僕が数学をはじめたわけ

大体中学3年生の頃には、「大学へ行くなら文学部か理学部だ」と決めておりまし た。田舎の中学生にも「ノーベル賞の湯川・朝永」という話は聞こえてきます し、一流大学出て会社の社長や政治家や高級官僚になる人よりも、ノーベル賞 取る人の方がうんと偉くてカッコいい!と思ったからです。 金儲けのための学 問を毛嫌いする傾向は、この頃から既に顕著になっていたと思われます。

ところで、ろくに本も読まないし、国語も社会もそれほど得意でもなかっ た私が何故文学部かというと、ちょうど トルストイの「戦争と平和」の 映画をテレビでやっておりまして、そこに出て来たナターシャ役のリュドミア・ サベリーエアとかいう女優が大変美しく、中学生の私は思わずぽーっとしてし まったのです。で、「ロシア文学とはかくも美しい女性なのだ」という全く訳 のわからん考えにとりつかれたのであります。その後「戦争と平和」の小説に 挑戦しようとしたのですが、10ページぐらいでダウンしております。やはり、 本を読むのが苦手な人間に文学部は無理だよな、と思いました。それに追い打 ちをかけるように、高校に入った頃私が狙っていた大学の 文学部にはロシア文学科が無いことを知りました。

しかし、文学研究だけが文学部ではなくて、特に日本の印度哲学研究 は世界に誇る立派なものであることも間もなく知りました。私の通っていた中学校は 仏教系の私立中学で、仏教の授業は美術の授業に次いで大好きでした。将来は、 その方面のエリート・コースである龍谷大学か大谷大学へ行って坊主になり、 母校の仏教の先生になるのもいいなと考えた事もあったのですが、印度 哲学科に進んで、パーリ語やウルドウ語の仏典をスラスラ読みこなす東洋哲学 者になるのもカッコいいなあと思いました。

いっぽう、中学生の頃の数学の成績はぱっとしませんでした。しかしクラ スのちょっと気になる女の子が抜群の数学少女で、おまけにその子の友人の女 の子もまたまた抜群の数学少女といった具合。で、彼女の気を引くために 何とかしなければという、絵に描いたような不純な動機で 中学2年の頃から数学の勉強ばかりするようになりました。結局、中 学時代は思うように成績は伸びなかったのですが、数学の勉強ばかりするとい う習慣は高校に進んでからも抜け切れず、とうとう高校時代は数学が得意科目 になってしまいました。

そこで、数学が得意だったらやはり理系進学かなという安易な考えから、 物理学を勉強してノーベル賞を狙おうという、これまた安易な考えに傾きまし た。自分は実験が嫌いだから、断然理論物理だ、理論物理は数学とほとんど同 じで数式をいじって考えていればいいのだろう、と。しかし、大学の学部段階 では理論物理志望者も実験物理志望者も同じように実験をやるのだと知って、 高校の理科もそれほど面白くないし、結局自分のやりたい事は数学なのだなと わかりました。時おり「やっぱり文学部もいいかも」という考えがよぎるので すが、高校生ぐらいになってくると、断然文学部志望!の生徒は相当の読書量 があり、 独特の雰囲気を漂わせていますから、やっぱり自分は彼らとは だい ぶ違う人間だなあという事で、文学部病も立ち消えになります。

その後、アメリカに頭脳流出していたフィールズ賞数学者広中平祐氏が日本 に帰ってくるという、ミーハ高校生を刺激するに十分なニュースがあった り、19世紀の天才数学者のガロアの伝記を読んで、ガロアって人は変な奴だ、 自分も変な奴だからやっぱり数学に向いているのだ、という訳のわからん 納 得をしたりして、「もう数学科に進むしかない!」ということになったのです。

それにしても、リュドミア・サベリーエアといい、クラスの気になる女の 子といい、私の進路決定にはいずれも女性の影がつきまとっていたような気が します。年中無休24時間体制の真の遊び人小学生であった私が、 俄然私立中学受験を考えるようになったのも、 ガリ勉少女だった親戚のお姉サマを「カッコいいなー」と思った事が 原因であります。 私の理学部志望も、そのお姉サマが「将来は理学博士になるんだ」 と言っていた事から、"理学博士=カッコいい"という刷り込みが行われた事も 関係しているような気がします。