数理科学者のJob Market

野望を抱く --- キャリア・アップの野望
     私が理論計算機科学の研究者を目指したのは、教員として大学に戻って数 学を研究したかったからであり、単にキャリア・アップの手段だったのだ。数学科で大 学院入試に失敗して計算機メーカに就職したのだから、潔く数学はあきらめて 計算機屋として人生を全うすれば良いのだし事実そうしている人がほとんど なのだが、私の場合は執念深い性格なのか何だか知らないが「いつの日か大学 に戻って数学を...」なんて事を夢想していたのである。もちろん計算機メー カで数学をやるわけには行かない。でも何かしら学術論文を書いて博士号を取 らないと大学には戻れない。じゃあ数学はしばらくおあずけにして、計算機科 学の方で頑張って論文を書いて、とりあえずどこかの工学部に潜り込もう。そ して学生には計算機を教えて自分はこっそり数学を研究する、なんてことに なればいいのだがなあ、というような事を考えていた。現在まさにその通りに なったのだが、当時としては実現の見通しは全く無かった。

見通し暗し --- メーカの研究所での生活
     計算機科学で論文を書くと言っても、普通の企業の研究所ではなかなか難しい。 計算機科学は商業ベースでの移り変わりが激しく、企業の研究所でもそれに合 わせて2、3年で研究テーマが変わる。場合によっては、工場からの委託研究 という名目で、新商品開発の下請け仕事に埋没することもある。現在はどうか 知らないが、当時は人事や予算がきっちり決まっている工場の場合、新商品開 発に予想以上に手間取って急に人手が必要となっても融通が利かない。それで 人事・予算面で融通が利く研究所の所員が駆り出されるのである。こういうこ とをやっていると、なかなか学術論文などは書けない。書けたとしても、博士 論文が書けるような、一貫したテーマを数年堀下げていくような研究はほとん ど不可能である。さらに企業ではたまたま研究所に配属されている間は「研究所研究員」 となるわけで、いつ何時辞令一本で営業部門に配置転換され「営業部員」に 変わるかわからないのである。そうなれば、研究者生命は終りである。 つまり研究者としての身分が極めて不安定なのである。 そもそも企業には「研究者」という身分は存在しないのだから、それは当然のことなのである。 企業から大学に移る人の多くが50代以上であるのはそのた めである。でも、50歳を過ぎてから大学に戻っても、工学部の教授として余 生を送るには適当かも知れないが、数学をやるには遅すぎるのである。 何としても30代までに大学に戻らねばならない。しかし全く見通しが 立たないわけだ。最近の若い人はこういう時にためらわずに会社をやめて大 学院に戻るわけだが、今と違って大学院、特に数学科の大学院に入るのは大変難しい 時代だった。大学院に戻っても大学教員のポストにありつける可能性は極めて 少ない。工学部の大学院は昔も割合入りやすかったが、 工学部の大学院に入り直して結局またメーカに勤めたのでは、 何をやっているのかわからない。 かと言ってこのまま会社に居ても、全然先行きは見えてこない。

降ってわいたチャンス --- 国立研究所での生活
     そうこうしているうちに、3年間某国立研究所に出向するチャンスが降ってき た。そこでは一貫したテーマをじっくり研究できるところであった。3年で博 士号を取るのはちょっときついが、結局4年と数ヵ月居座ってうまく博士号を 取ることができた。しかし、その過程も暗闇を模索するような日々であった。 まず、計算機科学の研究は数名のグループで行う事が多いので往々にして他人 頼りになってしまう。私としては何としても出向期間中にまとまった研究成果 を出したいのだが、グループのメンバーが思うように動いてくれないとせっか くのチャンスを棒に振ることになる。大体普通の技術者というのは、モノを 作る事自体が楽しいのであって、それによって学術論文を書こうとか、 学術論文が書けるまで突き詰めて改良しようという事は考えないものである。 出向期間が終れば元のメーカに戻って、 メーカの技術者としてやっていきたい他の出向者や、 時間的に余裕があってのんびりしている国立研究所所員と違い、 私の場合は「短い出向期間中に大学に戻るための研究業績を挙げなければならない」 という厳しいタイムリミット付きの野望を胸に 秘めているわけである。自分の人生を人任せ にするわけにはいかない。そこで一応ある研究グループのメンバーに入ったも のの、自分の研究としては個人プレイでやっていける理論計算機科学をやって 学術論文を生産するこ とにしたのだ。 この作戦は成功した。

学位取得の問題
     学術論文をいくつか書いてそれなりの研究成果が蓄積された ら、次の問題はどうやって博士号の学位論文申請をするかである。見ず知らずの 人間が自分の論文を持っていきなりどこかの大学教授を訪ねて「学位を取らせてください」と言っ ても、制度上はいざ知らず実際は断られることが多い。自分の研究内容を理 解してくれて、必要なら審査員として適当な教授を紹介してくれる人、つまり 何らかのコネが必要である。工学部の修士卒の人なら、学生時代の指導教員が 何かと面倒を見てくれたり、大学の就職口まで探してくれたりする。しかし数学科 の学部卒の私には、そういう有難い指導者は皆無である。 アカデミズミの世界では、私は野良犬同然の立場なわけで、 これはちょっときつい。短い期間で研究業績をあげるのも大変だが、 大学教員養成コースを完全に離れた者が博士号取得し、大学の就職口を見付けるの はもっと大変である。複雑な人間関係や駆け引きのようなものに巻き込まれたりして、 学問以外の面での大きな壁や落し穴が次から次へと待ち受けているのである。 結局自分でコ ネを作って学位を取って立命館大学の情報(工)学科へ就職できたわけだが、その間のいき さつはちょっとここには書けないほどスリルとサスペンスに満ち溢れたものだっ た、今ここに私が居るのはすばらしい協力者たちに恵まれ望外の幸運が重なったからだとしか言いようがない。

野望を忘れる --- 大学の工学部に移る
     大学に戻るまでがとても大変だったし、そのために理論計算機科学の研究にも かなり力を入れて来たので、立命館大学に移った頃はこのまま理論計算機科学 者として人生を全うしようと思っていた。学生時代の指導教官が「修士課程ぐ らいの年齢に目一杯数学を勉強してないと、まともな数学者にはなかなかなれ ません」と言っていたが、私はその時期には数学をすっかり忘れ計算機ばかり いじくっていたわけである。この頃には計算機科学者としてはまともにやっていけ る自信があったから、今更先行きのわからない数学に戻ってもしょうがないではないか、 と考えたのである。大学で は自分の研究室を持てるのだから、そこで学生達と一緒に自分の思うような研 究を進めていこうという意欲に燃えていた。実際学生と共同研究するのに 適当な研究プランはいくらでもあった。

どん詰まり --- 理論計算機科学者のポスト
     ところが立命館大学は理論計算機科学やその周辺の研究を進めるには、全く不 適当な所であることが間もなくわかった。何がどう不適当なのかは、考えただ けでも腹が立って不眠症になってしまうから、心身の健康維持のためあえ て何も書かないことにする。とにかく、こんな所に居ては潰されるだけだと思 い、他大学への転出を考えた。会社員時代は大学ならどこでも同じでとにかく 研究はできるだろうと思っていたが、この頃にはどこの工学部も立命館大学よ りは多少ましという程度で似たり寄ったりであり、理論計算機科学の研究を行 うより良い環境ではあり得ない事を知っていた。だから、理学部の情報科学系 やそれに準じた所を狙う事にした。さらに同じ理学部情報科学系でも、中身は 工学部と同じ所も多いので、そういう所はわざわざ移ってもしょうがない。ま た日本の大学は年齢構成等を大変重視する傾向にあるので、この点も考慮しな ければならない。すると、私にとって立命館大学よりもましだと思われるポス トは日本に3つしか無く、それらのポストは今後10年ぐらい空きそうにない ことがわかった。要するに、日本には私のやっていたプログラム理論を中心と した理論計算機科学者の大学教員ポストがほとんど無い事がわかったのである。 後は海外に飛び出すしか手立てはないが、この頃はPh. D 取得直後の人が期限付きで 研究するポスト・ドクトラル・フェローシップの職も少なくなり、 それ以上のポストも大変厳しい状況であった。そもそも世界的にみても理論計算機 科学者のポストは数学者のポストに比べても圧倒的に少ない。 ヨーロッパやアメリカ合州国は日本よりもポストが多いが同時に研究者も多く、 競争の激しさ間口の狭さは日本と同じかそれ以上である。 海外に飛び出して野垂れ死にするのもちょっときつい。要 するに、立命館大学で潰されるのを待っている以外に道は無いわけだ。

野望を思い出す --- 数学研究機関としての立命館
     これはえらいことになったなと思い つつ「そう簡単に潰されてたまるか!」と 理論計算機科学の研究体制をすこしでも軌道に乗せようと何年か悪戦苦闘し、胃に穴を空けたり していた。しかしながら、何せもがけばもがく程寄ってたかって袋叩きのひどい目に会う蟻地獄のような世界 である。最後にとうとうブチ切れて「俺はもう知らん!」という気分になった。 ところがそうやって肩の力を全部抜いてしまうと、 ふと会社に就職したばかり の頃に思い描いていた野望を思い出した。そうだ!自分は理論計算機科学をや るために大学に戻ろうとしたのではなく、数学に帰るために大学に戻ったのだ。 立命館大学情報学科が、私が理論計算機科学の教育・研究を一生懸命やろうと すればする程、次から次へと苛酷なペナルティーを課してくるのは「目を覚ませ! お前は理論計算機科学なんかやるためにここに来た のではないだろう?!」というメッセージではないかと思うに至った。 そう考えてみると、私の置かれた状況は数学に戻るための環境が全て整っていること に気づいた。

    小規模ではあるがしっかりした数学教室とよく整備された図書館 を持ち、数学研究のための予算は割合潤沢にある。何年かに一度、大学を離れ てどこかの研究機関で研究だけに専念できる制度も整っている。京都大学、大 阪大学、神戸大学へ日帰りで行ける地の利も見逃せない。また、研究室といっ ても私の場合は就職希望の学部学生の卒研指導が中心で、計算機科学における最先端の 学術研究を指導して立派な学術論文を書かせなければならない院生はほとんど 居ない。つまり学生の研究指導を思う存分やりたくでもできない環境というの は、逆に言えばそういう事にわずらわされずに数学に専念できる環境でもある のである。 数学から計算機科学に転向するのは比較的簡単であるが、逆は難しい。数学科 の学部学生に戻ったつもりで、かなりの期間多くの難解な専門書を一行一行黙々 と勉強しなければならない。勿論その間は研究成果は出ないのである。有名国 立大学の情報系に居たら、こういう事は決してできないであろう。あいつは最 近論文を書いてない、一体何やってるんだ?!何?計算機の研究を放り出して 数学をやってるだと?けしからん!!!という事になる。そもそも大学院生を たくさん抱えていれば、彼らを放り出して数学に埋没する事すら不可能であろう。 しかし立命館大学あたりだと、学生の面倒(私の場合はほとんど学部学生)さえちゃんと見ていれば、 そういううるさいことは余り言われない。これは大変良い事である。

野望消滅 --- 何だか全てうまくいったみたい
     数学への転向は、私の場合研究者の多くが考えるキャリア・アップを放棄する ことを意味する。情報系の場合、工学部なんかには絶対移りたくないし、理学 部系のポストは無いに等しい。従って情報系で他大学に移りキャリア・アッ プをする可能性は限りなくゼロであるし、今さら計算機科学に戻る気も無い。 大学に戻るための手段、あるいは学生時代に勉強をサボったツケとはいえ、私 は計算機科学にあまりにも膨大な精力と長い時間を浪費し過ぎたような気がす る。これ以上の人生の浪費はしたくはない。
     また、私のように40歳前後で数学に戻った場合、フェルマーの大予想とか志 村谷山予想に匹敵する世紀の大難問を解決するとか、数学の半分ぐらいをひっく り返すような大定理や大理論を発見するとかしない限り、立命館大学よりもラ ンクが上とされる他大学の数学教員として転出する事は不可能である。 私はこの手の野望を捨ててはいないが、そういう事ができるぐらいなら とっくにプリンストン大学あたりの教授になっているはずだ、というのも 真理である。これは 寂しい事でもある。研究者というのは、自分の研究成果によってキャリア・アッ プを図る事を励みとして仕事をするものだからだ。
     しかし何のためのキャリア・アップかというと、それはより研究しやすい環境 を手に入れるためなのだ。勿論自分のスノビズムを満足させるという側面もあ るが、それは研究とは直接関係は無い。そして、立命館大学は理論計算機科学を 研究するにはほとんど最低の大学だが、数学を研究する には最高とは言えないものの私にとってはとても良い環境である。私よりも能力 がうんと上なのに、もっと悪い環境で精力的に研究している人達の事を考える と、何かの手段としてそれ程好きでもない研究にあくせくする人生はもういいじゃ ないか、そろそろ腰を据えて自分のやりたい研究をすれば良いのだ、と思う。