人工知能

      人工知能というのは、要するに人間が行っている知的な情報処理のメカニズム を解明し、それを計算機で実現する技術を開発しようという、まことに志の高 い学問である。1980年代半ばに人工知能ブームというのがあって、人工知 能イコール機械翻訳とエキスパートシステムという風潮があったが、本来そう いう商業主義的路線とは一線を画した浮き世離れした学問なのである。 人工知能研究の中心は、「知識とは何か?人は如何にして知識を獲得し、それ に基づいて思考するのか?」「人は如何にして時間の概念を理解し思考してい るのか?」「人は如何にして言語や会話の流れを理解しているのか?」「『常 識』とは何か?人は如何にして常識を獲得し、それに基づいた推論を行ってい るのか?」「人は如何にして空間概念を獲得し、思考しているのか?」等々の すこぶる哲学的、心理学的、認知科学的問題に取り組み、計算機でシミュレー トすることである。このような怪しげで曖昧模糊とした問題を考える事こそが 人工知能の本題であって、曖昧さが一定レベル以下になった分野はもう人工知 能とは言わないというのが、人工知能の中心思想のようである。

     たとえば、数 式処理などは「人は如何にして数式概念を理解し、それを処理しているのか?」 という人工知能的命題から研究が始まったのだが、もはや計算機でどうやって 実現していけば良いかというメカニズムが明確になった現在では、誰も数式処 理を人工知能とは呼ばない。既に実用レベルに達しているパターン認識や機械 翻訳やエキスパートシステムも、人工知能研究から「のれん分け」した分野で ある。ソフトウエア工学も「人は如何にしてプログラミングという知的作業を 理解し行っているか?」と考えれば立派に人工知能の研究対象だが、ソフトウ エアの構造や開発方法について多くの事が明確になった現在では、人工知能と は思想的にも別の分野である。ニューロとかファジー論理なども、元々は 厳密な論理的推論ではない人間の曖昧な判断や学習メカニズムをシミュレート するという意味で、人工知能の研究対象であったが、現在では独立した 工学の一分野というべき段階に達している。

     怪しげで曖昧模糊としている事が人工知能という学問の持ち味なのであって、 だからこそ工学的あるいは数理科学的に興味ある研究分野が数多く生み出される。そ して工学的あるいは数理科学的に研究できる段階になれば、その分野は人工知 能の領域から独立していく。このことによって人工知能は「怪しげで曖昧模糊」 という持ち味を維持し、生産的であり続けている。その意味では、 人工知能自身は数理科学とは対極の位置にある学問だとも言える。

     いっぽう、人工知能研究者の中に「怪しげで曖昧模糊」も のにどう取り組むかで、厳しい路線対立があるのは有名な話である。一つの方 向は、「怪しげで曖昧模糊」なものを研究するのだからこそ、それらを少しで も厳密に語れる形式言語が必要だとして、数理論理学の方法を使おうという考 え方である。これは数学者が数学を論じるためにさまざまな記号や 数式を開発してきたのと同じ考え方だと思う。 しかし、何せ対象は途方もなくとらえ難いシロモノだから、そう簡単に形 式言語が作れる訳ではない。だから、少しずつ改良して、その形式言語で説明 できる部分を広げていこうというのである。これはすこぶる数理科学的研究方 法だと思うし、私などにはよく理解できる。それに対して、形式言語を 持ち込もうなどどいうのはまさに「混沌に目鼻をうがつ愚」に他ならないと 主張する人々も存在する。彼らの議論を聞いていると、曖昧なものを曖昧に論 じ曖昧な結論を導いているだけで、一体何が明らかになって、何が問題とし て残っているのかさっぱり分からない。 こう書くと「それはお前が阿呆だから、そう思うだけだ!」と怒られそうであるが、 彼らの目的はただ議論することなのであっ て、それによって何かを生み出したり何かを明解に理解したりすることではないのではなか、と さえ思えてくる。 しかし彼らこそ、数理科学的なものと真に一線を画し、人工知能の真髄である 「怪しげで曖昧模糊」な部分を継承している本物の人工知能研究者ではないか と思う。そして、数理科学者は自らの思考方法を相対化して理解するためにも、 こういうわけのわからん思考をする人達の存在を 知っておくのは意味のあることだと思う。