コラム

実感をもつこと

 みなさんはほんとうの闇(やみ・くらやみ)をみたことがありますか。
 学生の頃、障害のある子どものサマーキャンプのボランティアで、京都の北の丹後の海に行った時の話です。昼間は子供たちと海水浴や焼き板作りなどをしたり、食事を作ったり汗だくになって何枚もの布団を干したりしたのですが、夜になりキャンプ場の周囲を周って点検する役割に当たりました。懐中電灯を持ってキャンプ場の周りの砂浜などを歩いたのですが、その日は月もなく、真っ暗闇でした。漁火(いさりび)といってイカ釣りなどの夜に明るい光をつけて漁をする船があると、海にいくつもの光がついて浜の方まで明るく見えるのですが、その日はそれもありませんでした。浜辺も海も空もしんとした暗闇なのです。程なく戻ってきて明るい部屋でいつものミーティングをしたのですが、あのしんとした暗闇はとても印象に残るものでした。
 町中では、24時間コンビニが空いていて、あかりが消えることはありません。インターネット上のタイムラインには常に情報が流れ、わからないことはすぐにネットで検索をすることが私たちの日常になっています。
 私には時に、それはしらじらとした闇のない明るさのように思えることがあります。目に見えるものや、わかりやすいものは収まりが良いですし、次々と新しい情報を処理していくことを求められることも多い現在、目に見えないものや分かりにくいものの価値は相対的に軽くなりやすいようです。しかし、明るさや光は、背景となる暗闇があって初めてくっきりとした実在性が生じてくるのではないかと思います。しらじらとした明るさの中では、どこか現実感を欠いていたものが、暗闇を通して光に当ててみると不意にその実在を知らしめ、実感を持って感じられるように。浜辺で暗闇を見た後にミーティングに出た時に、これまでと少し違った鮮やかさを感じたことがそうでした。
 話は少し変わりますが、分析心理学の創始者ユングは、自伝の中で、実際に起こった外的な出来事よりも、夢やヴィジョンを含んだ内的な体験の方が、はるかに自分にとって意味を持っていると述べています。外界の捉え方には人によりタイプがあり、皆がユングのように内的な世界を一番に大事にするとは言えませんが、たくさんの情報や明確さに慣れている現在の私たちにとって、暗闇の存在を思い出すことや体験の中に背景としての暗闇を取り戻すことは重要性を増しているように思います。体験がより厚みを持ったものとなるというと近いでしょうか。自分自身の実感を持って捉えたものは、心に残りますし、個人の行動の指針となることもあります。
 私たちにとって、暗闇はどこにあるでしょうか。大学生の皆さんにとって、普段の日常の中で、わかったと思っていた勉強を違う視点から見ると新しい発見があった時に、また、こういう人だと思っていた友達に新しい側面をみて驚きや喜びを持つ時に、壁にあたって悩んだ時に、本や映画にイマジネーションを働かせてみる時に、一つ一つの貴重な、暗闇と光の体験はあるのではないでしょうか。

学生サポートルームカウンセラー