リレーコラム

2013年02月01日

東北学院大学 教養学部 地域構想学科 准教授
植田今日子

津波被災地の記憶地図を描く―「専門」を捨てて?

教員たちのサービスラーニング
 社会学、民俗学に志してフィールドワークを始めてから15年が過ぎました。フィールドワークと偉そうにいっても「これってちゃんと調査になってるのかな」と暗中模索で調査地に繰り返し通い、「これって論文になるのかな」と思いながらメモにペンを走らせ、真っ暗闇を小さな舟で漕ぎ出すような不安な時間がついこの前も流れていました。けれども震災後、生まれて初めて研究とは無関係のフィールドワークを経験しました。62世帯中、54軒の家屋が津波に流されてしまった集落。出発点にあったのは「ここがどんな場所だったのか見てみたい」という平凡な好奇心だけでした。専門がばらばらの8名の弊学教員でこの集落の生活史に取り組みました。もしサービスラーニングが現場で考え、身体を動かし、そこにしかない経験や記憶に学ぶ機会だとすれば、この集落の生活を記録することは紛れもなく「教員たちのサービスラーニング」でした。舞台となったのは宮城県気仙沼市唐桑町で、大部分の土地が津波によって「災害危険区域」と化し、解散することになった「宿(しゅく)」という名の一集落でした。

 この集落の住民だった方々の暮らしに一年半耳を傾けて、2013年8月に『更地の向こう側―解散する集落「宿(しゅく)」の記憶地図』(かもがわ出版)という本にまとめ、宿の方々にお渡ししました。タイトルどおり、東日本大震災の津波で更地のような風景と化してしまった一集落の生活史を、元住民の方々の記憶を頼りに三つの時代(現在、昭和40・50年代、昭和30年代以前)を遡る三枚の絵地図と文字で記録するという試みでした。多くの写真が津波で失われてしまっていたという事情も、この集落の方々の記憶に頼った理由となりました。くわえて東北学院大学の9名の教員と1名のイラストレーターで構成されたプロジェクトチームには、3.11以前の宿(しゅく)集落の姿を知る者はたった一人しかいませんでした。かつて社会調査実習の場としてお世話になったご縁でした。しかしこの小さな集落の生活史にこだわったのは、多くの三陸沿岸集落と同様に、明治三陸大津波(1896)、昭和三陸大津波(1933)、チリ地震津波(1960)と大きな津波に繰り返し見舞われながら、その都度集落をもう一度立ち直らせ、つくりだしてきたという履歴をもっていたからです。のどかだった東日本大震災以前の姿もまた、かつて明治三陸大津波や昭和三陸大津波がもたらした「更地の向こう側」にあったことになります。


【聞き取りや集められた写真から描かれた昭和40~50年代の宿浦の絵地図】

「専門」を捨てて? 
  このプロジェクトには際立った特徴がひとつありました。先ほど専門がばらばらの弊学教員と書きましたが、プロジェクトに集ったメンバーは、日本中世史、フランス語学、経済学、社会福祉学、文化人類学、建築学、社会学という見事に統一性をもたない面々だったのです。東北学院大学では、東日本震災から1年を経た2012年度になって「震災に関わる学長研究助成金」を設立するという新たな試みがありました。学内の研究者(教員)を対象に「地域社会の復興に向けて寄与しうる研究」のために、学長から競争的資金が提供されるというものです。ただし助成金にはひとつの条件が付されていました。それは研究が「学部を超えて企図したもの」であること。つまり応募するためには、研究が分野横断型であることが必要でした。そしてわれわれのプロジェクトは、応募した研究課題のなかでももっとも多様な専門を擁するものでした。
 しかし実際に専門の異なる8名と研究助成金を得て取り組んだ内容は「分野横断型コラボレーション」とはほど遠いものでした。ふつうコラボレーションといえば、異色の組み合わせによってそれぞれの専門性を生かし合うことをイメージします。けれども現在から振り返ってみれば、すべてのメンバーが専門を生かすというよりはむしろ“平等”に「専門を捨てる」ことで、ひとつのプロジェクトを終えることができたように感じています。
「素人」の方法論
 いったい「専門を捨てる」とはどういうことなのでしょうか。実際に専門用語の通じない面々で、どうやってフィールドワークを構成し、生活史を紡いでいったのか。結局それは一言でいえば全員が「素人」になって専門用語を封じ、共通してできることは何か、という最小公倍数を方法にしたということです。そして納得のいかないことやよくわからないことがあったとき、問題につきあたったときには何度も集まって確認し、話し合いました。同じ専門の研究者で取り組むプロジェクトではとても考えられない頻度でした。そしてわからないこと、不確かなことがあれば被災地に何度も足を運んで確かめるしかありませんでした。結局それは、どの専門分野にもどんな職業にも共通する「素材に対する誠実さ」に過ぎないのかもしれません。目指すゴールは絵地図と活字の生活史でした。このプロジェクトの目指すアウトプットが「解散を決めた集落の人びとにとって解読可能で、意味のあるものになっているか」という明瞭さをもっていたため、ひとつの方向に向かうことができたように思います。

 とはいえ「書く」ということのプロ集団であることには違いないのです。インタビューをする、録音をする、テープ起こしをする、文献資料を繰る、残っている宿の写真を探し集める、このことは全員ができる。そこで集落の方々の「衣食住」、「生老病死」から飲み水、便所、客船、小学校、出産、津波といった項目を作成し、市町村史には絶対に載らないような匂いや音、手触りやいたずら、やんちゃ、ずるを含んだ生活史にしようということがかけ声となりました。自身の感度を最大限に上げて「おもしろい」とか「意外だ」と感じた箇所を糸口に、身体をリトマス紙代わりに使って生活史を記録していきました。インタビューはすべてテープ起こしすることにし、偶然担当外の話にでくわしてもメンバーが共有できるようにドロップボックス(クラウド)で公開しました。これほど手元のデータをガラス張りの箱の中で共有したのは、いわば「専門を捨てた」プロジェクトだったからでした。

 三つの時代から構成される本の性格上、難解だったのは、それぞれの項目ごとに節目を描かなければならなかったことです。たとえば飲料水であればいつ水道がきて、井戸水を飲まなくなったのはいつか、医療についてはいつまで往診があって、お医者さんが車に乗るようになったのはいつで、医院行きのバスがでるようになったのはいつか、客船であれば船がどう変遷し、いつ航路が廃止されたのか、といった節目です。もちろん各項目の変革期は本が設定する三時代とぴたりとは一致してくれません。それでも積極的に語られる時代、そして各項目の変化がもっとも集中する時代をたよりに三つの時代を設定しました。震災を挟んだビフォアアフターではない生活史を目指しつつ、宿の方々が記憶を遡ることの可能な時間という制限のなかでの選択でした。

 振り返って「専門が違う」ということを安易に普段口にしていた自分にとって、共同研究の効用とは何なのか、専門とは何なのかを根本的に考える機会を得ました。終えてみれば専門用語の使用を禁じられたものの、専門よりも志を共有することの方がはるかに重要であることを思い知らされたプロジェクトでした。宿の方々から知り得た表情豊かな被災集落の横顔を、各教員が「専門を捨てて」描くことで、おそらくそれぞれが多くのことを考えたと思います。少なくともわたしにとって「研究」としてとある場所に繰り返し通うことも、魅力的な集落の横顔をただ記録するために通うことも、得ることは何ら変わらないということでした。ふだん学生に講義をするとき「学び」と「それ以外の生活」の境界をどれほど融解させることができるかを問うているつもりでした。偉そうに言っている自分も、分断させてしまっていたのです。「職業人」や「学生」の肩書きなどなくとも、感度を最大限に上げて、全身を耳にして身体を動かせば、学びはいつでもどこででも始まっていくのかもしれません。


【仙台での原画展に集ったプロジェクトメンバー6名】


*著書のご紹介

東北学院大学トポフィリアプロジェクト『更地の向こう側 解散する集落「宿」の記憶地図』 かもがわ出版(2013)