任主義の大学で楽しく育っ たクチなので、正直言って、ああ、こんな息の詰まりそうな大学で学生時代を 送らずに済んで良かったと思っている。

2003年9月20日(土)
<<閑そうな顔>>
最後の最後まで夏休みを貪る構えである。朝は適当に起きて野暮用の後、午後 より「仕込み」。なかなか進まない。このまま「仕込み」だけで半生を終えて しまうのではないかと、一寸気が滅入る。夜はラクト・スポーツ・クラブ。” のしのし山登りマシン”(と私が名づけている運動器具)でのしのしとやって いるうちに、小さな疑問の一つが解ける。

こういう効率の悪い勉強が心置きなくできるのは、のっぺらぼうの時間が 取れる夏休みだからだと思う。開講期間になると、勿論自由な勉強時間は減っ てしまうが、それ以外に講義や会議といった色々な仕事(それにゲーテ通い!) が毎週毎週規則的に入ってしまうため、時間に目盛りが打たれた状態になる。 時間に目盛りがつくと、時間がどんどん経過していくのがひしひしと感じられ、 その割には唯唯時間に追われているだけで、何もやってないような気分になっ てくる。そうなると、効率の悪い勉強をじっくりやろうという雰囲気では無く なってくる。

私はのっぺらぼうの時間が取れることは、とても大切な贅沢だと考えてい る。私の学生時代はそんなに講義などに出る必要も無かったので、朝(という よりは昼頃)起きてきて、さて今日は何をしようかな、勉強しようかそれとも 絵でも描きに行こうかといった調子。毎日が単純、かつ、ゆったりとしていた と思う。ゆったりとした時間を確保するという贅沢をするために、生活を切り 詰めてバイトは極力減らすように工夫したりもした。こういうのは学生に与え られた特権だと思う。

ところが、一体誰にそんなつまらない事を教わったのか知らないけど、最 近の学生達の間では、(学生のくせに)スケジュール手帳などを持ち歩き、そ れをどうでも良いような予定で分単位でびっしり埋めて忙しがるのがファッショ ンのようらしい。そもそも、人は覚えきれるだけの予定の中で生きるのが自然 であり、覚えきれない分量の予定は心にも体にもよろしくない。歳を取って記 憶力が衰えたら、当然予定も少なくするのが正しいのである。

かく言う私も、長い間予定表とは無縁の生活を送れる幸運に恵まれたのだ が、ヒマの代名詞ぐらいに考えていた大学教員になってから、ロクでもない会 議とか、愚にもつかない書類の締め切りとか、その他細々した予定が急増した ため、やむなく手帳を持つに至った。この恨みをどこで晴らすかというと、手 帳にきちんと予定を書き込んだが最後、決して手帳を読み返さないという方法 がベストだと思う。いやあー、手帳を見るのを忘れてまして、なんてボケをか ますのである。残念ながら、気が小さいのでまだ実行したことが無いが。

それにしても、学生は閑そうな顔してればいいのに、そして、本当はそう できるはずなのに、何故スケジュールの奴隷の如く忙しがって喜んでるのか。 まあ、自分達に与えられている特権をわざわざ台無しにして喜ぶというのも、 学生の特権なのかも知れないけどね。

2003年9月19日(金)
<< しっかり定着 >>
夜更しの習慣は治ってないのに、リハビリのため起床時間は平常通り。従って 眠い。午前は野暮用、午後はゲーテの図書館へ。今日も「仕込み」に励むも目 立った進展無し。夜は「仕込み」を少しと読書など。

ゲーテで前回の講座の先生にばったり出会い、10月からの講座に来るの かと聞かれたので、勢いで「そのつもりだ」と答えてしまった。これであっぷ あっぷの土曜集中コース選択は決まりである。

それにしても、特に夕方以降ゲーテに居るととても落ち着いた気分になれ るのは何故だろうと思ってたのだが、どうやら照明に秘密があるような気がす る。日本の室内照明は、部屋全体を蛍光灯などで皓皓と照らし、隅々まで明る くするのが普通である。しかしゲーテでは、図書館や教室は蛍光灯で明るくし ているが、それ以外のところは白熱灯で部分的に照らす照明が中心である。何 となく全体的に薄暗い感じがするが、実は明暗のコントラストがついているだ けであり、明るい部分はけっこう明るいのである。

これはおそらくドイツ風にしてあるのだと思う。エッセン時代に住んでい た部屋の照明も、時々招待されたHerzog先生の自宅の照明もそんな感じだった。 最初の頃は「暗いなー、何とかならんのかいなー」と思っていたのだが、すぐ に慣れた。

最近のアメリカ映画でも、室内の映像などは、ほとんど真っ暗で出演者の 顔がろくに見えないようなのもあるな。よくあんな映像を完成品として使ってるも んだと思うけど、西洋人って、ああいうの好きなんでしょう、多分。昔はフィ ルムの性能が悪かったせいか、室内の映像も撮影用の照明をつかったりして隅々 まで明るい絵を撮ったようだけど。

ドイツから帰ってきてからもう2年半近く経った。そして、私の「ドイツ かぶれ」もほとんど影を潜めたかのように見えるかも知れない。僅かにゲーテ 通いと、(今や私のお気に入りのごく少数の講義だけで使われている)三種の神 器--- バケツとワイパーとスポンジ --- にその片鱗を留めるのみだ、と。し かし、ゲーテの照明に心安らかな気分になったり、研究室の明かりも夕方遅く なってかなり暗くならない限り点けなくなったのは、「ドイツかぶれ」がしっ かり定着しているからにほかならないのだと思う。

2003年9月18日(木)
<< 賢そうに見える >>
午前中は歯医者。歯が痛いと物を考えるのが億劫になっていけないな。

午後は野暮用と「無茶苦茶な証明」”最後の難所”の攻略を並行。あまり に分からないので、いてもたっても居られず、苦し紛れに地下鉄とバスを乗り 継いでゲーテの図書館へ。

夕方めでたく解決。これにて、ある論文に半ページでえらく簡単に書かれ ている一つの証明を10倍ぐらいの分量に膨らませて喜ぶなどという、学生み たいな作業に一区切りがついたというわけだ。しかし、これで全て終りという 訳でもなく、「仕込み」作業はまだまだ続く。

それにしても、論文の著者は最初からあんな素っ気無い証明だけで、定理 の正しさを確信したとは思えないな。10倍とは言わないまでも、細かいルー チンの議論などもサボらずにやって、一度は5、6倍の分量の証明をきっちり 書き下したはずである。

そういう、いわば「手の内」みたいな議論まで全てゴタゴタ論文に書く必 要は無いし、そういうのはかえって下品だけど、「手の内」を隠し過ぎるのも 嫌味である。しかも、たとえ隠し過ぎてもその著者がことさら賢そうに見える だけで、文句言ってる方ばかりが唯々アホに見えてしまうというところがタチ が悪い。しかも、その著者が本当に賢い場合は、もっとタチが悪い。

2003年9月17日(水)
<< 強欲 >>
リハビリのため強引に8時起床。眠い目をこすりながら、9時過ぎから活動開 始。昼寝、昼食、山科駅前SBUXへの散歩などを挟んで、今日も楽しく「滅 茶苦茶な証明」の解読作業。昼間は比較的調子良く進んだが、夕方頃に難所に ぶつかり、身動きが取れなくなる、等々。最後の最後まで夏休みを貪ってやろ うという構えである。

某有名私大数学科某教授のHPに、仕事の比率は教育3割、研究6割、管 理運営1割などと書かれていて、軽い衝撃を受けた。それは大学教師として理 想的な姿だと思うが、私立大学で研究6割なんて嘘でしょう!?それって、教 養部廃止と大学院重点化と独法化で大騒ぎになる前の、国立大学の話ではない のか?

立命館はダイナミック・アカデミックだから(?)、私の感触では全教員 を平均すると教育4割、研究3割、管理運営3割ぐらいだと思う。「頑張って 時間をやりくりすれば、仕事の3割を研究に費やできるご身分なんだから、結 構な話だ」(これは確かにそうであるが)などと変な安心をしてたのだけど。し かし、私立大学で研究6割なんて言ってる人がいるのだから、こんな調子じゃ あとてもじゃないが学問の世界の熾烈な競争に伍していけないな。

ということで、益々夏休みを最後の最後まで貪ってやろうという強欲が湧 いてくる。

2003年9月16日(火)
<<頭の悪い査読者>>
今日はリハビリのため、朝は8時過ぎに起きる。野暮用と「無茶苦茶な証明」 の解読作業を並行して行う。どうもすっきりしないので、午後少し遅めの時間 にリハビリ出勤し、図書館に直行。色々調べてやっとある部分が理解できた。

事の真相は全く酷いものである。ある大きな理論が急速に整備された時期 があったようで、当時理論整備の担い手であったと思われる数名の著者達によ る複数の論文が集中的に発表された。そして、それらの論文の中で散在的に議 論されているいくつかの定理や命題から導かれる結果を、全く独立の別の論文 の中で暗黙のうちに使って、「○○は××となるから...」とシラっと言っ てのけていたのである。

つまり、○○と××の間には、大きな理論の中のちょっとした定理1個分 以上の論理的ギャップがあるにもかかわらず、恐らく著者達にとってはもう当 たり前のような事実だから、黙って「○○は××となるから...」とやってい るのである。これでは新規参入を図る私などが七転八倒するのは当然といえば 当然。

この論文を査読した数学者は、彼らの論文や理論をほとんど全てフォロー しているはずで(つまり、著者達の仲間)、それゆえに暗黙のうちに使われた定 理も「その理論における基本的でよく知られた結果」として知っていたのであ ろう。だから、「○○は××となるから...」という部分を読んだとき、ああ、 あの定理の事を言ってるんだなとすっと理解できたのだと思われる。すっと理 解できるからOK!通し!

まあ、数学の論文というのはそういうものかも知れない。しかし、もし私 のような頭の悪い人間が査読をしていれば、これはちとひどいんでねーのと 「例えば、『△△理論における◎◎性により』という一言を付け加える形でも 良いから、証明をもう少し丁寧に書き直すべし」とコメントをつけただろう。

実際そういうコメントを食らったことがある。Herzog先生との共著論文で、 私が証明を書くとゴタゴタと--- 本当は「小川のせせらぎのように朗らかに」と でも形容したいのだが--- 10行ぐらいになってしまう所を、Herzog先生が1行 でエレガントにまとめた部分があって、「Herzog先生、この部分の証明はあま りに伏字が過ぎるんでねーっすか?」「え?これで十分明快でエレガントじゃ ないか。これでいいんだ!」「うー。。。」(この問答は事実に基づくフィク ションです)と意見が食い違った。そしたらやはり査読で「伏字が過ぎるんで ねーの」というコメントを食らったのである(ほらみたことか!)。結局その 部分は5行ぐらいの証明に書き直して通してもらったのだが、こんなことをちゃ んと指摘してくれる査読者も居るのかと、私としては心温まる思いであった。

かように、「頭の悪い」査読者がもっと増えてくれれば、私ももっと充実 した夏休みが過ごせて、この業界ももっと住みやすい世界になるだろうと思う。 (「そんな事言ってるような頭の悪い奴が数学なんかやるな!」という声が聞こ えてきそうだけど、敢えて聞こえないフリでもしていよう。)