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脱<エデュテイメント>の時代へ

 私は、ゲームが子どもの教育に良いか悪いかについての議論は早く終わりにするべきだろうと思っている。それをどのように活用するべきであり、どこにどのような問題があるのかを具体的に明らかにしなければならない段階なのだ。

 既婚女性を対象にサンケイリビング新聞社が実施した最近の興味深い調査によると、子供を持つ20代から40代の767人のうち、子育て中の女性に限れば70%がゲーム経験者であり、「現役ゲーマー」も29%にのぼる。40代の世帯の88%がゲーム機を所有しているという項目も併せて考えると、家電なみに一般家庭に普及したゲームを「家族とのコミュニケーションツール」として利用している親子像が浮かび上がる。

 お隣の韓国では、コンピューターを通じて多数のユーザーが同時に遊ぶネットワークゲームの普及率が非常に高く、教育熱心な家庭内では親の目が厳しくてなかなかできなくても、市中に多くあるPC房(ネットカフェ)で多くの若者が興じている。当然、そのような熱中がある種の依存症のような状態になることもあり、社会問題化している側面もあるが、他方で、私の知己の大学教授がネットワークゲームを利用して実際に経営戦略の講義を実施しており、学生には大変好評だと言う。

 また、北米を中心とする海外では、ビジネスや軍事、教育、医療福祉などの社会的課題を解決するために積極的にゲーム技術を応用することが急速に進んでおり、「シリアスゲーム(Serious Games)」や「デジタルゲームによる教育(Digital Game-Based Learning)」という用語も登場している。具体的には、書籍による学習だけでは対応できない実践的で利害関係の込み入った社会問題を考えるシミュレーション、リアルでは危険すぎる環境、あるいはコストのかかりすぎる環境を簡便に再現するためにさまざまなゲームが応用されたり開発されたりしている。

 また、ある種のゲームソフトが外科医のトレーニングや高所恐怖症、閉所恐怖症等の治療に役立つという事例も報告されている。「エデュテイメント」という言葉には、使われる文脈によって、無味乾燥な学習をゲーム性を利用してなんとか楽しくやりとげようというような無理を感じることがあるが、そのように無理をしなくても現実の方がゲームを必要としてきている。社会が高度化し複雑化すればするほど、活字を読むだけではない「行為を通じた学習(Learning by doing)」の重要性が高まり、ゲームはそのために有効で画期的なメディアなのである。

 それは、特にハードウェアとしてのゲーム機ということではない。デジタルなゲームという文化そのものが世界の若者から中堅世代共通のメディアとしてすでに確立しており、ゲームジャンルの枠組みの特徴や、パソコンのキーボードに比べて直感的に操作しやすい独特のコントローラーなどを含めた「ゲームという環境」がある種の共通言語のような意味合いをもちつつあることに注目すべきである。ゲームを勉強や仕事の合間に気分転換に楽しむものという位置づけにとどめるのはもはや「もったいない」ことだ。勉強や仕事そのものの内容を含み、それを実践的に学習していくツールとして活用していくことを考えるべき段階なのだ。

 しかし、ゲームを制作している企業側は、シリアスゲームに見られる新しい可能性に気づきつつあるとはいえ、営利企業である限り市場性を度外視した分野にはなかなか踏み込みにくい。最近、政府主導で強まりつつあるコンテンツビジネスに対する政策的支援は、そのような新しい分野、エデュテイメントを超えたゲームの可能性を試行する現場や方向性についてこそ積極的に行われるべきだ。

 世界中でゲームの大衆文化を作り上げた任天堂のファミリーコンピューターで遊んだ小学生はすでに三十路を越えており、親の世代になりつつある。初めてテレビの中に出現した操作可能なデジタルエンターテイメントに驚いたこの世代は、ゲームが実現したおもしろさの本質を知ると同時に、ゲームでは知ることのできない現実社会の中での経験も蓄積してきているだろう。この世代こそが先導して、すべての親たちが、冷静で健全な、そして成熟した「ゲームリテラシー」を持つべき時代なのである。



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掲載紙:『毎日エデュケ』 2005年2月12日号