コラム

Column

イギリスの市民教育は時代の扉を開くのか

昭和女子大学 コミュニティサービスラーニングセンター センター長
日本ボランティア学習協会 代表理事
興梠 寛

「多様性」と「自由」を尊重した教育からの決別

 イギリスの教育は、中央集権的なシステムではなく、地方教育行政当局に委ねられていた。教育行政は、地方自治体の所管事項としながらも、むしろ教育内容は各学校で独自に編成される、多様性と自由な教育実践を尊重していた。

 しかし、1970年代に入り、保守党の“鉄の女”と呼ばれたマーガレット・サッチャー政権が発足すると、世界的な経済不況がすすむなかでイギリスの教育制度に大きな異変があらわれた。「中央集権化」(管理)と「競争」(市場)原理の導入へと歴史の流れを変えることになった。窮乏している英国経済を立て直し国際的な経済競争に打ち勝つために、中央集権化と競争原理を基本理念とした教育改革を断行することになったのでる。

サッチャーはいう。

 「国家は、子どもたちが何を学んでいるかについて無知であるわけにはいかない」

 サッチャー政権は、青年失業者の増加は、「リテラシー」(読み書く能力)と、「ニューメラシー」(数量的思考能力)をもたないままに成長したことが原因だと考え、基礎学力を高めるための教育への転換を政策の基本にしたのだった。

  教育水準をいかに向上させるかは国家的な命題であるとされ、1988年に『教育改革法』が成立した。これまで地方によってバラバラであった教育水準を統一し、全国共通の「ナショナル・カリキュラム」が制定され、基礎学力の到達度をはかる「共通学力試験」を実施した。各種メディアは、学校ごとの成績ランキングを発表し、保護者の判断による学校選択の自由を保障した。また、その結果は、教育行政による学校評価と予算配分にも反映され、学校長や教師への評価や任免などの徹底した競争による評価制度の導入につながっていった。政府による教育の“中央集権化”と“競争”と“市場”の原理の導入が行われたのである。

16歳時に実施している「GCSE試験」(義務教育の科目別修了資格試験)の結果は、子どもや保護者に知らせるだけでなく、保護者が“学校を選択する基礎資料にする”という理由から、学校別成績ランキングとして主要な新聞や教育誌に掲載した。学校内でも、生徒の成績順位を掲示板に貼りだすなどなどの対応が行われた。その結果、否応なしに子どもたち同士の競争心が煽られていった。また、子どもを学校に行かせない保護者の「怠学」問題に対応して、子どもをもつ親に2,500ポンドの罰金を科すなどの厳しい処分を行った。

 こうしたサッチャー政権による教育政策は、“劇薬”のような競争原理の導入によって、基礎的学力の向上をもたらした。義務教育を終えた子どもたちの高等教育への就学者は大幅に増加し16歳や18歳時の資格試験合格者も増えた。しかし、子どもたちの学力格差も生じさせ、「落ちこぼれ」「落ちこぼし」の深刻化も顕著になった。労働者階級の子どもの20%は何の資格も持たず(DfEE発表,1997)、少年の8.8%、少女の6.5%が義務教育の卒業資格すら持てずに学校を去っていった。

  そのいっぽうで、心理的諸問題をかかえる青少年は、増加の一途をたどっていった。心理的・情緒的問題をかかえる男子は、15歳で10%、18歳になると33%にも及び、15歳の女子においては18%、18歳になると42%(社会態度研究所、1997年)に増加した。また、18歳から25歳までの青年期の自殺者数は、1990年には1979年と比べて2倍にも膨らんだ。

青少年の社会的関心の低迷、自分の殻に閉じこもる傾向や、対人関係能力の低下も社会問題となった。青少年のボランティア活動などの社会参加意識の低下や、政治的無関心層が増加し、18歳から25歳までの青年で「自らの投票義務」を認識している者は6分の1以下(Wilkinson and Mulgan,1995)となった。18歳から24歳の若者でイギリスの民主主義に誇りを持っている者は僅か5.4%に減少するなど、社会的、政治的関心の希薄化(社会態度研究所、1997年)が深まるなど、イギリス政府は民主主義の基盤が揺らぐことへの危機感を募らせていった。

「市民教育」(Citizenship Education)の誕生

 1997年5月、保守党から労働党へと政権が変わり、トニー・ブレア政権が誕生した。

ブレア首相は、就任時の演説で「教育を、教育を、教育を!」と教育改革の重要性を宣言をし、国内や海外でも大きな注目を集めた。

 ブレア政権による政策の特徴は、市民社会(Civil Society)の社会的基盤を強化するとともに、ボランタリー・セクター(Voluntary Sector)と行政とのパートナーシップの深化を国内政策の中心に据えたことだった。

その一環として「市民教育」(Citizenship Education)を重要視するとともに、学校教育の根幹に位置づけることとした。

 ブレア政権は、内務省顧問として、ロンドン大学教授バーナード・クリック(Bernard Crick)を指名し、イギリスの教育改革の中心的役割を委ねた。

 クリック委員長をはじめ、国内外の社会問題に取り組むボランタリー・セクター関係者(Citizenship Foundation, Community Service Volunteers, Oxfam, National Trust, その他の多様な非営利組織)の参画によって1998年に提言された『クリック・レポート』は、イギリスの伝統的な民主主義は大きな危機に瀕していると訴えるとともに、民主主義社会の核となる“責任ある市民”を育てるために、民主主義の理論と実践を学ぶ教科『市民学習』(Citizenship)の重要性を提言し、国内外の教育界に強い衝撃をあたえた。

 クリック委員会の提言は、さっそくブレア政権の教育改革政策に盛り込まれ、ブランケット教育雇用大臣の手によって実現することになった。

新カリキュラム『市民学習』(Citizenship)は、2002年9月から中等教育(Secondary School)において主要必修科目7科目のひとつとして教育課程に導入され、独立した教科『市民学習』として導入された。初等教育においては「社会」と「保健」の教科で取り入れることになったのである。

 必修カリキュラム『市民教育』は、青少年が現代の民主主義における市民としての役割と義務について十分な理解を育めるよう助力するための教育である。また、そのために必要な、道徳的、文化的、社会的、政治的な責任意識を育み、人間としての統合的な成長を促進することを目的に設定された、他の全教科の領域と連動させる“クロスカリキュラム”であることが特徴である。

 英国政府が「市民学習」に期待したねらいは、つぎのとおりである。


〔市民学習のねらい〕

(1) 神的成長の機会の提供
青少年が人生の意味や目的、人間社会の異なる価値観について知り、理解するのを助けることを通じての“精神的成長の機会”を提供する。
(2) 徳的成長の機会の提供

青少年が社会における善悪や正義、公正、権利と義務などの問題についての批判的眼をもって正しく認識できるよう助けることを通じての“道徳的成長の機会”を提供する。
(3) 会的成長の機会の提供

青少年が分別をもった有能な社会の一員になるために必要な理解やスキルを習得するのを助けることを通じての“社会的成長の機会”を提供する。
(4) 化的成長の機会の提供

青少年が自分たちの属するさまざまなグループの性質や役割を理解するのを助け、多様性と相違を尊重する気持ちを奨励することを通じて“文化的成長の機会”を提供する。
                                          (DfEE資料)
「市民教育」に期待されている内容

 イギリスの学校は、約92%は国家によって運営(8%がパブリックスクールなどの私立)され、厳しい評価制度のなかに置かれており、学校評価によって補助金の額も左右されるのが現実である。それぞれの学校は、「シティズンシップ」という教科学習をどのようにすすめ、何が達成できたかについて、学習する子ども自身や保護者、『スクール・カウンシル』(学校評議会=School Council)や視学官に明確に示し、報告しなければならない。

また、「シティズンシップ」の授業の内容や創意工夫、教育の質の高さ、他教科とどのように柔軟にリンクしながらすすめているか、児童生徒がおたがいのよりよい人間関係づくりをすすめているか、「シティズンシップ」は学校生活や児童・生徒会活動にはどのように反映され、地域社会で市民としてどのように積極的に参画し行動しているか、学校運営組織「スクール・カウンシル」の活動に結びつけた教育実践として、どのように反映されているかについて、学校ごとに評価されるのである。

このようにして、「シティズンシップ」教科は、2009年には、学校教育行政は、再度の省庁再編によって統合化された『子ども・学校・家庭省』(Department of Children, School and Families)に引き継がれていった。


        〔市民学習のカリキュラム内容〕


 (1)“成熟した市民”になること
 についての知識を理解する

・社会を支えている法的権利や人権、責任、刑事裁判のシステムを学ぶ。
・個性、地域、国籍、宗教、人種的アイデンティティなどの多様性の相互尊重と相互理解の大切さを学ぶ。
・中央と地方の行政のしくみ、公共サービスに必要な税のしくみや使途、市民の行政の公益活動への参加と貢献の方法について学ぶ。
・議会制度や政治機関の特質、選挙制度や投票行為の重要性について学ぶ。
・社会におけるメディアの役割と重要性、主体的な活用方法について学ぶ。
・“グロバール・コミュニティ”としての世界について理解を深めるとともに、政治的、経済的、環境的貢献の在り方について学ぶ。

 (2) “調査とコミュニケーション”
 のスキルを育成する
・地域社会におけるフィールドワークや、アンケート調査、聞き取り調査、さらには新聞などのメディアや、コンピューター・メディアなどの情報源を活用し分析することによって、時事的、政治的、精神的、道徳的、社会的、文化的論点や問題点について考える。
・そのような論点や問題について、個人的意見や考えを口頭や文章で発表する。
・グループ討議に参加し、そのディベートの技術やルールについて学び、達成感を喜ぶ体験をする。

 (3) “参加と責任ある行動”
 のスキルを育成する
・想像力をはたらかせて、他者の経験を理解しようと努力をし、自分のこととして考えたり、表現したり、説明したりする訓練をワークショップなどを通して行う。
・目的達成のために交渉し、合意を見つけだし、決断するプロセスを体験する。
・青少年が主役となる機会を多様につくりだし、参加のプロセスを体験し、評価し反省しあう。
・社会教育や、コミュニティにおける責任の一翼を担う機会をつくりだす。


労働党から保守党への教育政策の転換

ところが、2010年の英国総選挙によって、労働党は政権の場を奪われ、新たに保守党政権が誕生した。保守党政権は、新たに省庁の再編成を行い『教育省』(Department of Education)を誕生させた。

保守党政権の「市民学習」(Citizenship)教科についての考え方は、ブレア労働党時の「市民学習」の導入に与野党を越えて賛成した経緯から、政権交代後も重要な教科として継続させ、学校教育カリキュラムとして継続させることになった。

2010年11月に『教育省』を直接訪問し「市民学習」担当者にインタビューした回答によれば、新政権においては、労働党政権の教育政策を引き継ぐとともに、より教育の自由化へと舵取りをする方針であるとの回答だった。それとともに、カリキュラム改革の一策として必修科目を可能な限り減らし、各自治体や学校のカリキュラム選択の自由裁量権限を増やす方向だとのことだった。

その結果、2011年9月からスタートした必修科目「シティズンシップ」教科は、2011年9月からは選択教科となり、各学校の自由選択に委ねられることになった。保守党政権の選択は正しかったのか、イギリスの社会の動きと教育状況をこれからも観察していきたいと考えている。

イギリスの「市民教育」の可能性と課題について、ロンドン大学のジョン・アネット教授(Dr. John Annette, Professor of Citizenship and Lifelong Learning)は、私にこう助言した。

「市民教育は、教師の挑戦的取り組みによって成果をあげていくものである。そのためには、教師はつねに社会の動きに深い関心を持ち、社会の現実を体験し、人びとや社会のニーズをよく感じ、よく聴く力を養成することである」

 “水に入らなければ泳ぎを憶えることはできない”というイギリスの諺(ことわざ)のように、教師もまた“水に入る”ことが求められているのである。

 

【参考文献】
『Citizenship=The National Curriculum for England』 (Department for Education and Employment, Qualification and Curriculum Authority )
『Crick Report』(Department of Education, UK)
『希望への力~地球市民社会の「ボランティア学」』(興梠寛著・光生館発行)
『英国の市民教育』(興梠寛他共著・日本ボランティア学習協会発行)
『世界はいまボランティア学習の時代』(アレック・ディクソン著・興梠寛訳・JYVA出版部) 

VSL研究会|市民教育|グローバル
  1. 地域と出会う
  2. コラム
  3. イギリスの市民教育は時代の扉を開くのか