コラム

日本人のこころ

 先日、機会があって京都に能面の展覧会に行ってきました。恥ずかしながら、能の舞台も鑑賞したことはなく、何の知識もなかったのですが。能面は、ただの長方形の木のブロックから、少しずつ彫り進め、最終的にはお面の型となり、顔料で絵付けするその工程も初めて知りましたが、なんとたくさんの方が能面作りに魅せられているんだろうということに興味を持ちました。なぜ能面なんだろう。きっと何か魅かれるものがあるんだろう、奥深いものなんだろうなと。案内していただいた方は、習い始めて7年目、まだまだですとおっしゃるものの、よくできているなあ、と感心して、私のような素人はきっと面(おもて)の出来の違いは分からないだろうなと思いながら観覧していました。女性の面は年齢の違いでいくつかの種類があり、他に老人や鬼のようなものもあり、だいたい種類が分かってきました。
 展覧会の順路終盤に、師匠が作られた面があり、その前に立ったとき、何とも言えない雰囲気に思わず、す~っと引き込まれるような感覚になりました。『増女』という中年の女性の面でしたが、全部同じような造りのはずなのに、すっとした目元と、わずかに開いた口元の様子が何とも品があり、そして憂いのような、哀しみのような微笑みのような、そのような印象をもちました。

 展覧会では能面をつける体験もあり、つけてみたところ、左右のわずかに開けられた穴から全体は見渡せず視界は極度に制限され、面のため自分の顔は隠れているということと、面の表情の様子が自分として見られるのだという不思議な感覚でした。
 帰って家族に面をつけた写真を見せると怖がられて、その夜寝ている私の顔が一瞬そのお面のように見えて怖かったと言って笑い話になりました。やはりそれほどインパクトの強いものなんだと。怖いのは、それとは特定しないけど何となく女性の怨念のような、また憂いや悲しみの感情を感じさせるからなのか、またそう感じ取るのは、自分の心を映しているのかもしれません。私も普段、怒ったり、悲しんだり表情は七変化ですが、それよりもはるかに、一見無表情に見える静止したお面からこんなにも心が揺さぶられるとは、ほんの少しだけ、能面の魅力に近づきました。

 そうなると、いつか能の舞台を見てみたいと、本屋で初めて古典芸能の棚で少し立ち読みし、なるほど、能とは亡霊の無念の物語、そして「省略の美」だそうです。舞台の背景もいつも同じ一本の「老松」のみ、でもそれは全ての自然を代表しているそうです。能の動きというのも、昔から同じ「型」が継承され、極限に簡略化した動きだそうです。そこには演じる人の主体性はなく、ただただ「型」を舞う。そのことが、観る人にとっては他のどんな具象物にも邪魔されることなく、情念そのものを受け取ることとなります。
 「型」で思いついたのは、私は最近フラダンスを習っていますが、先生はあまり指導はされず、真似をするよう言われ後姿を懸命に真似ているつもりでしたが、先生のような滑らかな指の動きを見て感覚として力を入れずぶらぶらと揺すると、本当にみっともない動きになるということ、実はフラダンスも、優雅に見える手の動きは、指先にまで力が入り、練習が終わると手に汗をかいているぐらい、力を使っているのです。「型」について、何でもそうじゃないかと思いました。初心者のうちは、基礎を何度も繰り返してきっちりと体に染み込ませ、それが遠い将来熟練したときには、少し型と違ったものがおのずと表現される、それがプロの美しさなのだと思いました。

 日本人は昔から、茶道や華道、絵画でも、余白を大事にしてきました。何もないから、たった一つあるものにすごく意味が浮き上がる。むしろ、そぎとってそぎとって、その先に、本当のもっとも豊かなものがあるのかもしれません。昨今の、物と情報にあふれた世界では、なかなか見落としがちなものに気づかされます。
 私もつい、あれもこれもと欲張って、得ようとすることをせめて少し戒めて、今自分にできることをただただ続けていこう、そんな気持ちになりました。

学生サポートルーム カウンセラー