コラム

映画から学ぶ 依存症の論理

 なにやら重苦しいタイトルだがお付き合いいただきたい。カウンセラーは映画好きな人が多い気がするが、私も映画をよく見る。その濃密な描写を通じて、人間の生き様を学ぶことが多い。
 今回は依存症について、ある映画から学んだことを書いてみたいと思う。
 
 ポールトーマスアンダーソンというアメリカの映画監督がいる。処女作を撮ったのは1998年で、その年に生まれた人がちょうど成人になるくらいのキャリアがあるが、作品数は8作品と寡作である。しかしその中でいくつもの映画賞を受賞しているいわば「天才」と評される監督である。
  この監督の作品には依存症を抱えた登場人物がたくさん出てくる。薬物やアルコールなどの場合もあれば、金や権力、過去の栄光、人間関係などに“取り憑かれた”人たちもいる。代表作の「マグノリア」(2000年)は、そんな依存を抱えたやや奇天烈な登場人物たちによる群像劇である。
 
 今回は「ザ・マスター」(2012年)という作品について話をしてみたい。

 映画は、太平洋戦争時海軍兵であった主人公が、赴任先の南国で、戦闘行為にも及ばず、浜辺で飲んだくれているシーンから始まる。そう、主人公は重度のアルコール依存症である。帰還したばかりの主人公は、他の帰還兵と一緒にひとところに集められ、次のように言われる。『これから社会に出て、商売をするのもいい、店を開くのもいい、云々』 くしくもそのときアメリカは、戦後の好景気に湧く黄金期であった。戦争のさなかにいた人間が突然社会に放り出され、“アメリカンドリーム”を叶えるよう言われるのである。

 その後主人公は飲酒をやめられないながら、それでも職を見つけ、一見うまく適応しているようにふるまっている。(そのとき就いていた職が、アメリカンドリームを叶えた一般市民たちのポートレイトを撮影する仕事であったことはなんとも皮肉である。) しかし、依存症と、それに伴う暴走によってどんどん社会とのひずみが生み出され、主人公は職を追われ、逃げるように職を変えていく。いつしか酒を飲むことが目的になり、職も失い、無一文の状態で他人の客船に忍び込む。そこでのちに傾倒し、人生を共にする宗教家(マスター)と出会い、その人との関係を通して、主人公の心に慰めと自由さがもたらされる様子が描かれる。主人公はマスターの側近になることで、宗教集団での居場所も見つけたかのように見えるのだが、もちろん映画はそこでは終わらず、その後主人公とマスターの関係にひずみが生じていく。後の展開については映画をぜひ見てみてほしい。

 注目したいのは、主人公が帰還した直後に心理検査を受け、なんらかのトラウマを追っていることが示唆される短いシーン(*)が差し挟まれていることである。戦争や、あるいはその前から背負っていたかもしれない、心の傷になんの手当もされないまま社会に放り出された主人公は、道を見失ったまま依存行為によって自分を支え、社会に適合していこうとしているようにも見える。

 こうした描写について考えながら、かつて薬物依存の当事者であった人が述べておられたことを思い出した。要約すると、『他人から、薬を使ったのは生きづらさがあったからだろうと言われることに違和感がある。依存症のさなかでは、どうやって次の薬を手に入れるか、など依存行為を続けることで頭がいっぱいで、生きづらさなんて感じている暇がなかった』、と。依存症のさなかでは、“生きづらさ”という言葉ではくくれない心の問題は本人からも見えなくなっているのだということを実感させられるとてもリアルな言葉である。

 「ザ・マスター」の主人公も、アルコールに依存することで自分の傷つきや痛みを緩和させ、社会に適合しようと必死であったのかも知れない。しかしそのために、本人の傷つきや痛みは社会からも、そして本人からもどんどん見えないものになっていったかも知れない。 そして、主人公がマスターと出会ったことで、自分について見る目が開かれていったように、そうした傷は、共に眺めてくれる誰かがいて初めて見えてくるものなのかも知れない、ということを考えていた。
 
 依存症は、いまだ偏見にさらされやすい疾患のひとつであるが、依存を持たざるを得ない理由もまたあるのではないかということを、映画を通じて学んだ次第である。

 なお、ポールトーマスアンダーソン監督の最新作、「ファントムスレッド」(2017年)が公開となった。これもまた、“美”に取り憑かれた人の話である。興味のある方はぜひ見てみてほしい。

(*…これについては、あくまでも個人的見解であることをお断りしておく。)

学生サポートルームカウンセラー