3月11日(土)
ドイツ語の日である。京大中央図書館での予習、ルネでの昼食は早々と切り上げ、早目に Goethe Institutに行き、そこの図書室で借りていたビデオを返却。テレビ・コマー シャルの別のビデオと、テレビ・ニュースのビデオを借りる。夕食後はそれらのビデ オを見る。

夕食前に私の指導教官だったM先生の名前をYahooで検索したら、国立大学 独立法人化のページがヒットする。ある会合での発言記録であるが、20年前 数学一色だった人が、今は学部長になって、こんな政治的・行政的な問題を毎 日考えるよう(毎日考えてなければ、あんなに色んな事は発言できまい)になると は隔世の観がある。

3月12日(日)
休息とドイツ語の日である。昼食後、またぞろ(!)夕食用の麻婆豆腐 (ネギと豆腐が余っているのだからやむおえない。やむおえなければ、 仕方がない。)ときぬさやの卵とじをつくりながら、昨日借りたビデオを 聞き流す。

その後散歩とドイツ語のノート整理と宿題を少々。

寝る前の読書の題材について悩む。ルベ―グ積分は、かなりの所まで読んだ ところで頓挫状態。これは、しばらく暇を置いてもよいとするか。元々は 岩沢健吉「代数関数論」をリーマン面の所から読み始めたのがきっかけであるが、 今ならもう戻っても良いだろう。しかし、Hartshorn"Algebraic Geometry"のゼミも 進めたいし、のんびりと解析的な代数幾何を勉強してもいられない。しばらく禁欲的 に 可換環論と(代数的)代数幾何をやるべきである。だが、Hartshorn "Algebraic Geometry"は寝っころがって読むにはちと辛い。ルベ―グ積分は 退屈だから良い睡眠薬になるが、代数幾何は複雑だから同じく良い睡眠薬になり、 5分以内に気を失う。これでは流石に読書にならない。

3月13日(月)
ちょっと肌寒い日だが、平和である。昼前に大学へ。昼食後計算を再開。

「分数のできない大学生」の著者の一人K大学のT先生のHPを覗いてみたら、 続刊として「小数のできない大学生」が間もなく出版されるとの事。 ぜひ買ってみよう。ところで、分数、小数ときたら、次は何になるのだろう?

河合塾が大学入試問題を受託作成するとのこと。一説によれば、入試問題 を各大学で作っている国は日本を除いて極めて少数とのこと。そう考えれば問 題作成をある公的機関で全国的に一元化するのも一案かと思うが。

数学に限って言えば、背景にはひとつの私立大学の入試回数が極限まで増 え過ぎたことと(我が立命館大学はその方向の先頭に立っている!)、教養部解 体と国民的な数学排斥の機運で、数学教員数が減っている事があると思われる。 そんなに数学が要らないというなら、いっそのこと数学の入試なんてやめてし まえば話は簡単ではないか...なんて事は数学教師のはしくれとして、 河合塾で雇ってもらおうという野心を持っていない限り、口が 裂けても言ってはイケマセン。

また、数学者養成エリート大学以外の数学教師は、一般教養の数学教育と入 試で飯を食っているようなものだから、「入試問題は外部委託でよろしい」と か「本学情報学科に限って言えば、一般教養で線形代数や微積分を教えなくて よろしい。コンピュータ専門学校で数学なんて教えないでしょう?」なんてい うヤケクソ発言は、これまた私としては口が裂けても言ってはイケマセン。

可笑しいことに、あれ程数学は要らん要らんと言っている情報学科でも、 大学入試や大学院の入試では必ず数学の問題が出題される。 これをやめてしまえ、という意見は今のところ聞いた事がない。 カリキュラム改正 の時でも、数学系専門科目を全て廃止した案を出してやると、何だかんだ言っ て2〜3科目は復活してしまう。あなた達が「要らない」と言うから、御期待 に沿った案を出してやったのに、何なんだ一体!?なんて思ったりする。日頃 言っている事とやっている事がちぐはぐなので、話がややこしい。そうかと思 うと、まだ本学情報学科の雰囲気に染まっていない若い新任の先生(普通の計 算機屋さんである)などの「私は計算機科学は離散数学そのものだと思います」 (拍手!)という発言もある。この辺のわけのわからなさが、時代の雰囲気なの かも知れない。

3月14日(火)
午後2時から「殺人」会議。でも今晩は親和会があるので必ず16時半過ぎぐ らいまでには終了しなければならないということで、結局16時前に終了。誰 も死なない平和な「殺人会議」!いっそのこと、教授会は親和会のある日にし かやってはならない、という内規でも作ったらどうか。会議中の内職として例 の計算を続ける。

ところで、この親和会なる理工学部教員の親睦会は、くじ引きで席が決め られ、知らない人同志が隣合わせになる仕掛けになっている。また、必ずコン パニオンが雇われる。余り親しくも無い人と隣合わせになって会話に困る上に、 コンパニオンの相手までしなければならぬのでは踏んだり蹴ったりだ、という 事で参加しない人も多い。一方で、隣の人との会話に困るから、コンパニオン でも居てくれなければ間が持たないのだ、という学説もある。また、一定の時 間が過ぎれば、居心地の悪い自分の席を離れて、気に入った人の所へビール瓶 を持ってふらふらと出向いて行くという風景もよく見られる。

知らない者同志が一緒に酒を飲んでざっくばらんに話をすれば親しくなれ るという思想は、団塊の世代までのものであって、私のような「ポストしらけ 世代」「新人類世代」以下の人間には通用しないと思う。シラフの時に親しい 者同志が酒を飲めば、ますます親しくなる可能性は大である。しかし、シラフ の時に親しくない者同志が一緒に酒を飲んでも、親しくない者同志であること には変わりない。さらに、シラフの時に敵対している者同志が一緒に酒を飲め ば、大喧嘩になることうけ合いである。酒の力を過信するのはイケマセン。

かく言う私は、数年前までは全く参加していなかったが、最近1〜2年の 親和会には必ず出席して、かつてを知る人達から珍しがられている。

かつて入試関係の委員をやった時に、打ち上げで社文系の教員と一緒になっ た事がある。私はどうやら理科系の学問よりも、社文系の学問の方が好きらし く、この時は色々面白い話が聞けて楽しいかった。学生の頃も、一般教養科目 のうち理科系の科目は自分で教科書を読めば良いとしてほとんど講義に出なかっ たが、社文系の科目については、教科書が指定されてない事もあったが、毎回 出席して一番前でノートを取っていた。せっかく総合大学に通って色々な分野 の先生が揃っているのだから、こういう話を聞かなきゃ損だという気分である。 ちなみに社文系の講義でよく一緒になったY君が、最近我が立命館の文学部に 着任したのを知ってちょっと嬉しくなった。彼とは全く話をした事は無いが、 当時からその独特の風貌とファッションと、どう見ても学問一筋の文学部青年 といった感じで異彩を放っていたので、よく覚えている。残念ながら、今のと ころ社文系の教員と交遊する機会は少ない。

今回の親和会の結果:行きのバスは数学教室唯一の参加者Y先生と一緒にな り、退屈せずに済む。宴会の席の隣と後ろ、そして帰りのバスの隣が情報学科 の教員というアクシデントが続いたが、日頃の修行の成果の故か心すさむこと 無く無事帰還できた。会場は普通の豪華温泉旅館で、特に格式と風格を感じさ せること無し。仲居のねえさん達は割合上品な感じでよろしい。料理は板前の 創意が十分感じられたが、特に感動無し。酒は冷酒がうまく、珍しくたくさん 飲んだ。コンパニオンは、あのケバいユニフォームはもうちょっと何とかなら んのかと思ったが、特に被害は無し。学部長および定年退職者の挨拶は、いつ もながらそれぞれ面白かった。

3月15日(水)
昼頃大学へ。今までの計算により、ある定理の条件を緩めた場合の反例が得ら れているが、その条件自体がどこで効いているのかわからず悩む。証明を見て も書かれていない。しょうがないので、他の反例も計算して様子を見てみよう と思うに至る。

そうこうしているうちに、3回生M君とGroebner基底のゼミの時間が来る。 その後M2の学生とI大先生、同僚S1, S2, H 先生らと大学院の打ち上げ。飲 み会の2連チャンである。

I大先生からの忠告。数理科学科と情報学科は仲良くしていかねばならない。 高山さんは数学はほっといてもやるんだから、情報の仕事も意識的にやるべし。 前者については異義なし。後者については如何にI大先生の御忠告と言えど受 け入れ難いところあり。経験的に言って情報学科とマトモに係わっていると人生棒に振る ことは明らかだし、今までずいぶん理不尽な目に合わされてきたので、私とし ては彼らの思惑に振り回されるのは2000年1月28日(何故この日なのか は、色々さしさわりがあるので書かない)をもって完全に終了と決めておりま す。

情報学科との友好関係は、ある悲しくもさびしい(と私に は思える)理由で精神的に情報学科に依存し続けなければならない(と自分で思 い込んでいる)同僚S先生と、情報学科のおぞましき現実から注意深く隔離され てきて、ルサンチマンの隘路から自由な存在である同僚H先生達によって、よ ろしく継続発展されることでありましょう。メデタシメデタシ。

ただし卒研テーマについては、再考の余地あり。情報学科では私の研究室 は「成績極めて不良につき学業放棄・気分荒廃状態」の学生諸君の強制収容施 設と位置付けられ、私はもっぱらそういった学業につまずいた将来ある諸君の 更生係をおおせつかっていたが、この仕事もそろそろ卒業したいものである。 そのためには、当面数学教室での卒研テーマでは純粋数学至上主義の炎を メラメラと燃やし「情報臭」を一切排除することが必要条件だと考えている。 しかし、数年後はどうするかは未定である。

また、純粋数学と情報関係の2本立て以上のテーマを設定すること(これは 情報学科において長年強制されてきた)は、いたずらにゼミの数を増やし、研 究活動に重大な支障をきたすので、1年度1テーマの原則を貫く。研究と教育 のバランスを度外視して、それ程必要性の無い(「やらないよりはやった方が いいでしょうという考え方も成り立ちうる」といった程度!)研究以外の仕事 を次々と増やし、意味不明の自己満足に浸るという情報学科的マゾヒズムは、 当面の大学経営に大いに貢献することとなろうが、そこまで自分の 人生を切り売りしたいとは思わない。それはある意味で大学教員としての責務 の放棄でもあるからである。

3月16日(木)
3月は平和である。よって昼前に大学に行き、終日計算に励む。

あとは卒業式を残すのみで、それをもって情報学科教員としてのお勤めは 完全終了である。卒業式の数日後、数理科学科移籍教員(我々の事である)の 「送別会」なるものがあるが、これには「私は断じて参加致しません」と幹事 に伝えてある。もう2000年1月28日はとうの昔に過ぎたから、 情報学科とのおつき合いは専ら同僚S先生とH先生の専権事項であると心得ている からである。

一般的に言って、送別会の当事者が参加を拒否するというのはただ事では ない。常識人たることをもって鳴る同僚S先生などは、その事を知って目を白 黒させていた。しかし、何事も無いかのようにコトが進んでいくところが、暴 力的に粗雑な精神でもって物事が進行する情報学科らしいところである。そし てそれ故に私は、事を荒立てることも心すさむこともなく、静かにここを立ち 去ることができるであろう。3月は平和でなければならないのである。

計算がどうも合わずに、帰りのバスで検算。一部修正。寝る前も布団の中で 検算。何かおかしい!と思いつつ眠る。

3月17日(金)
3月は平和である。よって昼前に大学に行き、また計算に励む。計算計算って いうが、そもそもどんな計算をしているのか?お膳立てには色々な理論が必要 だが、現実にやっている事は至極単純なルーチンワークで、同じ筋肉ばかりを 使う単純作業のようなものである。もっとカッコいいテクニックをじゃんじゃ ん使って、目くるめき華麗な計算をしたいものだが、なかなかそうも行かない。 しかし、整数論でもキーボードで数値を入力してリターンキーを叩き、結果を 記録するという単純作業を数百回繰り返す事があるそうだから(目玉と手の一 部の筋肉が異常に鍛えられそうである)、それでいいのかも知れない。

昨日からやっていた計算の結果、ある定理のひとつの条件がある場合と無 い場合で何が違うのか?という問題(というよりは疑問)の糸口らしき現象が得 られる。計算の手をしばらく休めて、今までの計算と原論文の証明をながめてみ ることにする。

きょうはドイツ語の宿題があるので、数学はそこまでで中止することとなっ た。「虚空に漂う精霊の影を捉えようとして頭が一杯になっているさなかに (ドイツ語の宿題)の時間が来る。飛び上がるようにして、丸で違った世界へ心 を向けかえねばならない。その苦しさは言語に絶する」(ガウス) [復刻版『近 世数学史談』(高木貞治)p.15]

3月18・19日(土・日)
8日(土)は春のドイツ語短期講座最終日。4月からは講義等が多く、時間が 取れないので4〜6月期のドイツ語講座は取らない。 京大ルネで「小数のできない大学生」を買い、夕方から読み耽る。 「分数のできない大学生」と「算数軽視が学力を 崩壊させる」の2冊で大体論点は出尽くした感じで、「小数の...」はこの論 点を色々な観点から発展・検証する内容になっているようだ。

彼らの論点のひとつに、入試に数学を課さないとまったく数学を理解し ていない大学生があふれ返り、深刻な事態をひきおこす、というのがある。 これには全く賛成であるが、数学の入試を課すことは必要条件であって、 十分条件ではない。古い論点であるが、受験数学が出来る学生が、数学を 理解していると言えるか?という問題はある。

成績最低の故に我が強制収容施設に送り込まれて来た卒研生のひとりに、 妙に切れる学生が居た。(この場合の「切れる」は「ムカツイてキレル」とい う意味ではない。念のため。)ゼミにおいて、ある数理モデルを検討していた のだが、さまざまな場合分けや具体例を粘り強く考えて、教科書の記述の反例 を構成したりしていた。「君は、成績最低なのに、何でこんなによく出来るの だ?」というような事を聞くと、高校時代は数学が得意で、立命館の入試でも たぶん満点が取れたと思う、とのこと。成績最低なのは、卒業後の進路等の事 で色々迷いがあったからだとわかった。

そういう事があって、受験数学というのは数学として見ればかなりいびつ なシロモノであるけれど、それが出来る事と数学の素養にはかなり強い相関関 係があると単純に信じていた。

ところが最近、その「強い相関関係予想」の強力な反例をいくつも見るよ うになって、頭をかかえている。ゼミなどで議論していても、高校数学を全く 理解していない学生が少なからず入学してきている事に気付いた。単に忘れた という事ではなく、高校数学を勉強することによって、当然身に付くと思って いた思考力がほとんどゼロの学生である。「(数学を直接使う特定のアプリケー ションを除いて)情報に数学は無関係である」というのが、情報学科教員達の 統一見解であるが、彼らがどういう奇抜な教育的信念を持っていようと、数学的思考 力が情報関係の学問の理解に決定的役割をもっていることには変わりがない。 そして、数学的思考力ゼロの学生が、普通の計算機科学の勉学にも大変な支障 をきたしている事は事実である。驚くべきことに、当該学生達ははいずれも受 験生時代に数学が非常に得意な部類に入っていたというのである。

色々学生に聞いてみると、「立命館の入試程度なら、解法マル暗記の機械 的計算で何とかなりますよ」との事。これまた出題者の立場からすれば、大変 ショッキングな話である。

考えてみれば当然という気もする。立命館の数学の入試はほとんど全て穴 埋め式である。問題文の誘導に従えば、おのずとどの解法パターンにあてはめ れば良いか分かり、それで解けてしまうのである。数学的思考が全く身に付い ていなくても、わけもわからず解法パターンの暗記・類題の反復練習でカタが つく。このことは、受験業界ではすでにお見通しのようである。 同じ問題を論述式にすれば話は別で、どの解法パターンをどこでどう使 うべきか自分で考えないといけないから、多少なりとも数学的思考力が無いと 合格点は取れないと思う。

高校教師になった私の学生に、「立命館の数学の入試問題って、穴埋め式 ばかりで、手抜きしてますね」なんて言われた事があるが、確かに穴埋め式出 題は問題かも知れない。しかし、論述式問題の採点は(高校・予備校の数学教 師を含む)数学者にしかできないことは、残念ながら厳然たる事実である。毎 日のように微分方程式を計算し、数学者よりもうまく数学を使いこなせる工学 者でも、論述式問題の採点はほとんど不可能なのである。で、数学者は立命館全 体で10数名しか居ない。応援の非常勤数学者を含めても高々20名前後である。 短い採点期間で数万名分の論述式問題の採点を行う のは、我々の能力をはるかに超える作業なのである。

高校数学レベルの数学的思考力がゼロの学生でも、情報学科ならかろうじ て何とかゴマかせる。しかし、そういうのが数理科学科に入ってくるとなると、 学生本人も大学も不幸である。

3月20日(月)
今日は祭日だが、私には関係無い。日曜日だけは休息日で、買い出しに出たり、 なんだかんだと家族と遊んだりしてぼんやり過ごす。土曜は、最近まではドイツ 語の日だったが、これからはまた普通の日に戻るであろう。

とは言え、すこし風邪気味なので、今日は半休息日。昼前まで寝て、昼過 ぎに大学に行き、先日思いついた「疑問」の答を整理したり、少し論文を読ん だりする。夕方はさっさと引き上げ、四条のジュンク堂に家族に頼まれたもの を買いに行く。夜はドイツ語を少し。