5月4日に再度、郷里・石巻に足を運んだ。今回は、駅レンタカーが借りれるほどに復旧も進んできていた。但し、同じ市街地の中でも、復旧の進み具合の差は大きい。
門脇(かどのわき)地区・渡波(わたのは)地区に、福島大学に勤務する学兄ともども足を運ぶことができた。前回の、旧北上川河口付近に小高く聳える日和山から眺めた被災地域の姿は、実際に足を踏み入れると、この身に襲い掛からんばかりに迫ってきた。
TVの映像でもよく流れていた門脇小学校は、校舎の中が津波に浚われただけでなく、火災によって焼け焦げた姿を瓦礫の山の中に晒していた。また、より海岸寄りにあって、地域の拠点病院であった石巻市立病院は、内部はすっかり津波に浚われていたし、瓦礫の山の中で「身動き出来ない」といった姿を晒していた。周辺の整備されていたはずの舗装道路は、土砂に埋もれてしまって、昔ながらの「でこぼこ道」と化していた。まだ水溜りも残っていた。因みに、門脇小学校は、山手にある門脇中学校に「間借り」する形で学校を再開していた。この門脇中学校は、体育館と教室の一部が「避難所」となっており、小学校が「併設」されることで、余裕のない施設条件のもとで、何とか教育機能を発揮しようとしていて、現在、午前中授業を実施中だという。グラウンドの3分の1程が駐車場になっていたが、それ以外の土がやたらとでこぼこしているし、轍の後も見受けられた。避難民その他の人々の駐車場となっていて、すっかり「荒らされて」しまっていた。体育の授業を行なうためにグラウンドを確保してはいたが、ただ走るだけでも、大変な状態だろう。
渡波地区の「新漁港」(完成当時は、東洋一との触れ込みだった。)の構内の建物は、ほとんど全て内部が「荒れ果てた」状態だった。そして、埠頭から間近の水産会社の建物の前には、大きな漁船が未だに「鎮座」した格好だった。
5月6日に立ち寄ったJR東名(とうな)駅では、遠目には柵でも巡らしているのかと思わせるものが。JR仙石(せんせき)線の枕木と線路が捲り上げられた跡だ。「奥松嶋」の景勝の地への入り口の辺りだ。東松島市、この一帯の被害はもちろん甚大だ。
蛇足ながら、行方不明だった従兄弟は、隣の駅JR野蒜(のびる)駅近くでガソリンスタンドを経営していたが、5月2日にようやく遺体が家族の元に帰ってきた。東京へ搬送され、火葬に付す際に身元が確認出来たのだという。
これから春爛漫の季節を迎えようという矢先の大震災。あれから丁度2ケ月。「津波地震」の爪痕は、未だに痛々しい。 mm生