インターネット

      オペレーティング・システムの開発部隊にいたときは、ネットワーク制御ソフ トの設計と開発を担当していた。当時はインターネットはせいぜい広域学術ネッ トワークで研究者達がメイルの交換やファイル転送をやったり、ネットワーク・ ニュースで遊んでいたぐらいで、ローカルネットワークの重要性もようやく計算機 科学者達の間で認識され始めてきた頃である。コンピュータネットワークなんてオマケみた いなものだから、入社したばかりの駆け出し技術者の教育用にやらせておけ、 といったノリであった。それで試作版のシステムではあったが、設計からプロ グラム開発までを、素人同然の私がほとんど一人でやっていた。今から思えば 全く暢気な話であるが、1994年のインターネットブーム爆発の10年も前 の話である。

     いわゆる通信屋というのは、それ以前から沢山居た。彼らは計算機の事は余り 知らないし関心も無かった。彼らにとってネットワークとは物理的な通信回線 の事を意味していたようである。我々の仕事は「物理的通信回線」の部分をきっ ちり作る事であり、その回線に繋げるものは、電話とかファックスのような単 純な「端末機械」である、という認識であったようである。計算機の場合は、プロセス 間通信というより高次元の通信概念があるわけだが、そんなものはわしらは知 らん、我々の作った「物理的通信回線」のユーザとして良きに計らえ、という 感じであった。彼らの作ったネットワーク・ディバイスを計算機に組み込んで、 それを制御して計算機同士で通信するプログラムを作るのが私の仕事だったの だが、デバイスが「物理的通信回線」のレベルで完全に閉じた設計になってい て、プロセス間通信レベルの通信プロトコルを実現しにくい仕掛 けになっていた。通信プロトコルとは通信の信頼性を確保するための通信手順 なのだが、「物理的通信回線」部分と計算機とのインタフェースがしっくり行 かないため、その部分でしょちゅう通信障害が起こり、さらに障害処理もまま ならぬという状態。そのため、開発にはずいぶん苦労した覚えがある。その後 通信屋達が心を入れ換えたのか、計算機屋が通信デバイスの開発に乗り出した のか、計算機ネットワークにうまく対応した通信デバイスが簡単に手に入るよ うになったようである。

      ネットワークと数理科学はおそらく対極の世界に位置する。オペレーティング・ システムの場合と同様で、計算機ネットワーク屋の中には、数学を無条件に目 の敵にする人が少なくない。彼らはいわゆる通信屋とはちょっ と感覚が違うみたいである。実際、計算機ネットワークに数学が登場する場所 はほとんど無いし、数学出身の私でも、実機デバッグの泥沼をのたうちまわる 毎日を送っていると、机の前で理論をこねまわしている連中に石でもぶつけて やろうかという気分になってきたものである。だから、現在ではなるべくネッ トワーク屋には近寄らないようにしている。 しかし今思えば拙いシロモノであったが、ネットワーク制御ソフトウエアを設 計していた頃は楽しかった。オペレーティング・システムと計算機ハードウエ ア、そして通信デバイスの3つを土台にして、あるべきシステムのモデルを考 え、それを詳細化してモジュール構造、制御方式、アルゴリズム等を煮詰めて いく作業は、学生時代の夏休みにやった大学院入試の数学の問題を片っ端から 解く作業や、後に理論計算機科学に転じたときの理論構成をしていく作業に通 じるものがあった。内容的にはおよそ数理科学的ではないが、知的作業の形態 は数学者のそれとかなり似ている部分があると思う。最近では、インターネッ トのセキュリティー技術やマルチメディア通信との関連で、暗号理論とかコー ド理論が注目され、楕円曲線をはじめとする整数論や代数幾何学の理論が直接 的に関連してきている。しかし、今もし自分がネットワークを真面目にやると したら、やはりシステム設計の方を選ぶだろうなと思う。セキュリティー技術 で整数論や代数幾何学が関係するといっても、所詮は整数論や代数幾何学その ものの研究が目的ではないので、どうしてもフラストレーションがたまってし まうだろうと思うからである。