名前と等価な人々
とくに普段話しをする訳でもなく、その人をよく知っている訳でもないが、か
といって、「その他大勢」という大部屋女優的地位に甘んじさせるには一寸気
になる人というのは居るものである。どうしてくれようか、と毎日遠くからそ
の人を眺めていると、戸籍名などという社会的符丁は消滅し、その人の「真実
の名前」が思い浮かんで来る。たとえば「学習する鼠」「15年後の”不思議
の国のアリス”」「ぽんちゃん」「VAXをいじりまわしているセメント袋のよ
うな人」「にく」「作業ズボンの大ちゃん」「頭痛・生理痛にギロリン」など
がそうで、その人はそう呼ぶ以外にふさわしい言い方が思い浮かばないし、そ
の名前で全実存を把握した気分になる(要するに、思考停止する、のである)。
もっとも、これらは馴染みの無い人ばかりではない。「VAXをいじりまわして
いるセメント袋のような人」とは、昼休みに一緒に蕎麦を食べに行って、(歯
が痛い時の)江戸っ子の蕎麦の食いっぷり見せてもらったし、「にく」とは職
場で何か(何だか忘れた)嬉しい事があって、”喜びの踊り”なるものを教えて
もらって一緒に踊ったりして、本当にいい奴だなと思ったこともある。しかし
ながら、それやこれやの心暖まる「対話」の積み重ねも、その積み重ねから紬
ぎ出される幾万の言葉も、「真実の名前」の重みを越えられない。