情報学科での数学の講義

     情報学科の学生相手に数学の講義をするのはそれなりに大変であり、独特の 工夫を要する。相手はマル暗記した解法パターンの条件反射と、意味も何も考 えない機械的計算だけで大学に入って来た学生達である。「数学は得意だった」 という者も含めて、高校数学を理解しているとはとても言い難い。しかも、1 クラス300名近いマスプロ授業で演習を行うのは不可能だし、彼らに講義時 間以外に自学自習を期待するのは無理な相談である。講義においても式変形が2分以上続くとたちまち私語が激しくなるし、課題を出せば誰かが作っ たデタラメの解答のマル写しレポートが山と積まれる。ノート持ち込み可の試 験をすると、問題文の意味も何も考えずに、問題文と字面が似ているノートの 記述を探し出して、せっせとマル写しする。頭は極力使わずに、人間コピーマ シンに徹するというのが、彼らの勉強の基本スタンスのようである。

     こう書くと、情報学科の学生というのは本当にどうしようもない人達みたい であり、教育条件もまったく不満足な状態で放置されたままのように思えるか も知れない。しかし、工学部というのはどこでも似たりよったりであり、私と 同世代もしくはそれ以上の工学者を見ても、数学の勉強に対する学生のモティ ベーションの低さは昔も今もそれ程高くはないようである。縁無き衆生は度し 難し。手練の馬子も渇きを感じていない馬に水を飲ませる事はできないのであ る。手のつけようの無い多数の学生には、適当に単位を与えてやり過ごし、少 数の潜在的に意識の高い学生と、彼らにつられてもしかしたらまともに勉学に 取り組むかも知れない学生を念頭に置いて講義をすることになる。数学に対す る言われ無き敵対感情を世の中に蔓延させないために、単位認定等を緩くし、 学生に「わけのわからん苦労をさせられた」という気持を持たせない気くばり も必要となる。

      さて、度し難き縁無き衆生を除いた学生相手に、どういう講義をすべきであろ うか。情報学科で数学系科目が開講されているのは、それが 予備知識として必要だからである。もっとも予備知識以上に数学的センス や思考力といった事の方が情報関連の事を勉強するのに必要なのだが、情報学科においては そういった非即物的形而上学的概念はそもそも存在しないことになっている。 しかしどうせ300名のマスプロ講義で使い物になるレベルまで教えられる訳 がないし、学生は試験が終れば内容をきれいさっぱり忘れてしまうのだから、 予備知識をたたき込む事を重視してもしょうがない。それよりも、「数学を考 える事は楽しいことなのだ」という事を伝える事の方が大事たと思う。数学の 楽しさを知る事が、数学的センスや思考力を養う第一歩なのだが、情報学科にお いてはそういった非即物的形而上学的概念はそもそも存在しないことになって いるので、これは情報学科の教育ためにというよりも、人類文化のためにやるこ とになる。こちらの方が志が高いわけだから、やる方としても元気がでる。 この場合、ナルホド楽しそうだな、と思える感受性 を持った学生が脈のある学生であり、役に立つだの立たないだのという思考か ら一歩も抜け出せない学生や、メンドクサイ事を考えるのは嫌だという学生が 縁無き衆生だと再定義される。こうなると、縁無き衆生学生の割合は 案外少なくなるようだから、若い奴もそう捨てたもんじゃないなという気になる。

     数学の楽しさを教える事は、数学者にとっては比較的容易な事である。 何と言っても毎日数学やって楽しい思いをしているのだから、その舞台裏を見せれば良 い。私の尊敬する整数論のD先生が、昔何かどえらい発見をしたと言って数学教室で 狂喜乱舞していたそうである。その姿を見て化学を専攻しようと思っていた 学生Hが、「あんなに楽しいそうにしているのだから、数学というのは よっぽど面白いものなのだろう」と思って数学専攻を決心し、後に 偉大な整数論学者になったという話もある。 だから、自分はあまり楽しいとは思わないけど、先生はずいぶん楽しそうにやってるな、 と思わせるだけでも良いと思う。

     人にもよるだろうが、私にとっては既成の理論を勉強することよりも、新しい 問題を試行錯誤しながら考えて行くことの方が楽しいから、そちらの方を強調 することにしている。とは言っても、まさか自分が今研究している問題を話す 訳にも行かないので、 既成の理論を数学者が研究していくスタイルで再構成し て話すようにしている。例を計算して一般論を推理してみたり、既知の結果を見比べたり、各段 階で問題を設定して方針を立ててみせたり、失敗して見せたりしながら、ゆっくりと 結論に近付いていく。高校レベルの数学も、学生はマル暗記した知識として しか学んでいないから、公式なども多くの場合 簡単に再構成して見せてから使うようにする。 いきお い講義は超スローテンポとなり、予定していた内容の半分も進まなかったりして、 少数の学生から「先生の講義はじれったい」という 声が出たり、数学科の受講生から「先生は情報学科の学生を馬鹿にしているみたいだ」 という声が出たりする。しかし、数学は解法マル暗記の反射神経の訓練だと思い込んでいた 多く学生達にとって、このスタイルは新鮮らしく、割合好評のようである。 しかしこれで数学の実力が付くわけでもないし、実際試験の結果は散々な状態なのだが、 数学の楽しさが少しでも伝われば十分成功と考えるべきだと思っている。