コラム

Column

共通教育におけるサービスラーニングの意義

立命館大学産業社会学部/応用人間科学研究科 教授 中村 正
1.脱学習のほうへ
 ずいぶんと以前、23年ほど前、対人暴力について研究するためカリフォルニア州立大学バークレー校の社会学部で客員研究員として滞在していた時、サンフランシスコ市でみかけた暴力防止のポスターに、Violence is learned. It can be unlearned.と書かれていた。それ以降、いったんは「脱学習」と置き換えつつも、後者の文章をどう訳すのかが気になり、脳裏を離れなかった。その後、哲学者の鶴見俊輔さんがヘレン・ケラーに聞いたこととしてこの言葉が紹介されていた。「大学でたくさんのことを学んだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかったといった。まなび(ラーン)、後にまなびほぐす(アンラーン)。アンラーンということばは初めて聞いたが、意味は分かった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。」(「鶴見俊輔さんと語る 生き死に 学びほぐす」、2006年12月27日『朝日新聞(朝刊)』)と。「そうかこの言葉は『学びほぐし』か、『なるほど!』」と思った。しかし、その使い道は広くかつ深く、まだ十分に消化できていない(“I’ve learned many things, but later I had to unlearn.”ということになるのだろう。それはさらに同氏の『教育再定義への試み』 (岩波現代文庫)でも書かれている)。
 そして社会的な規模で、これまでのやり方を脱学習すべきだと感じさせる出来事が次々と起こる。1995年の阪神淡路大震災。同じ年にはオウム真理教の地下鉄サリン事件。また異なる種類の、2001年のアメリカでの「テロ」。そして2011年東日本大震災社会とつづく。
 アンラーンという言葉は、私の専門にかかわる社会病理学の関心からだけの、暴力臨床にかかわる言葉としてだけではなく、広く大学での教育や研究をいかに社会とかかわらせるべきなのかを考える際にも重要な言葉だと感じてきた。単に社会的な事件や事故、天災というだけではなく、広範囲に何かをアンラーンすべきだと考えさせられた。
 さらに、学び方を変えつつ学ぶこととして意味づけたアンラーンを意識的な試みとして実行できるのは大学しかないと思った。ちなみ、阪神淡路大震災後に大学コンソーシアム京都を舞台にプログラム展開したNPO・NGO、コミュニティビジネスでのコーオプ教育を当時院生だった若者たちと一緒になって6年ほど実施したことを契機にして、私のなかでもなにかがアンラーンされた(この時の人々は大学教員やNPOのリーダーとなっていたり、それぞれの仕事の領域でアンラーンを実践している)。

2.アクティブな学びを創る
 自然科学、人文科学、社会科学のあらゆる知的営為は、社会に係留され、社会を先導し、社会を刷新する過程において創造性を高めるといえる。学びの動的な過程を象徴するものとして、その後、すでに北米や欧州の大学では当然のように定着していた学びのスタイル(学び方を豊かにする)を立命館大学でも実現させるべく、インターンシップ、コーオプ教育、サービスラーニングとして開発してきた。ボランティアセンター、障がい学生支援、ピアラーニング、コモンズ、学びのコミュニティ形成等として今でも議論が続く道筋をつけてきたつもりである。さらに、資格や臨床の諸学における実習科目だけではなく、プロジェクト型としてあらゆる分野でこうした学びが重宝されている。それらはpractice-based educationとして効果も確かめられ、各学部のカリキュラムにおいて一定の地歩を得つつある。ケースメソッド、フィールドスタディ、ケーススタディ、プラクティカム、事例研究法等のように教育方法としても精緻化されつつある。当然、それらを支える研究も活発に展開されている。今後はそれらの評価の仕方の開発が要るだろう。さらに立命館大学の学生気質としてはクラブ、サークル等の「課外」の学びが盛んなので、トータルにみてアクティブな学びを「知識への渇望」として学問の動機づけへと展開していくことが要請されている。社会に役立つ学びだけでは弱いと思うからである。社会を批判し、乗り越え、創造するためには「逸脱」が要るからである。役立つというだけではその後の予期せぬ課題に応答できないからである。出過ぎた釘は打たれるのではなく、出過ぎた釘は倒れるのでひたすら前へと進むしかない。むしろ、出ない釘は腐ると考えた方がよいのだろう。

3.サービスラーニングが機能するための「学びのコミュニティ」形成
 そうした学びのスタイルをさらに展開するため、たんなる実習教育を超えて、社会の解決すべき課題をニーズとして顕現させ、それをサービスとして切り出し仕事にし、高等教育における人間育成と学習課題を結びつける教育方法としてサービスラーニングはどの領域でも要請されるはずなので、これを共通教育のなかに概念化し、取り組むことを重視してきた。あらゆる学問において社会との関連づけが不可避となっているので、特殊な教育の方法としてサービスラーニングを位置づけ、共通教育へと「閉じ込める」のではなく、ユニバーサルなアプローチとしても位置づける必要があると考え、各学部でのサービスラーニングを共に開発する姿勢をとってきた。
 こうした教育は受動的な学習観をアンラーンすることを迫られる。つまり、大学のもつ人材育成機能と学術研究機能を統合し、あらゆる地域の課題をサービスとして組み立てなおし、現代的課題にそくして地域社会と連携する、つまり人材育成の「社会実験的シミュレーション」をおこなう営為としてサービスラーニングを位置づけるなかで、関係者の既成の思考からのアンラーンがこの種の学びをととおして達成されるべきということになる。
 とはいえ、地域の課題をサービスとして学習プログラム化するということは実践課題を仕事として切り出す地域でのアクターの主体性が大切となる。研究課題、理論と仮説の検証が可能となるように大学の側で位置づけ、それを実践することで実際の社会へと定着させていくシミュレーションとなるようにプログラムをデザインするということである。
 難しいけれど、現在社会は複雑なので、そうした主題は実に多様にある。たとえば、環境問題、食の安全の確保、企業の社会的責任、法化社会の現実とかかわる領域、グローバライゼーション社会、生命をめぐる倫理と社会のあり方、技術のもつ社会性、少子高齢化社会の現実と対策等、学びを動態化させる課題は山積している。あらゆる学問領域においてユニバーサルな教育方法としてサービスラーニングが開発される必要がある。
 さらにその「社会実験的なシミュレーション」は大学外である必要もない。学内での活動や大学自身も一つの社会であると考えると、サービスラーニングはもっと身近になる。たとえば、障害学生支援で取り組まれるべきICTを介した新しい支援の在り方構築の可能性、学内外の情報バリアフリーを目指したサービス情報ネットワーク(情報弱者のための専門用語データベースの作成、ノートテイカーや手話通訳者のための情報交換システム)、大学業務や生協等と連携した学生ジョブコーチングモデルの研究、若者としての大学生を対象にしたキャリア形成やユースサービス開発、環境教育のコンテンツ開発、学生同士のトラブル解決のためのピアメディエーション開発等などが想定できる。市民社会の担い手として対人関係や社会制度へと言及する学びを深めることができる。

4.市民教育、専門教育、教養教育の「環」としてのサービスラーニング。
アンラーンを奏功させるためにアクティブラーニングがあり、通俗的な意味も含めてそれはすでに義務教育段階でも一般化されつつある。大学で取り組む以上、そのサービスを地域と協働して開発し、そこに研究としても関与し、人材育成機能を組み込むことは、実践の知、暗黙の知を学問の知へと転換させ、相互に環流させていくことにもなる。往還する知とでもいえようか。労働集約性を知識集約性へと高度化することが大学をとおして可能となる。 
 私のかかわる領域である人間科学や対人援助においては、研究と実践を還流させ、プラクシス(Praxis)として融合することが常識となっている。ここに院生を参入させ、研究・実践・教育を一体化することを試みている。東日本大震災後の復興にかかわるサービスラーニングのプロジェクトである。これはいわゆる「心のケア」などのように、特定の人々に向けた特定の活動を目的とした、支援すること支援されることの二元的なアプローチではなく、復興の課題を協働して担っていく契機として大学のサービスラーニングを位置づけるコミュニティ心理学のアプローチである。オープン・システムとして現地の人々との多様な関わりの可能性を開こうとするものである。臨床や支援のための人眼科学は権利擁護(アドボカシー)として職業倫理と科学的実践の視点を構築するためのサービスラーニングとして位置づけている。

5.キャンパス単位でのサービスラーニングを活かした社会連携・地域貢献の学びの開発
 サービスラーニングにおける「ラーニング」とは、「経験的学習」を意味する。社会の課題に応えるために、活動的で、知識の応用可能性が問われ、市民社会の一員としての主体的意識が涵養される、学習者が中心となる教育そのものである。学生が自らイニシアティブや責任をとり、意思決定を行わざるをえない機会となるからである。地域社会の必要性に根ざしてサービスが生成しているので、大学が社会の期待に応えるという点では、開かれた大学づくりともなる。市民教育、専門教育、教養教育の「環」としてこうした学びが学部や研究科の個性化に資するように、せめてキャンパス単位で地域と連携して開発していければと思う。しかし同時にその過程にアンラーンの契機を埋め込んでおくという課題があるので、組織者は相当に高度な教育者としての熟練が求められる。教授する側もまた学習者としてアンラーンされていくことになる。

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