教員にとっての講義の意味

     情報学科の教員にとって、講義をすることは自分の研究室に学生を集めるため の宣伝活動という意味を持っています。本音のところはこの宣伝活動が第一な のであって、情報学科としての教育目標やカリキュラムの中での講義の 位置付けなど、もっともらしい理由付けは各教員の考える宣伝活動方針 の寄せ集めを適当に作文しただけ、という観も無きしもあらずです。

     さて、私のような数学の研究者が情報学科で「宣伝活動」しても何にもならないわ けですから、講義をする意味は別途考えなければなりません。単にコマを埋め て給料をもらうためのアリバイ作りをしている、というのではちょっと寂しい。 ちょっとどころか、かなり寂しい。人間40歳を過ぎると「人生の浪費」を極 力避けることを考えるべきであります。学生諸君を見ていると、私などの基準 では「人生を浪費している」としか言えない事にうつつを抜かしてばかりいる のですが、人生の浪費をコヤシにできるのは若者の特権であります。ともあれ、 週何コマと言えども、人生を浪費するのはいくら給料のためとは言え極力避け たいものです。

     クサイ台詞ではありますが、私は若い人と知的興奮を共有するためだけに講義 をやっております。そのためには、まず自分自身が知的に興奮できる内容だけを選び、 自分自身がいい気分で講義しなければなりません。経験的に言って、 私自身が全くノラない講義に学生がノッてくるというキモチ悪い現象は あり得ません。従って、私の好きなことを 好きなようにしゃべり、「いい気分」に水を差す輩には断固とした態度でのぞむ事が肝要であります。 私が講義中に私語、あるいは特に携帯電話のベルを糾弾するのも、 講義を適切に進行させるという教育的配慮ではなく、「人がいい気分でしゃ べっているのに邪魔するな!阿呆!」という理由からであり、他意はございません。 また、「縁無き衆生は度し難し」と言いますが、どうしても私のノリと波長が合いそうに 無い学生諸君は、「いい気分」に水を差す伏兵の予備軍ですから、場合によっては 単位取得のための道筋を確保してやった上で御退散願うことも必要になります。 出席を取って全ての学生を縛りつけようなんてのは、自殺行為以外の何物でもありません。ところで、 私自身がノリノリのノリになれば、次は学生諸君をノリノリにさせなければ なりません。これは当然ならがかなり難しく、もっぱらこの部分になけなしの知恵を 絞っております。

     では、なぜ「若い人と知的興奮を共有するためだけに講義をやる」のか? 私は「学生達をかくかくしかじかの立派なナントカに育て上げたい」式の 教育的野望とは無縁であります。 学生なんか、勝手になりたいものに育てば良いと思っております。 また、幸い私は"何かのヤクに立てる"ための講義は担当しておりませんから、何をどこま でどう教えなければならないという制約から自由であります。そもそも、"○ ○をやれば××のヤクに立つ"なんて、人生そんなに安っぽい因果律だけで動 いているわけではありません。 その手の因果律に縛られた講義をしなくてよい だけ、私は恵まれていると考えております。 そこで、大学はピチピチの若いコがいっ ぱいいますから、恵まれついでに若いコ達と楽しんでしまおうという 強欲な魂胆でいるのです。