大阪桜ノ宮高校バスケ部顧問の「暴力・体罰」問題が報道された時、様々な思いから本ブログの2回前に「ヒューマニズムに思う」と題した記事を寄せました。それから2週間余り、中学・高校の他競技の部活においても「暴力・体罰」が多く起こっていることが、被害を受けたり目撃したりした人達から証言されています。ごく最近では、我が国柔道の女子トップレベル(ナショナルチーム)の指導を引き受ける「監督」までもが、選手達に暴力を振っていたことが彼女等自身によって告発されています。
その指導者の記者会見では、行為の事実と非正統性を率直に認めた潔さが強調されました。一方、「早く、強くさせ、勝たせたい気持ちが入り込み過ぎた」結果の勇み足だったとの強調と、「私の他には体罰を見かけたこともない」と妄言する「罪を一身に引き被る」姿勢の強調とが、私には感じられました。中高校生の部活とオリンピックでメダルを狙うレベルの選手とが、同じような「指導問題」に悩まされているのか、今さらながらに、私は愕然としています。
日本のスポーツの普及、すなわち競技人口の増加、競技会の開催、その競技水準の向上、およびその組織的活動の中心たる選手と指導者、連盟・協会の役員等々の継承・発展が、戦前・戦後を通して、学校体育・スポーツを中心に展開されてきたのは、周知の事実です。そして平成も四半世紀を数える時期に、このような「反ヒューマニズム」の教育・文化・社会活動がまだ横行し、「見て見ぬ振り」状況が放置されているかについては、報道の通りだと思えます。
これに対して、きっちり物を言っているスポーツ関係者も多くいます。国内トップ、国際的レベルの選手・指導者の意見表明も新聞・ネット等のニュースでいくつもなされています。ある識者がTV解説で「そもそもスポーツに対する見方、考え方が日本では異なっているのではないか!?」という基本的疑問を投げかけていました。
教養科目の1つ「スポーツと現代社会」の参考文献には、2つの国際憲章が教材として取り上げられています。1つは1975年、ヨーロッパ評議会(CE)の体育・スポーツ担当大臣会議が開催され、「ヨーロッパみんなのスポーツ憲章」が採択されました。個々人にとってのスポーツのもつ価値、並びにスポーツを国策の大きな柱の一つとして推進することの重要性について、国を越えた文書化が行われたものです。2つはユネスコ第20回総会(1978年11月21日)「体育・スポーツ国際憲章」の採択です。その第1条では「体育・スポーツの実践は全ての人にとって基本的権利であること」、また第2条では「体育・スポーツは全教育体系において生涯教育の不可欠の要素を構成する」と宣言しています。
上の2つの憲章はフランスの「人権宣言」(1789年)に端を発する欧州の「近代法の考え方と人権思想」の延長線上にあると思われます。他の文化活動と同じくスポーツ活動を「自由権及び生存権から構成される公的権利」として位置付けているのが特筆されることです。だいぶ遅れてからですが、すでに我が国においても「スポーツ基本法」が新たに制定され、スポーツの国際舞台に人を送るにふさわしい国策を策定する体制づくりに着手しています。
競技においても、それぞれの国の基本的人権の尊重に対する国策としても、スポーツにいかなる価値をおいているかは「浮き彫りに」なりつつあります。スポーツの「指導(者)問題」はスポーツ実践環境の根幹にかかわる問題ですから、先の法と権利の関係に従えば、種々活動組織の設置者、管理・監督者に様々な義務が課せられるのは当然です。そう言えばすぐ国や自治体を想定しがちですが、今回の事態は、スポーツを推進する競技団体の主体性や自治・浄化能力が厳しく問われていることとなります。
既に欧州、亜細亜、北南米の国々において、「暴力・体罰」問題で騒がれているのと同じ競技あるいは他のいくつかの競技で、トップレベルの指導を引き受けている「日本の競技界出身の指導者」達がかなりの人数活躍し成果を示すに至っています。これらの落差は一体どのように理解すればいいのでしょうか。
スポーツは内容的には既に「国際ルール」が基本的です。「日本的」なものが「ポジティブ」になるか、あるいは「ネガティブ」なキャンペーンの材料になるかは、相手となる国々が主導します。結果(例えば、勝敗順位、メダル数)だけでなく過程(例えば、選手育成、指導者育成、科学研究等)も重要だという場合、これらの外国で活躍する指導者へのアプローチが重要なことがらだ、と私には思えます。
【善】